
エゴイスト
凪斗くんが目覚めてから数カ月後、本部からジャバウォック島にプログラマーとして派遣された男性がいた。希望ヶ峰学園七十六期生である紐山嵐さんというその人は、元の才能とは何の関係もなく、兎に角優秀な人だった。彼はやってきて早々に日向くんたちの作り上げたプログラムを改良してしまったのだ。
涼しい顔で「理論上はこれで問題ないはずなんだけど」と膨大な情報量を詰め込んだ資料を見せられて圧倒されたのは、記憶に新しい。
会議室として利用されるこの部屋は、今は私と紐山さんしかいない。プロジェクターを使う必要もなく、一つのテーブルに幾枚もの資料を広げて説明をしてくれたけれど、多分それを一からすべて解説されたところで、その半分も理解できなかっただろう。紐山さんもそれを理解しているのか、実に端的に、必要な情報だけを私に与えてくれた。
「すごいですね、こんなに手際よく……」
「いや、まだやってみないことには分からないしね。失敗する可能性だって十二分にあるよ。あいつらのやり方とは違うし」
「え?」
「左右田たちは、安全性を最重要視していた。僕のは博打だよ。……目は覚めるには覚めるだろうけど、どういう状態でかは分からない。絶望していたころの記憶を完全消去できる保障はない」
紐山さんは一度呼吸を置いて、それから私のことを見下ろした。
「どちらにしろ、これを使うか選ぶのは責任者の君だ」
責任感の重さに、無意識に唇を噛む私に、彼はため息交じりに続ける。
「ただ時間はないよ。本部の連中がそろそろこの島の施設を停止させるべきだって騒いでる。君も知ってるでしょ」
「……はい」
「時間と金と人員のかかりすぎ。しかも彼らは絶望の残党として目覚める可能性がないとは言い切れない。頭の固い連中から真っ先に切り捨てられるべき立場にあることくらい、わからないわけじゃないよね」
「……」
紐山さんは私の前に広げられた資料を一枚一枚集め、プロジェクト名の書かれた用紙を一番上にすると、すべて纏め終えて丁寧に角を揃えて、それから私に一式にして差し出した。
何十枚もの膨大な資料、これのプロトタイプを作ったのは日向くんと左右田くんで、目の前にいる紐山さんは、みんなを目覚めさせることだけを目的にそれを作り直した。それは、彼が既に残された時間が少ないことを知っているからだ。
「余計なお世話かもしれないけど、結論は早めに出した方がいい」
彼の作り上げたプログラムを使えば、きっとみんなは目が覚める。だけど、その先は?
「君が思っているほど、時間はないから」
紐山さんは、私の返事を待たずに立ち上がると、会議室を出て行った。一人取り残された私は、自分の手の中にある資料にもう一度目を落とす。完全に彼が扉を閉めたのを確認すると、唸りながら、そのまま机に突っ伏した。
時間がない。それは私にも分かっていた。
紐山さんの言うとおり、絶望の残党である彼らの生命維持装置を稼働させることすら、莫大なお金がかかっている。世界にとって尊い人命であるならばまだしも、未来機関にとっての彼らは憎むべき敵と言っても過言ではないのに、だ。
絶望の残党。かつて、人類史上最大最悪の絶望的事件を先導した彼らは、そう呼ばれていた。江ノ島盾子の手によって絶望させられ、人を殺し、悪意を振りまき、病のように絶望を伝染させていった人たち、それが彼ら七十七期生だ。
彼らを元の人格に戻すために秘密裏に行ったプログラムは、持ち込まれたウイルスにより頓挫した。
その後プログラム世界で行われたコロシアイを生き延びた五人と、私、そしてその後に自力で目を覚ました凪斗くん以外の皆は、未だにカプセルの中で眠り続けている。
日向くんたちが作り上げたアルターエゴは、彼らの深層心理を刺激し、当初のプログラムの目的通りに絶望時代の記憶を消して目覚めさせることを目的としていた。けれど、何度実験や改良を繰り返しても、一人の被験者が目を覚ますこともないまま、時間だけが過ぎて今に至る。
