「手術が終わったばかりなのに、ごめんね」
さんが来るまで起き上がって本を読んでいたボクは、サイドテーブルに読みかけのそれを閉じて置いた。扉の傍から、ボクの左手にさんは目線を落とす。遠慮がちでも不躾でもない視線が、今のボクにはくすぐったい。
「どう? 痛い……?」
「それほどでもないかな。痛み止めが効いてるんだと思うけど」
「そっかぁ……なら、ちょっと安心」
ベッドサイドのパイプ椅子に腰を下ろしたさんは、慈しむようにボクの新しい左手に触れたけれど、ボクにはその感触も温度も分からなかった。当たり前だけどね。さんは指先で撫でるように触れてから、はっとしたようにその手を引っ込める。
「あっ、ご、ごめんね勝手に触っちゃった」
「気にしなくていいよ、いっぱい触って。ボクももういやってほど触ってる」
「ほんと?」
ボクの言葉にほっとしたのか、再びおずおずとさんはボクの左手に手を伸ばした。ボクの、鋼鉄の義手に。
つい昨日まで、ここにはボクのものではない、ある女の腕がぶら下がっていた。江ノ島盾子のものか、それともその姉のものだったのか、ボクには分からない。さんにもう一度会うためとはいえ、世界一憎んでいた女の腕を自分のものと取り換える。そんなことを思いついた時点で、頭がおかしくなっていたということは認めるけれど。
「……一度に手術しなくてもよかったのに」
「でも、この島に外科手術のできるお医者さんが来る日って年に数回だって言うじゃない」
「そうだけど……」
「ボクが目覚めてすぐにその往診日が来るなんて、ツイてるな。やっぱりボクは幸運だ」
動くことも腐ることもない気色の悪い腕が自分にくっついている状態よりはよっぽどマシだけれど、腕がなくなって何もないっていうのも嫌だ。その点義手があれば、リハビリ次第では元の手指のように精密な動きもできるというではないか。ボクは早速手術を申し込んだ。しかもこの義手を作ってくれたのは超高校級のメカニックの左右田クンだ。ボクなんかのためにその才能を惜しむことなく使ってくれた彼には感謝してもし足りない。
右手で義手の指の一本一本を確認するように触れているさんの伏せられた睫毛を見る。「リハビリも少しずつしていけるといいねえ」と、柔らかな口調でさんは呟く。
「さん」
呼びかけると、彼女は素直に頭をあげた。その瞬間、髪の毛に手を添えて触れるだけのキスをすると、さんは目を見開いて固まってしまうから、つい笑ってしまう。
「な、なな?」
「なんか、したくなっちゃった。いやだった?」
両手を赤くなった頬に添えて俯いたさんは、困ったように小さく首を振る。その仕草に驚くくらいに胸を締め付けられるのだから、ボクも大概単純だ。そして同時に、安心する。
本当はいつまでもこうして恋人のお見舞いを享受していたかったけれど、そろそろ時間だ。ボクは自分の立場も弁えているから、彼女の仕事が円滑に進むよう力添えするのは当然のことだった。
「さて、さん」
ボクの仕切りなおしたような声音に、さんが自分の顔を覆っていた両手を下ろし、背筋を伸ばした。
彼女は未来機関の職員で、この島の施設の責任者になっていた(名前だけだと彼女は言うけれど)。一方ボクは、未来機関によって更生プログラムにかけられた被験者であり、かつての絶望の残党だ。
さんが、ずっと膝の上に置いていたクリップボードを持ち直す。
「なんでも聞いて。ボクに答えられることだったら、いくらでも答えるよ」
さんは随分大人びた顔をするようになった。希望ヶ峰学園に在学していた頃の彼女とは、まるで別人だ。その成長の過程を傍で見ていられなかったことを、ボクは今でも後悔している。
小さく頷いた彼女は、瞬間、僕の恋人という立場を手放す。「じゃあ、お話を聞かせてもらいます。今更ってこともたくさん聞きますけど、お答えください」畏まったその声も、本当は可愛いと思ってしまうけれど。
「――プログラム内の記憶は、ありますか」
「うん、勿論」
「……すべて、覚えていますか?」
「島に辿り着いた日から、自分が死ぬまでの間のことを全てと呼ぶならね」
「では、あなたはどうやって、し……」
「死んだかって? キミを生き延びさせるために、ボクは自分の才能を使ったんだけど、失敗したみたいだね。でも、結局こうしてキミは生き残ったわけだしボクも目が覚めた。ボクは自分の望む未来をこうして掴み取ってるんだよ」
