「失語症?」
頷いた私に、液晶の中の苗木くんが考え込むように目を細める。真昼ちゃんが目を覚ましてから既に一日が経っていた。
紐山さんの作ったプログラムの第一被験者として彼女が選ばれたこと、プログラムを起動してから数時間後、脳波に微弱な影響が現れ、それが時間の経過と共に波が大きくなって、彼女は目を覚ましたこと。その詳細を逐一苗木くんたちに伝えてはいたけれど、こうして落ち着いて結果を報告するのはこれが初めてだ。
「一時的なものかな。無理矢理目覚めさせられた精神的なショックもあるだろうし」
「だといいんだけど……」
「それ以外は、どう?」
それ以外。問われて言葉に詰まる。「彼女に絶望だった頃の影響はみられるか」彼はそう問うているのだ。
口を閉ざしたまま目を伏せる。壁も床も白い部屋。四角くくり抜かれた窓の向こうの海だけが、覚めるような青をしていた。真昼ちゃんはその波をただ、ただ見つめている。
いつもカメラを持っていた彼女の肩にあった、あの飾り気のないシンプルなストラップは今はない。赤茶色の髪は肩より伸びて、時折彼女はその毛先に触れる。空っぽの目。かさついた唇。繋がれた点滴の管を受け入れて、ただ、彼女は海を眺めている。
「――危惧していたような事態にはならなかった。周囲に危害を加えようとする意思すら見せなかった。カメラがないことにも取り乱したりはしていない。だけど」
真昼ちゃんが島で私に見せてくれた笑顔が脳裏をかすめる。
あのプログラムの中で、真昼ちゃんは私を、いや周囲を、良く気にかけてくれていた。南国の暑さにやられた私を心配して、声をかけてくれた。親睦を深めるためだといって、お菓子作りを企画してくれた。笑顔を撮るのが好きなんだと言いながら、写真を撮ってくれた。
彼女は知っていたのだろうか、カメラを構えた真昼ちゃんは、誰よりも嬉しそうだったことを。凪斗くんに食事を持っていってくれたこともあった。かつて現実世界で殺人を起こした友達を庇った人。人間としての葛藤も弱さも優しさも、全て丸ごと抱え込んだ、私はそんな真昼ちゃんが、やっぱり好きだった。
「……でも今の真昼ちゃんはやっぱり、私の知っている真昼ちゃんじゃないみたいだよ」
それは、彼女に絶望の影響があるということを示唆する言葉だと知っていた。
部屋の壁に背を預けて、苗木くんと通信をしている私のことを見守っていた凪斗くんの視線が、後頭部に突き刺さったような気がした。
「彼女はさ、直接自分の手で人を殺したわけじゃないんだ」
通信を切ったあと、凪斗くんは私に温かいココアを淹れてくれた。白い陶器のマグカップを両手で引き寄せる。浮かび上がる湯気を見つめる。
「まあ、それはなにも、彼女に限った話ではないんだけどね」
凪斗くんはすべてを思い出している。思い出したうえで、客観的に、彼女のことを語る。
「だから、一番最初に小泉さんを目覚めさせるっていうのはいい判断だったと思うよ。例え絶望したまま目を覚ましたとしても、他害する可能性が一番低かったのは恐らく彼女だ。あとは、うん、弐大くんあたりもかな。だけどいざってときにボクたちが取り押さえるためには、女性のほうが都合がいいし。やっぱり最初の被験者は小泉さんであって然るべきだった」
饒舌に語る凪斗くんを見つめる。資料にも勿論目は通していたけれど、彼女をプログラムにかける前に、凪斗くんから大体の事情は聞いていた。そうでなければとれる対処もとれなくなってしまうからだ。
真昼ちゃんは直接人を殺したわけではない。一番衰弱が激しかったという事情もあったけれど、それを知っていたからこそ、私たちは彼女を一人目の被験者に選んだのだ。
「真昼ちゃんは世界中に絶望を感染させた」
呟いた言葉に、凪斗くんは頷く。
江ノ島盾子によって、あるいは他の七十七期生によって絶望に染まっていった世界、その情報を拡散させたのは、彼女の才能で、彼女の撮った写真だ。
荒れ果てた商店、道端の死体、血の付いた鈍器、子供を抱きしめ泣く母親、死体の浮かぶ濁った川、インターネット上にアップロードされた彼女の写真は瞬く間に世界を、人類を絶望に叩き落とした。「絶望の広報担当、ってとこかな」嘲笑うように彼は言う。
