「おはよう九頭龍くん」



 いつもの通りの朝食だった。白米と、大根と油揚げの味噌汁、鮭が一切れと、小松菜の煮びたし。この施設に回される食料の供給量を思えば、上々な朝飯だ。
 混雑する時間帯を避けたおかげか、食堂は静かなものだった。誰とつるむでもなく食事を摂る。そこにが現れたとき、正直に言えば、もうオレは心の準備をしていたのだ。
 小泉が目を覚ましてから今日で四日だ。他の連中が慌ただしく動き回る中、オレは今までと変わらない日々を過ごしている。日向は小泉のケアと監視、ソニアも終里も自分の仕事の合間を縫って、小泉の容体が安定した昨日あたりから顔を出しているらしい。左右田も日向がいなくなった分、紐山と一緒にプログラムの微調整を行っているとかで、目の下のクマが著しい。は本部への報告や今後の調整、その合間に小泉の見舞いに行っているようだ。元々仕事量が桁違いに多いは、そろそろ潰れてしまうかもしれない。
 そう勝手に危惧していたはオレの前に朝食の乗ったトレイを置くと、オレの名を呼んだ。ちゃんと睡眠時間を確保できているのかすらあやしいと思っていたが、それはいつも通りの彼女の声だった。



「おう」



 短い返事だけをして目線を合わさずに黙々と咀嚼する様に努める。
 が小泉の件で何かオレに話がしたいのだろうということは察しがついた。それに応じる気がないわけではないのだ。そのうち声をかけられることは分かっていた、ただ、どんな顔をしたらいいのか分からないだけで。



「あのね、ちょっと話があるんだけど。今いいかな」



 けれど、こいつは見た目以上に強い。オレが作った壁なんて、平気で蹴り壊して穴から顔を出す。手を突っ込んで、手さぐりでオレの体に触れて、無理矢理引きずる。
 茶碗に残ったご飯粒を残さず口に入れてから飲み込む。ややもするとそれは緩慢な動作に映ったかもしれない。



「構わねえよ」



 どのみち、いつかは向き合わなければならなかった。腹を決めて箸を置いたオレに、けれどが続けて吐き出した名前は、小泉のものではなかったのだった。「あのね」言いにくそうに、は表情を曇らせる。



「……辺古山さんの話なんだけど。辺古山さんを起こすのは、少し後になると思う」

「は?」

「あ、えっと決定ではなくて、というか予定通りに行くことのほうが稀だと思うから、結局今組んだ案もどうなるかはわからないんだけど」

「あ、いや悪い、それは、たちに従う。気にしなくていい」

「え、そっか、ありがとう」



 じゃあなんで驚いた顔をされたのか分からないとでも思われただろうか。はそれでも安堵したように小さくため息を吐く。
 小泉の話ではないのか。オレは今、どんな顔をしていたのだろう。気まずくて目を落とす。覚悟をしていたのだ。たとえば、小泉の治療のために極力顔を合わさないようにしてくれ、だとか、小泉がオレのことを憎んでいる、だとか、そういったことを彼女の口から聞かされることを。
 小泉の目覚めから数日が経った今、オレが恐れていたのは、後者であったことを認めなくてはいけない。



 いや、だから、いいんだってペコ、気にすんな。



 の女らしい柔らかな声と、背後のペコの、鈴を思わせる声が被る。混乱なんて今更しない。オレはペコの声なら、どこにいたって聞き分けられる。ペコの言葉に顔色を変えることもなく、と会話を続けることなんて造作もなかった。自分の中に生まれた気まずさをかき消すために、口を開く。



「あいつは体だけは鍛えてたからな、他の奴のほうが衰弱が激しいっつーんなら、優先すべきやつを選べばいい」

「そう言ってもらえると少し気が楽になるな。……一人ずつになっちゃうけど、皆を起こそうね、絶対」



 起こす。
 どういった状態で、とは、彼女は言及しなかった。の前に置かれた茶碗の米が、少しずつ水分を失っていく。それでも構わずには話し続けた。これで終わりではないらしかった。むしろ、これから話すことの方が本筋なのだというように、は背筋を正す。



「それでね、ひとつ、了承を取りたいんだけれど」

「……あ?」



 が言葉に詰まったように、一度目線を彷徨わせた。いや、詰まったんじゃなくて、選んでいるのか。優しい女だった。は小泉を殺したペコが処刑される寸前まで、あいつの手を握っていてくれた。オレはそれを、今でも感謝している。
 が思い切ったように顔をあげる。化粧っ気のない目が、まっすぐ俺に向けられる。



