潮の音を聴いている。日向はただアタシの隣で、口を閉ざしたまま座っている。
 偶に咳払いが聴こえて、そういえば日向がいたんだったと思い出すくらいに、彼は存在感がなかった。彼はこんなやつだっただろうか。それとも、アタシに気を遣ってわざとそうしているのか。
 あの「修学旅行」の記憶は、実に曖昧だ。アタシの中に色濃く落ちた絶望の影は、あの島での日々を呑み込んでしまう。
 アタシの手の中には、アタシが目を覚ました日に日向が書いたメモがある。
 あの日、日向は、突然思いついたように筆を手に取った。アタシの動向を観察してメモでもしているのかと思ったけれど、腕に触れられて、小さな紙を渡されて、アタシは自分の中の血が音を立てて廻ったのを感じた。驚いた。アタシの中にはまだ、血があったのだ。
 お前は小泉真昼。俺は日向創。
 知ってるよ。言いたくても、声は出なかった。
 顔を上げたら、日向は後生大事にメモを抱えているアタシを見て苦笑した。
 ああそうだ、こんなやつだった、そう思う。こんなやつだった。日向創。半開きの唇からは何も出ない。二酸化炭素だけが、ひゅ、と惨めな音をたてて、真っ白な部屋に落ちていく。
 日向創。
 
 希望ヶ峰学園で関わることのなかった彼らは、けれど今アタシの傍にいる。一番近くにいてくれる。
 ちゃんは忙しいのか、アタシのところに来たかと思えば廊下で待機している狛枝に声をかけられて、慌ただしく去っていくことが多かった。一方日向の方は、ほとんど一日中この部屋にいる。アタシが何かしでかさないか、監視しているのかもしれない。
 この部屋には、何もない。カメラもなければ、テレビもラジオもない。カーテンのタッセルも取り外されている。アタシはなにもできない。ただ、海だけを見る。世界はどうなったんだろう。アタシの世界は今、この小さな箱の中。
 日向が書いたメモを握りしめたら、それは手の中で微かな音を立てた。








 日向は少しずつ、少しずつ、アタシに話をしてくれた。
 口で説明したり、時折紙に書いたり。声は出ないけれど、きちんと聴こえているから、そんなことをする必要はなかったのに、アタシの反応があまりにも薄いから心配になったのだろう。
 少しでも聴こえているという素振りを見せてあげれば、日向はそんな煩わしいことをしなくても済んだけれど、アタシは日向の武骨な手が作り出す字の造形が気に入っていたから、滅多なことでは反応を返したりしなかった。
 日向がアタシに話すのは、あの修学旅行でのことがほとんどだった。覚えていることもあったし、曖昧なこともあった。
 十七人で、島で生活をはじめたこと。その個性の強いひとりひとりのこと。探索をしたこと。女子だけでお菓子作りをしたこと。そのとき、居心地があまりにも悪かった日向が途中で退席してしまったこと。だから、その後のことは、偶然部屋に訪れたちゃんが詳しく聞かせてくれた。ドーナツ、クッキー、ベイクドチーズケーキ、あまりにもたくさん作りすぎて食べきれなかったのと、笑いながら、懐かしそうに彼女は言う。



「ベイクド以外はチーズケーキじゃねえっす! って、唯吹ちゃんが言ってね。」

「あはは、なんだそれ。レアは駄目なのかよ」

「レアは洒落こいてるっす! って言ってたかなあ」

「澪田らしいな」



 アタシは二人の話をただ表情を浮かべることもなく聞いている。覚えていないのだ。夢の中のように、ぼやけて曖昧だ。やがて、いつものように狛枝が顔を出す。



さん、時間だよ」



 二人は仲が良い、そういえば、狛枝が左右田たちに監禁されたときも、ちゃんはあいつに食事を持って行ってあげていたんだっけ。ちゃんが慌てて立ち上がって部屋を出ていく、その後ろ姿に、いつかの狛枝の声が重なって聞こえた気がした。薄い膜がべりと音を立てて剥がれていく。



「ありがとう小泉さん、こんなゴミクズのボクに食事を準備してくれるなんて、キミはなんて優しいんだ。でも朝はご飯じゃなくてトーストがいいな」



 白黒になってぼやけていた記憶が、徐々に鮮明な輪郭を描いて、色を成す。だけど、今の彼はアタシにあのときのような柔らかな目を向けはしない。
 二人きりになったとき、日向がアタシの心を読みとったかのように、口を開いた。