「……そう、だね」
「喜ぶところだよ」
「……」
とは言え、さんにこの役割は向いていないのではないだろうか。ボクは嫌だけど、日向クンと変わってもらった方が彼女の精神衛生上いいのかもしれない。事実、さんの表情は質問を重ねるごとに曇っている。馬鹿みたいに優しいひとだから、彼女は他人の痛みをすべて倍にして呑み込んでしまうのだ。
「じゃあ、死んだ、あとは」
だけど、さんはボクがやめようと言い出すよりも先にそう言った。その目は確かに不安そうに揺らいでいたけれど、声にはしっかりとした意思があった。彼女が記したメモに目線を落とす。その字は黒々として、力強い。
嬉しいはずなのにな。少しそれが、寂しい。
「海を見ていた」
さんが、息を止めた。

狛枝凪斗の場合
海の中にいた。ボクは足首まであたたかな水に浸っていた。オレンジ色の火の球が空から降ってきたと思ったら、それはただの夕焼けだった。ボクはひとりだった。
一人立ち尽くしていると、声が聴こえた。最初は誰のものかわからないくらいに不鮮明で、不明瞭で、だけどその声が彼女のものだと気が付くのにそう時間はかからなかった。潮が満ちて、ボクの膝を波が舐める。
さんの声がするのに、この海には誰もいない。ボクは砂浜を振り向いて、果てまで歩いてみようと思いつく。さんがこの世界にいるわけがないとどこかで分かっていたのに、ボクは諦めが悪いらしい。
だけど、驚いた。足が海の底に縫われたように動かないのだ。やがて、ぼやけた音がしっかりとした輪郭を持つ。彼女の声がボクの中に落ちる。
「今日は、ソニアさんが私のことを一生懸命だって言ってくれたよ」
「そういえば、九頭龍くんにはムリしすぎだって言われたなあ、……そんなつもりはないんだけどな」
「終里さんに頭がいいって言ってもらえたんだ。お世辞かもしれないけど。でも、私もね、少しは処理能力が上がってるような気がするんだ。最近はやっと十神くんに貶されなくなったし」
「ブラインドタッチとやらもできるようになったんだよ。左右田くんが褒めてくれた。左手は、やっぱりちょっと動かしにくいけど」
「さて、じゃあ日向くんたちのところに行ってこようかな」
ボクは彼女の独白で気が付いた。ボクは失敗したのだ。ボクを殺したのはさんではなくて、七海さんだ。
みんなは裁判を終えて、きっと外の世界に出た。絶望の残党としてではなくかつての彼らとして、今も生きている。
ボクはこの世界に取り残されたのだ。
「そうか」
そうか、生きてるのか。口にしたはずの声は喉の奥で潰される。ボクの目論見通りではなかったけれど、さんは生きている。生き延びて外の世界に出た。
ならば、こんなに喜ばしいことはない。ボクの望んだ世界だ、これがあるべき姿だ、ならばボクはこの海にいて然るべきだ。
オレンジ色の空が口をあけてボクを見下ろしている。これでよかったんだろと、嘲笑う。気が付けば海水は、ボクの太腿を撫でている。
ボクはこのままこの海に閉じ込められるのか。彼女の声が聴こえる度に、未練に似た感情が湧き上がる。だって、思い出したことがたくさんあるのだ。
希望ヶ峰学園での記憶、彼女と出会った春、嵐のようなラフマニノフ、まだ指がかろうじて動かせた彼女の作る、どこか物悲しい曲、白木のベンチ、そこで食べたサンドイッチ、彼女の隠し事、ボクが背中を向けた日、かつての同級生が死んでいく中、それでも生き残った希望のひと。
「ピアノがなかったらどうなっていたんだろうって、ある日思ったの。そうしたら私はふつうの学校に通って、ふつうの友達を作ってふつうのいじめを経験してふつうに受験して、ふつうに大人になってふつうの結婚するのかなあって」
彼女の抑揚に乏しい声がボクの頭上に降りそそぐ。
「でも私はふつうを知らないから、ピアノを弾かなくてもいい学校も、私がピアノを弾くことを知らない友達も、僻み嫉みの関係しないいじめも音楽の絡まない進学も知らない。だからふつうの大人もふつうの結婚も想像できなかった」
懺悔のようだった。ボクは聖職者でもなんでもないのに、彼女は、自分の罪を告白するかのように、静かに言葉を並べて行った。少しでもずれたら、崩れてしまうと言わんばかりに、慎重に。