「辺古山さんの過去を知るために、九頭龍くんのデータを見させてもらってもいいかな」

「……」



 こいつは、だから、馬鹿だ。
 そんなこと、勝手にすればいいのに。この施設の責任者であるは、あのプログラムを遂行するために必要とされるであろう様々な権利を持っているのだから。
 オレのデータなんて好きにすればいい。そもそも、オレにそれを拒絶する権利などはなからないも同然だ。希望ヶ峰学園に通っていたころだろうが、絶望の残党と呼ばれていたころだろうが関係ない。オレがかつてプログラムから目を覚ました後に取られた記録を、こいつはいくらでも見る権利が与えられている。――いや、それはもう既に権利というよりも、義務ですらあったはずだった。なのに、は勝手にそれを見ることをしなかった。わざわざ了承を取ろうとオレの元にやってきた。
 の目線が痛くて、やわらかな丸みを帯びたその瞼が、何故か何かの刃物のようですらあった、見ていられなかった。こいつの正義は、時折オレを容赦なく刺していく。








 プログラムから目を覚ました時、オレの意識は濁っていた。
 白が見えた。見上げた空は曇天で、そこから落ちる牡丹雪が、オレの頬を殴っていくようだった。オレはどこにいるのだろう。雪。砂。教室。菜摘の部屋。どこでもない。オレはカプセルの中にいた。破けた殻はもうオレを守ってはくれなかった。体が動かない。それでもあたたかな手が、やがてオレの手の甲に触れた。



「……ペコ」



 長い髪を編んだ、すらりとした体躯を持つ眼鏡の少女。オレのヒットマン。うわごとのように口の端から漏れた呼びかけに、その指がぴくりと動いて、やがて微かな痛みを覚えた。手の甲に爪を立てられたらしかった。その指が、震えていた。「大丈夫だよ」彼女が言う。



「うん、だいじょうぶだよ九頭龍くん、ちょっとだけ、休もうね」



 ペコの声ではなかった。ペコはそういえば、もっと冷たい手をしていた。ぼやけた輪郭の少女は、おろした長い髪を一房だけ耳にかけた。それは、ペコのする仕草ではなかった。
 オレたちよりほんの少しだけ早く目を覚ましたあいつは、自分だってぼろぼろで、体を動かすことすら億劫なくらい、支えがなければ立てないほど衰弱していたのに。なのに彼女はオレの手をはなさない。
 は間違いなく、オレたちを救おうとしてくれていた。








 目を覚ましたオレたちは、未来機関十四支部の、十神とかいう男に調書を取られた。……オレたちの知っている十神とは違う、随分と高圧的な態度の御曹司様は、それでもオレたちを絶望の残党として扱いはしなかった。客観的に淡々と、それぞれの事実を照らし合わせていった。
 強制シャットダウンを経て現実世界に戻ってきたオレたちは、どういうわけか全ての記憶を持っていた。無論、段階的に思い出したことではあったけれど。だけどその頃にはもう、学園生活でのことも、絶望の残党と呼ばれていたころのことも、未来機関にわざと保護されたことも、プログラム内で過ごした日々のことも、滲むことなく、鮮明に思い出していたのだ。



「どうしてお前は、あんなことをしたんだ」



 一体あの頃のお前に、何があったんだ、と。どうして絶望に染まったのだ、と。  抑揚の乏しい声だった。十神はオレを責めなかった。淡々と、凪いだ海のような声音で尋ねた。目を伏せる。視力を失った片目の奥が疼く。残された左目が、ペコの幻覚を見る。



「――オレは」



 はその頃、自分の体力を回復させることに専念していた。とオレたちには伝えられていたけれど、実際はプログラム内で共に過ごしたオレたちと、隔離させられていたのだろう。
 の存在は異質だ。オレたちとあの島で生活していたくせに、あいつは誰も殺しちゃいない。絶望に染まったことなどただの一度もない。そこが過去のオレたちとは、決定的に違う。その差異にオレたちが苦しむことがないようにという温情だ。オレはそう見ている。
 十神は涼しい顔でオレを見つめていた。こいつでよかったと思った。懺悔をする相手がだったら、オレはきっと言葉に詰まって、何も語れなかっただろう。オレのしでかしたことを知って悲しませるのは本意ではない。そう思っていた。








 だけど、今目の前に座るはそのとき取られたデータを見せてほしいと言っている。オレの過去を、ペコのために、オレが過去にしでかしたことを。彼女は知ろうとしている。唇が渇く。
 そうしている間もペコの声が聴こえる。ずっと隣にいる。ああ、大丈夫だ、オレはもうそろそろ、向き合わなければいけないことを、知っている。小泉が目を覚ました。黒々とした窪んだ目を毎夜夢に見る。これは罰だ。罰だ。



「構わねえよ。ただ」



 が瞬きを一つする。ペコの手を握っていてくれた、オレの手に爪をたててくれた、その柔らかな温かい手のひらが、ぎゅうと拳をつくる。



「お前さえ良かったら、データを見るよりも、実際に話を聞いてもらったほうが助かる」



 目を僅かに見開いたがオレを視界の真ん中に据える。オレはその双眸の中で、諦めたように笑っている。


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