「そういえば、左右田と弐大に狛枝が監禁されたとき、お前、俺に食事を持っていくの押し付けたよな」



 確かあのときは、狛枝がアタシをわざと怒らせるようなことを言うから、腹が立ったのだ。だけどそのときに感じた怒りを、アタシはもう上手く思い出せない。「今思えばさ、あの頃から、は狛枝のこと気遣ってたんだよな」アタシの知らない日々を、彼らは重ねて生きている。



「……だから、よかったよ」



 日向が、なんてこともないように、いや、努めてそう装っているように、言った。なにが、とは続ける気はないらしい。だけど、彼が何を言いたいかくらいは私でも察することができる。「あの二人が一緒にいられて」。
 何だか頭が痛むような気がして、頭蓋に手を添えた。一度確かに陥没したはずのそこは、つるりと丸い。








 アタシがあのプログラムに入った理由を、彼らはアタシに説明したりはしなかった。
 二人がアタシに、しつこいほどに繰り返しあの修学旅行の話をし続けたのは、それも、楽しい思い出ばかりを選んで話してくれたのは、二人の優しさで、一種の現実逃避だ。アタシが取り乱すことのないように、彼らはアタシから真実を遠ざける。アタシが現実世界でしでかしたことを、彼らはアタシに教えない。
 ぬるま湯に浸かっているようだった。日々はアタシに優しい。眠っても悪夢を見ない。アタシの犯した罪を現実は折り曲げて小さくたたんでくれる。
 この島は、居心地がよかった。窓から見える漣を眺めていると心が凪いだ。あの黒い墨の垂れた日々を忘れていいと、言ってもらえる気がした。
 日向が、ちゃんが、アタシを許してくれる、ゆるしてくれる。やさしい二人、だけど、でも、アタシは知っている。気が付いている。ちゃんを呼びに部屋を訪れる狛枝の、不意にアタシを見つめる目が、ひどく冷えていることを。
 現実逃避は許されない。彼の双眸は、世界の声を代弁しているような気がした。








「でな、左右田のやつが、水着に選んできたのが、派手なビキニでさ」



 日向が口にするその話を聞くのは、何度目だろう。
 だけど日向は、初めてその話を聞かせてくれたときと変わらずに柔らかい笑顔を浮かべてくれている。アタシはそれを黙って聞いている。
 手首に繋がれた点滴の種類が、最近変わった。アタシが目覚めて、もう何日が経ったか。数えてないから、わからない。
 時折、ソニアちゃんがアタシの顔を見に来てくれる。茜ちゃんが差し入れだってお肉を持ってくる。「さすがにまだ食べらんねーだろ! おかゆとかにしろ!」と左右田が回収していく。九頭龍は、来ない。
 アタシは目を覚ましたときに彼が車椅子を持ってきてくれたのを見たときから、一度も彼に会っていない。だけど、それでいいと思っている。もしも彼が目の前に現れたとしても、アタシはどんな顔で彼を見たらいいかわからない。
 ちゃんは相変わらず忙しそうだ。いつも資料を抱えて、スニーカーで走り回っている。あまり眠っていないのか、血色が悪い。アタシの知っている彼女より、少しやせた気がする。あの子の事情は分からないけれど、少しだけ心配だった。
 体は以前よりも動かせるようになってきた。日向に付き添われてなら、多少の散歩にも出歩ける。だけど、相変わらずアタシの声は出ない。
 数日後、この島にお医者さんがきてくれるらしい。アタシのことも見てくれるそうだけど、たぶん、精神とか、そういう類の専門医だろうということは察しが付く。
 知らない人と会うのは、怖かった。このぬるい世界を壊されるのは、恐怖でしかない。責められるかもしれない。
 だってアタシは、見知らぬ大勢の誰かを絶望に突き落とした。これが自分の正義だと両手を掲げて、写真を撮って、真実を伝えて生きた。アタシはいい子だと信じて疑わなかった。
 賞賛の声が聴こえないことに気が付いたときには遅かった。アタシの歩いてきた道は、死体で埋め尽くされていた。戻れなくて、進むこともできなくて、蹲って泣いた、アタシの背中に誰かが触れた。「ねえどうして自分だけが汚れていないと思ったの」アタシが見捨てたあの子の声だった。



「この前もさあ、息抜きに泳ごうぜって、似たような水着取り寄せたからって渡してきてさ、勘弁してくれよ」



 日向は笑う。アタシの汚れを知らない日向は今日もきれいに笑っている。
 アタシは本当は、本当はもうずっと前から、もういいよと言いたかった。彼の口を塞ぎたかった。アタシの思い出話をする二人、やさしくてあたたかいきれいな二人。もういいよ。もう充分だ。もういいの。アタシは耳を塞ぐ、ぼろりと目からなにかが落ちる。笑っていた日向が、息を止めた。



