九頭龍の悪事を伝えなくてはいけなかった。
あの子が九頭龍に殺されたのはもう一年以上も前のことだったから、あの事件の証拠を今更見つけることはできなかったけれど、幸運なことに九頭龍はその後、大きな事件を起こしてくれた。後に「九頭龍組の内部抗争」と呼ばれるものを引き起こしたのが、組長の息子である九頭龍冬彦だったのだ。
一人、二人、三人。事務所の窓硝子が血で汚れていく。望遠レンズを駆使して彼が人を殺していく瞬間を次々収めるアタシは、正義のジャーナリストだ。内部抗争? そんな生易しいものじゃない、あれは九頭龍冬彦による大量殺人だ。五十人、六十人、百人、もう何人の死体が転がっているか。アタシも彼も、きっと正確な人数は分からない。
シャッターを切り続ける私のレンズの向こうに思いもよらない人が現れた。辺古山ペコちゃんだった。
ペコちゃんは返り血で染まった九頭龍に歩み寄り、彼を抱きしめる。奇妙な光景だった。あの二人がそんな関係だったとは思わなかった。といっても、二人の間にあるものがアタシの想像と同じものだとは限らないのかもしれないけれど。一瞬だけ意識を奪われたけれど、何だかもう、どうだっていい。写真だけでいいのだ。アタシには。
アタシは二人を、はるか遠く離れたビルの屋上で見つめている。九頭龍はどこか呆然としたまま立ちつくし、彼女を抱きしめ返さない。シャッターを切る。言葉通りの死屍累々。アタシはそれを、ネット上にアップロードする。
アタシは正しい。アタシが正しい。アタシだけが真実を世界に伝えられる。
荒廃していく街、瞬きの瞬間に起こる犯罪は今ではファストフード店よりお手軽に遭遇できる、転がる死体、切断された薬指にはまったプラチナの指輪。ストラトを掲げた血まみれの女の子。戦争。売られた国。殺戮マシーンに殺された女の子。いつの間に世界はこんな風になってしまったのだろう。写真を撮り続けるだけのアタシには分からない。アタシは写真を撮る。母のように。アタシはこの真実を世界中に届ける。
「お母さん。アタシ、いい子だよね?」
肉塊になった母の写真を、世界に向けてアップロードする。
名前を呼ばれた気がしたのです。まひるちゃん、って。
アタシは眠っていたのに。とろとろと眠っていたのに。すべてを忘れて真っ白な世界にいたのに。
アタシはそこではまだちいさな子供で、お母さんの帰りを、お手伝いさんと一緒に待っていた。
お母さんのくれたお古のデジカメをおもちゃ代わりにして、アタシはいろんなものを撮って歩いてまわった。胸の内側があったかくなった。みんなが笑ってくれるから。現像したピンボケの写真を見て、ありがとういい子だねって言ってくれるから。
アタシはいい子だから。いい子だから。いい子なのに。ねえ、なのになぜ、もうだれも笑ってはくれないの。なぜもうだれもありがとうと言ってはくれないの。正しいことを、真実を伝えるアタシの写真をみて、どうしてみんな泣くの。
どうしてみんな正しいアタシの写真に絶望するの。
目を開けたその先に、いっそもう何もなかったらよかった。
「――小泉?」
震える声で名前を呼ばれた。目の前を覆っていた薄緑色の膜が剥がされる。眩しい。眩しくて目を開けていられない。だれ。声が出ない。
「うそ……真昼ちゃん」
女の子の声がするけれど、それが誰のものかはわからない。日寄子ちゃんの声じゃない、そもそも、あの子はアタシをこんなふうに呼ばない。唯吹ちゃんでも蜜柑ちゃんでもない。九頭龍菜摘でも、あの子でもない。ならばここはどこなのか。アタシの記憶は混濁する。
体が重く、動かない。徐々に明らかになっていく視界の中で、いくつかの影がアタシを覗き込んでいた。それがたまらなく不愉快だった。無遠慮にレンズを向けられている気がした。
ああ、そういえばカメラはどこだろう、アタシは真実を伝えなくてはいけないのに、手で周りをさぐっても、あのアタシに馴染んだ硬質の手触りはどこにもない。代わりに壁に当たった。光に目が慣れた頃、それが壁ではなくアタシをつつんでいたカプセルだと知った。
段々と私を見つめる影の輪郭がはっきりしてきた。一番最初に視認で来たのは、私の知らない子だった。
知らない子。いや、本当にそうだろうか。黒いやわらかな髪、肉付きのあまりよくない身体に大きな瞳、アタシはこの子を知っているのかもしれない。だってこの子の肩に手を添えているのは、あの教室で一緒に過ごした狛枝凪斗なのだから。
その隣には、泣いている左右田和一だ。わけがわからない。ソニアちゃんも茜ちゃんも目を見開いてアタシを見ている。わからない。なんでそんな、皆が皆感極まったような顔をしてアタシを見ているのかが。
「小泉……」
「真昼ちゃん」
もう一度名前を呼ばれた。髪の短い男の子を見た瞬間、アタシは彼を知っていると直感で思った。震える声でアタシの名前を呼び泣く女の子。あの教室にいなかったこの二人の名前が、突如として鮮明に脳に浮かぶ。
日向創。
。
ああそうか、濁る記憶の中でその名前だけが確かな線を持って刻まれる。
手のひらに触れられた。慈しむように頬ずりされた。くすぐったくてたまらなかったのに、声が出なかった。皆に支えられて体を起こされる。頭が痛い。繋がる管を外される、体中が悲鳴をあげる。
「悪い九頭龍、助かる」
日向の声で、あの男がそこにいたことに気が付いた。
車椅子を持ってきたその男は、アタシと目が合うと、気まずそうに踵を返してどこかに消えた。
連れて行かれた部屋は白くて清潔で、ベッドと小さなテーブルがあった。窓の向こうは何となくどこかで見たことのあるような、海が広がっている。
ここまで車椅子を押してくれたちゃんが、「とりあえず、数日は休んでね。一人にはしてあげられないから、きちんと休むことはできないかもしれないけど」と、優しく声をかけてくれるけれど、アタシは返事ができない。彼女の隣の狛枝が、警戒するような目でアタシを探っているからというのもあったけれど、なぜか、息がうまくできなかった。
この部屋にもカメラはなかった。アタシは痩せ細った自分の手足に次々と刺されていく点滴の管をぼんやりと眺めながら、目を閉じる。
「小泉さんにはわたくしがついていましょうか?」
これはソニアちゃんの声だろうか。記憶の中の彼女よりも少しだけ、大人びた気がする。アタシはどうなんだろう。短かったはずの髪の毛が、肩を撫でる。「いや」誰かが言った。日向の声だった。
「小泉さえよければ、俺が傍にいてもいいか」
窺うような視線に、アタシは返事をしようとして、なにもかもが喉にはりついたことに気が付く。ああ、そうか、アタシはようやく思い知る。
アタシは声が出せない。