苗木くんたちからも手助けしてもらって本部を誤魔化してきたけれど、それもそろそろ限界だった。
「安全性の保障は、ない……」
体を起こして、紐山さんの残した資料を捲る。彼が作り上げたこのプログラムは、皆を「正しく」起こしてくれるものではないのかもしれない。
「他の皆はどうだろうね?」いつかの凪斗くんの言葉が、あまりにも鮮やかに蘇る。
机に肘をついて、手のひらで額を押さえた。日向くんたちが目を覚ましたときの、力のない瞳を思い出す。彼らは幸運だった凪斗くんは言う。
けれど、このままこの島の施設が停止され、皆が処分されるのを待つか、絶望に染まった状態で目を覚ますのを承知で紐山さんの作ったプログラムにかけるか、私の中で答えなんて既に決まっていた。
「さん」
翌日、七十七期生たちを含めた会議を終えて私と紐山さんが並んで会議室を後にしようとしたところを、凪斗くんに呼び止められた。
紐山さんに「すみません、ちょっと」と謝罪すると、凪斗くんと再び会議室に引き返す。入れ違いで出てきた左右田くんたちに不思議そうに振り返られたけれど、凪斗くんはそういうのもちっとも気にしてはいないようだった。
無人の会議室のテーブルに、凪斗くんはため息を吐きながらその手を置く。
「……本当にあの人が作ったプログラムにかけるつもりなの? さん」
真っ直ぐ私を見つめる彼の言葉に、首を振ることはしなかった。 微かにその眉根を寄せる彼は、怒っている。
「……皆が絶望として目覚める可能性も高いのに?」
「……うん」
「目覚めさせてどうするの? 絶望に染まった彼らを更生させるの? それができるって本気で思ってる?」
その言葉の端々が感情的になるのも当然だろう。そもそも彼は、他の皆を目覚めさせることに関しては否定的だった。リスクが高すぎる、って。
もしも日向くんや左右田くんが開発を進めていた安全性を重視したプログラムであれば、彼もここまで憤りを露わにはしなかったのかもしれない。凪斗くんが怒っているのは、これから皆に処置されることになるのが、紐山さんが作り上げたプログラムだからだ。凪斗くんは「可能性が高い」という言葉で表現してくれたけれど、実際強制力をもって彼らを目覚めさせる以上、絶望の残党としての記憶だけを持って目を覚ますだろうことは恐らく間違いない。彼らへの負担も、きっと計り知れない。
それでも、それを選ぶ他なかった。
「さっきの会議では言わなかったけれど」
呟いた声が、微かに掠れる。
「……時間が、もうないの」
「質問の答えになってない」
「それは、ごめんなさい……。でも凪斗くん、私や日向くんたちが目覚めてからどれくらいの時間が経ったか知ってる?」
彼の問いかけに答える気がないのを察したのか、凪斗くんは眉を寄せてあからさまなため息を吐いた。
「……もうすぐ一年、でしょう」
「そう、今本部ではその一年を目途にジャバウォック島の施設を全停止すべきだって声があがっている。お金と人員がかかりすぎているって。このままじゃ、皆の生命維持装置が止められてしまう。苗木くんたちが掛け合ってくれているけれど、きっとそれももう限界なの」
「だったらもう、いいじゃない、彼らはそれだけの存在でしかなかったんだよ。ねえさん、それが分からないわけじゃないでしょ?」
「なんでそんなこと言うの?」
気が付けば、大きな声が口から出ていた。目の前の凪斗くんがハッとしたように目を見開く。でも、一度吐き出した言葉をなかったことにする気はなかった。だって、私にとって「それだけの存在」なんかじゃないのだ、皆は。
視界の端に映る窓の奥には、今もジャバウォック島の景色が広がっている。プログラムの中とは違う。コテージは空っぽで、マーケットに商品はない、牧場は草だらけ、図書館の本は傷んで、電機街にネオンが灯ることはない、遊園地だって、錆びて腐りかけている、だけど私たちはたしかにこの島にいた。
お母さんのために人を殺してしまった花村くん、私たちを守ってくれた詐欺師の十神くん。