「……小泉?」



 いい子でなくてはならなかった。そうでなきゃ、お母さんが悲しむから。それがアタシの存在価値だった。
 お母さんの真似をして写真を撮って、褒められて、嬉しくて幸せでそんな日々をいつまでも続けていたかった。好きな人たちに囲まれて笑っていられたらそれでよかった。嫉妬や羨望、期待で埋め尽くされたあの日々だって、受け入れていた。ああそうだと、思う、そこに正しさなんて、いらなかったんだ本当は。
 日向がアタシに手を伸ばす、アタシはその手のひらを掴む、どうして声が出ないのだ、どうしてこんなにも何かを伝えたくてたまらないのに、アタシの気持ちを代弁してくれるカメラがどこにもないのだ。
 日向の手のひらを持ち上げて空に向ける。「小泉」困惑した声で名前を呼ばれて、視界がにじむ。人差し指を日向の手のひらに乗せる。日向が息を呑んだ音がした。呼吸が乱れる。頭が痛い。世界が崩れる。いや、ちがう、とっくに壊れて終わっていた。
 アタシは何もかもに見ないふりをしてきただけだ。



 アタシはいい子じゃなくなってしまった。



 誰のせいでもない。九頭龍のせいでも、あの子のせいでも、お母さんのせいでも誰のせいでもない。
 アタシの世界を壊したのは、アタシだったじゃないか。
 アタシが日向の手のひらに書いた文字を、一文字一文字、彼は瞬きすらせずに見つめていた。
 やがて、日向が、は、と短い息を吐いて、アタシの指を自分の手のひらごと包む。そこに縋るように額をつける。首を振る。懺悔のように。だけどどうしてアンタがそんなことをするの。べとりとした、生あたたかい液体がアタシの右手に染み込んでいく。日向。日向。なんで泣くの。声が出ない。
 日向が、絶望に落ちた日のアタシを殺してしまう。



「――いい子じゃなくたって、いいだろ」



 そのとき、開けていた窓の外から強い風が吹いた。白いカーテンが、スカートの裾のようにはためいて広がった。アタシと日向を包むように、白く視界が染まる。
 何もない部屋だった。白い壁、白い床、ベッドのフレームもシーツも患者服まで真っ白で、ただそこには海と日向がいた。カーテンにつつまれる。狭かった部屋がずっと小さくなってアタシたちを抱きしめる。
 二人きりになったような気がした。この世界で、日向と、ずっと。昔から。海が近い。さざなみが聴こえる。ウミネコが鳴く。このましろの中、アタシが落としていった墨を、この世界はきっと許してくれない。
 だけど、もう、それでもいい、この罪を許してもらえなくてもいい。アタシは償う。アタシの汚れを、アタシはもう見ないふりなんてしない、目を閉じたりしない、耳も塞がない、だからどうか、どうかアタシが生きることを、ゆるして。
 聴こえてなんかいないはずなのに、日向がアタシの手のひらをぎゅうと握りしめた。それだけで、今度こそ真っ直ぐに生きていける気がしたのだ。








「何をしてるんだよ」



 窓の外を眺めていたアタシの背後から、日向が声をかける。
 この部屋で過ごすのは、今日が最後だ。今後は三階にある、未来機関の寮で寝泊りすることになる。生憎そこはここと棟が違うせいで、部屋から海を見渡すことはできない。
 身を乗り出して海を眺めるアタシの肩を、日向は遠慮もなく掴んだ。



「落ちるぞ」



 波は小さな飛沫を立てて黄色い砂浜を撫でていく。きれいだと思う。こんな美しい場所が、まだこの世に残されていたんだと、赤い写真ばかりを撮り続けていたアタシは思う。
 指で、カメラの形をとる。ストラップから持ち上げて、ピントを合わせる、ふりをする。
 アタシのカメラは、もうない。未来機関に没収されたらしいから、多分もう戻っては来ないだろう。
 アタシたちが、修学旅行で初めて訪れたあの砂浜を、海を、そこに確かに立っていた十七人を、けれどアタシの目はありありと思い出している。ひとりひとりの笑顔を。何もかもを忘れていたあの日のアタシたちを、アタシは覚えている。



 かしゃり。



 何万回と聞いたシャッター音が脳に響く。「小泉」日向がアタシの名前を呼ぶから、アタシはようやく振り向いた。



「もう、今行くって」



 日向が背中を向けたのを見計らって、彼が書いたメモをポケットに入れた。
 お前は小泉真昼。俺は日向創。
 アタシの正義は死んだ。覗いたファインダーに、きっともうあの子はいない。


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