梅雨の直中の、六月の終わりだったと言う。組員の一人が雨の音に紛れる赤子の泣き声を聞いたのは。
初夏とはいえ、雨は皮膚に纏わりついて体温を奪う。けれどその赤子は懸命に泣いていた。申し訳程度に巻かれていたキャラクターものの毛羽立ったタオルを蹴り、拳を振り上げて泣いていた。
捨て猫のように段ボールにいれられたへその緒のついた女児は、九頭龍組若頭であった男の、身重の妻が引き受けた。楽観的で、豪快な女だった。
「なに、赤子を一人二人育てるのも変わらない。それに見てよこの子の顔、とても利口そうな目をしているよ」
若頭だった男も、お前がそう言うのならと、捨てられた赤子を、夏に生まれるわが子と共に育てることを決める。その赤子に名前をつけたのは、女の方だった。息子の名はつけさせてもらえなかったのだからと、タオルケットのキャラクターの名前をその赤子につけた。あれも悪気はなかったのだ。数年後に男は少女となった彼女に謝罪するが、彼女は首を振るだけだった。道具である彼女にとって、名前は記号でしかなかったから。
そうして彼女は成長する。姉弟としてではなく、やがて組を背負う男になるであろう息子の、直属のヒットマンとして。
辺古山ペコは、そうして生まれた。生まれてから僅か数時間で、彼女の命は、生まれてもいない胎児の命を守るために使うことを定められた。おもちゃ代わりに与えられた模擬刀を抱いて、彼女は眠った。
夏の盛りに生まれた彼女の主は、けれど予定されていた通りに冬彦と名付けられた。早産だった。二人は並んで眠る。月例が近いと言えど、成長速度は未熟児であった冬彦よりもペコの方が早かった。けれどいつしか冬彦も、平均より小さなその背丈で走り回るようになる。ペコは常にその隣にいた。自我を持つよりも早く、彼女は言い聞かされていた。
「お前は坊ちゃんを守るために存在しているのだ」
ペコはそれに頷く。彼女の瞳の中央に、九頭龍冬彦は存在する。冬彦はそれを知らない。振り向いて手を伸ばす。生まれる前から傍にいてくれた彼女を、彼は真っ直ぐに愛している。

九頭龍冬彦の場合
小泉真昼が目を覚ました。
本部から派遣されてやってきた紐山嵐の作ったプログラムの成果であることは間違いない。あのプログラムは、日向たちが今まで身命を賭して作り続けてきた安全性重視のサイコダイブ用のアルターエゴとは違って、もっと強制的に脳に圧力をかけるものだと言う。「どんな影響が被験者たちに現れるか分からないけどね」と、性格に難のありそうなあの男はこともなげにそう言い放った。博打もいいところだ。
だけど、時間がないのだろう。は言及しなかったが、あいつがあそこまで頑なに紐山のプログラムを推した理由を、オレたちは察している。このままだらだらと時間をかけ続けることはできない。本部から何らかの通達があったのかもしれない。恐らく、島ごと処分される日が近いのだ。
だから、誰もあいつの決断を拒否したりはしなかった。日向と左右田が悔しそうに顔を歪めていたが、あいつらは、良くやった。結実はしなかったかもしれないが、あいつらが必死でプログラムを作り上げている間、オレは何もできなかったのだから。
正直、あいつらが羨ましかった。だって必死になればなるほど、現実から目を背けることができるんだから。無論、口にすることはできなかったけれど。
何かの代わりになればと肉体労働を買って出た。終里のやつがいるとあっという間に終わった。のため込んだ書類の処理を手伝った。ソニアと狛枝のほうがよっぽど手際よく片付けた。オレは眠り続けるあいつらの脳波を確認する。穏やかな波を見ると安心する。変化のないデータを集め、報告書を作るのはオレの仕事の一つだ。つってもまあ、中学生でもできるようなもんだよな。
退屈な島での日々。自分にできることを探し続ける中、ふとしたときに脳裏によみがえる血だまりに、時折トイレで吐く。
そう、何か夢中になれることがあるやつは、いい。今の自分が置かれた状況を、冷静になって考える暇もないのだから。
オレたちは、罪を背負っている。それぞれがそれぞれの罪を。
初めてこの島に未来機関からの数人の職員が応援として回された日、オレは彼らが浮かべる表情の裏にあった真意を見抜いていた。底なしの憎悪だ。――この世界のどこを探したってオレたちを恨んでないやつなんかいないんだから、当たり前だな。
島流し。
本部の連中が、ジャバウォック島に送られることを揶揄してそう呼んでいることを知ったのは、それから数日後のことだった。
「誰が絶望の残党と仕事がしたいと思う? あいつらは、俺の恋人を奪ったんだぞ!」
荒れた男の声、それを宥める女のすすり泣き、オレの存在に気が付いた二人の青ざめた顔。あいつらは二週間後、本部から送られてくる物資の定期便に乗って帰った。未来機関を辞める所存だと言い放って。あの頃のは、見ていられなかった。
代わりにやって来たやつは、今度はずいぶん大人しい二人組だった。「ボクたちはあの事件で家族が死んだわけではないので」言い訳のようにそう言う二人は、きっとオレたちに気を遣っていたのだろう。二人は今でも、オレたちと一緒に働いてくれている。
だけど、だからと言ってオレたちのやってきたことが許されるわけではない。オレの罪は消えない。わかっている。忘れたふりをし続けるのも、もう終わりだ。だって、あいつが目を覚ましてしまった。
「なぁ、ペコ」
吐いたもので汚れた口元を拭う。鏡の中のオレは、酷くやつれているように見えた。
「小泉が、目を覚ました」
誰もいないトイレの洗面所、掃除当番のやつがサボったのか、もしくは落ちなかったのか、はたまたオレが汚したのか。蛇口にこびりついた汚れと目が合う。廊下で人の足音がして、やがて遠のく。
小泉が目を覚ました。つい今しがたのことだ。今頃あいつは車椅子に乗せられて、あらかじめ準備しておいたあの白い部屋で監視されることになる。あいつの監視役の役目を与えられるのはソニアか、日向か、その辺りだろう。なんにせよ、オレには関係がない話だった。オレはあいつに近づけない。
あの目を見たか。ペコ。黒々とした、窪んだ瞳だったな。
言いかけて、呑み込む。オレたちが殺した女の、空虚な目に打ちのめされる権利はオレにはない。けれどその双眸に背を向けたオレを責めるやつも、いなかった。車椅子だけを置いて、オレはこうして逃げた。オレは、責められて然るべきだったのに。それだけのことを、オレはあいつにしたのに。
短かった赤茶の髪の毛は、鎖骨より伸びた。衰弱しきった肉の削がれた頬、骨のような腕、つるりとした丸い頭蓋。オレたちは繰り返す。繰り返す。繰り返して、ここにいる。
「は」
乾いた笑いが漏れた。
「お前のせいじゃねえよ」
声が掠れる、タイルの床に反響することすらもない微かな声だ、だけどお前には届いているんだろうペコ。鏡の中のオレが笑う。ペコが寄り添う。
「ぜんぶ、オレに責任があるんだよ」
オレが生まれてくる前から傍にいてくれたあいつの声は、今でもこうしてオレに届いている。ペコはオレの傍に、今もいる。