いつもみんなを気にかけていた真昼ちゃん、九頭龍くんのために命を懸けた辺古山さん。
ムードメーカーだった唯吹ちゃん、口は悪いけど根は優しかった日寄子ちゃん。
ロボットになっても豪快で頼りになった弐大くん、生き物としてのあるべき姿を教えてくれた田中くん。
そして、罪木さんはきっとあそこで過ごしていた彼女こそが本来の姿だった。
千秋ちゃんはもうどこにもいないけれど、だけど、会えるなら、もう一度会いたい。
皆に起きてほしい。一緒にお菓子を作って海で泳いでライブをやって、いつか平和になった頃遊園地に行って遊びたい、あの島で話せなかったことを話したい、できなかったことをしたい。私はそれをすべて、叶えたい。
「……苗木クンたちにできなかったことが、キミにできるとでも本気で思ってるわけ? 」
凪斗くんが、首でも絞められているかのような掠れた声で呟く。私はそれに首を振った。私には、できない、私だけではきっとそれは無理だ。事実、日向くんや左右田くん、紐山さんがいなければ、プログラムすら作れなかったのだから。
「私にはできない、でも」凪斗くんに何か言葉を紡がれるよりも早く、逆説の言葉を口にする。
「……日向くんがいるよ」
目線を合わせたら、凪斗くんが、泣きそうな顔をしていることに気がついた。だけど、言葉を吐きだすことを、私はやめなかった。
「左右田くんも、九頭龍くんも、ソニアさんも、終里さんも」
私の両肩を掴んだままの、彼の左手をそっと掴んだ。鋼鉄が、私の手のひらから温度を緩く奪っていく。
「凪斗くんだって」
ぎゅうと握っても、きっと彼には伝わらない。だから私は笑った。
「七十八期の私たちができなかったことでも、皆ならきっとできるって信じるのは、だめ?」
凪斗くんが、私に掴まれた左手をじっと見下ろしている。それから、どれくらいの沈黙があっただろう。だけど凪斗くんは、最後には「はぁ」って息を吐いてくれた。さっきまでとは違う、ため息というよりは柔らかな音でもって。
「……キミはほんとに甘いというか……希望的観測で動く人だよね」
許されたとは、言わない。私は私のエゴで、我儘で、いつも周囲を振り回していることを知っている。いつか痛い目を見るだろう、誰かに見捨てられることもあるだろう。だけどそれでも、諦めたくない。
私は他の皆より頭が悪くて、力もなくて、才能だって枯れかけた、だけど、だからこそこの諦めの悪さだけは、いつまでも持っていたいのだ。
「でも、絶望を乗り越えてこそ、希望なんだよ」
「それ誰の受け売り?」
「凪斗くん……」
「……」
やがて、凪斗くんが小さく笑った。「わかった、降参」言うや否やそのまま体を引き寄せられて、抱きしめられる。彼の胸の中は少しだけ暖かかくて、私は本当は苦しかったけれど、黙ってされるがままになっていた。
「……キミが心配なんだよ」
わかっているよ。返事の代わりに、彼の服の胸元を掴んだ。約束して、と彼は言う。
「彼らをプログラムにかけるときは、必ずボクを傍に置いて」
「はい」
「もしもキミに危害を加えようとする人がいたら、手段を選ばず反撃してしまうかもしれないけれど、……できるだけ加減はするから」
「……う、おねがい、します」
ぎゅう、と腕の力を籠められて、私は思わず息を止める。こんなときでも心臓がどきどきして、苦しい、この人が好きだとおもう、私の我儘に付き合ってくれるひとを、私はこんなにも、愛おしく思っている。どうしようもなく泣きたくなって、代わりに鼻を啜った。
二日後、紐山さんの作ったプログラムを起動することになった。会議で話し合った通り、絶望として目覚めることを前提とせざるを得ない以上、一度に大人数をプログラムにかけることはできない。衰弱の激しい人物を優先して、実験を開始することになる。
一人目の被験者として選出された人物の書類を机に置いた。超高校級のカメラマン、小泉真昼。貼り付けられた写真の彼女は、優等生めいた、どこか控えめな微笑を浮かべている。