「例えその手で人を殺してなかったとしても、けれど間違いなく彼女は絶望そのものだ」
マグカップの中でココアがゆるゆると熱を失っていくのに、私はそれを口に運ぶことができない。
「真昼ちゃん?」
扉をノックしても当たり前だけど返事はない。それでも一応、数秒待ってから、扉を開けた。瞬間、潮の匂いが広がる。開け放たれていた窓からの潮風が頬を撫でるから、思わず「わー、きもちいいね」って零してしまった。
壁も床もベッドのパイプもシーツもテーブルもカーテンも彼女が着ている麻の患者服も、すべてが眩しいほどの白い部屋の中、真昼ちゃんは今もその身を起こして、窓の外を眺めている。真昼ちゃんの赤茶けた髪の毛が窓からの光を受けて、光の粒でも散らしたみたいにきらきら輝いていた。もし私に写真の才能があったら、きっと今シャッターを切ったのに。
この部屋には今、私と真昼ちゃんしかいない。彼女が目を覚ましてからずっと傍で様子を見てくれていた日向くんは、仮眠中だ。紐山さんとも今後の話も詰めなくてはいけないため、日向くんが不在の間ずっと私が傍にいることはできないけれど、それでもどうしても、ほんの少しでも彼女の顔が見たかった。声が聴けなくても、それでも。
真昼ちゃんはベッドサイドのパイプ椅子に腰かけた私に何の反応も示さず、ただ海を眺めていた。
真昼ちゃんは、どこまで覚えているのだろう。言葉を発さない彼女の横顔を眺める。こけた頬、窪んだ眼、水分の足りないかさついた唇、そばかすの散った顔に、表情らしい表情はない。
「……私のこと、わかるかなあ」
希望ヶ峰学園時代に、彼女と顔を合わせたことはなかった。
七十八期の私が学園生活の中で会話をしたことがあるのは、凪斗くんと、左右田くんだけだ。だからもしもプログラム内での記憶の一切をなくしているとしたら、彼女は私を知らないはずだ。恐らく、日向くんのことだって。私が座るパイプ椅子が、軋んだ音を立てる。
彼女は間違いなく絶望そのものだ。そう言い切った凪斗くんは、今は部屋の外で待機している。何かあったら叫んでと言われたけれど、目の前で力なく手足を放り投げる真昼ちゃんが、私に何か危害を加えるとはどうしても思えなかった。
「……プログラムの中で、いっぱい、気にかけてもらったね」
本当は、調書のためにメモをとらなくてはいけない。自分が話したこと、それに対する彼女の反応、ボイスレコーダーを起動させて、私はそれらを全て記録にしなくてはいけない。私にはそういう義務がある。
だけどどうしてもできなかった。私は今、身一つで彼女の前にいる。支給されたスーツすらも脱いで、私はいま、ただのとしてここにいる。
覚えているかな。彼女に向けて発した声が掠れる。
「島に着いたばかりで、手がかりを探すことになったとき、真昼ちゃんが、私に声をかけてきてくれたの。よかったら一緒に行こうって、それがすごく嬉しかった。具合が悪くなったらすぐに言ってって言ってくれてさ。真昼ちゃんがいてくれて、ほんとに気が楽になったんだよ」
真昼ちゃんは海を見ている。真っ白な腕にいくつもささった点滴の針。ぼとぼとと落ちていく袋の中の透明な液体、澱のように沈殿する彼女の思い出、覚えているか。
だけど真昼ちゃんは何も言わない。本当は衝動的にその手を取りたい。けれど一度に話して、負担をかけるのも本意ではなかった。私は、ともすれば溢れ出そうになる言葉を呑み込むために唇を噛みしめる。
ふと、サイドテーブルの上に手のひらサイズのメモが一枚破かれて置かれていることに気が付いた。癖のない字が並んでいた。何の気なしにそれを手に取った瞬間、息が止まった。引き裂かれたような痛みを感じた。内臓の一つ一つが、悲鳴をあげた。
お前は小泉真昼。俺は日向創。
どうしてだろう。彼女の傍に居続けた日向くんが残したその文字があまりにもきれいで、切実で、こらえきれなかった。声を殺して泣く私のすぐ傍で、真昼ちゃんは今も、ずっと海を見ている。