「偶然に過ぎないんだろうけれど、左手が動かなくなったのはそういうことを考え始めてからだった。原因が分からないから、精神的なものだと診断されたの。そのときになってようやく私は、私の周囲にいる人間は、両親も先生も友達も顔も知らない誰かも、私本人すらも、ピアノを弾けるしか必要としていなかったって、気が付いた」
どんな顔で、彼女は話しているのだろう。どうしてこの海に彼女はいないのだろう。もし目の前にいるのなら、ボクは動かないこの足を足首ごと切りはなして、血にまみれてでも抱きしめたのに。
「前に、凪斗くんが、私の手がこうなったのは自分の才能のせいだって言ってたね。真実は私には分からないけど、でも、私は別に、それでもよかったよ」
「こんなことを言ったら、凪斗くんは怒るかもしれないけどね」さんは、言葉に詰まったように息を止めた。思考を重ねているのかと思った。そうであってほしかった。ボクは、ボクの手の届かないところでキミに泣いてほしくはなかったのだ。
さんが鼻をすする、声が震えている、吐き出されたその言葉に、ボクは愕然とする。
「私が唯一あなたに固執したのは、あなたが、全能だったころの私ではなくて、皆に諦められた、もうだめになっていた私を見つけてくれたから」
彼女の指が動かなくなったのは、間違いなくボクのせいだった。
ボクみたいな人間がこの世界で彼女と出会い、そして親しくなる。それは紛れもない幸運で、ボクはどうしてこんなにも強大な幸運を手に入れておきながら不幸を引き寄せなかったのだろうと常々考えていた。
馬鹿な話だ。どうしてあの時に限って、自分のことにしか頭がいかなかったのだろう。ボクの才能は周囲を巻き込む。時に目を奪い足を奪い命を奪うボクの才能が、不運が、ボクではなく彼女の方に現れていたとどうして思いつかなかったのか。
ボクの才能のせいで、さんは指が動かなくなった。
本来の演奏とは程遠いと彼女は言うけれど、だけどそれでもさんが弾くピアノは美しかった。ボクは彼女のピアノが好きだった。指が動かないという事実に負けず、ピアノを弾き続けるその姿が好きだった。
さんがボクに惹かれたのは、ボクがダメになったさんの傍にいたからだと彼女は言う。
もしも、もしも彼女の指がきちんと動いていたのなら、と考える。それでもボクはきっと彼女を見つけた。いくらでも賛辞を与えた。けれど彼女の方はどうだったのだろう。賞賛されることに慣れていたさんは、恐らくボクを特別だと思うことはなかった。両親や友人と同じように、自分のピアノを愛してくれる一人の先輩としてしか、ボクを見なかっただろう。だけど、それを責めることはできない、きっとボクもそうだった。
もしも彼女の完璧な演奏を最初から聴くことができていたら、ボクはきっとあそこまで彼女に執着しなかっただろうから。
海面にぽたぽたと水滴が落ちた。涙だと気がつくのに時間はかからなかった。円形の波紋が広がる。ボクの腰を舐める。ボクのものでない泣き声が聴こえた。さんのものだった。
ボクたちは、どうしてこうもすれ違ってばかりいるのだろう。こんなにもお互いを思って、こんなにもお互いでなければいけないのに、いつも背中合わせになっている。どうして手を握って無理矢理にでも引っ張って、さんにボクの方を向かせようとしなかったんだろう。いくらでも、そうしてあげることはできたのに。
だから、起きなくては、と、心の底から思う。強く、強く思う。
あの子の隣にいるのはボクだ。初めからそうなるようにできていたのだ。ボクの才能が、ボクをしあわせにするために、あの子を選んだ。ならば、ボクはいつまでもこんなところで泣いてはいられない。
もがくボクを、あんなにも焦がれた左手が掬い上げてくれたのは、それからすぐのことだった。
「……聴こえてたの?」
「勿論。そのために喋ってたんでしょ?」
「そ、そうだけど……! でも、改めて指摘されるとすごく、恥ずかしい……!」
「でも、さんがボクにたくさん話しかけてくれたから、ボクは起きなきゃって思えたんだよ」
「そ、っか、じゃあまあ……うーん……」
恥ずかしさから口元を手で覆って俯くさんのつむじを眺める。こうしていると彼女はまだ十代の女の子で、この細い肩の上に色んなものが乗っかっているだなんてことはなかなか信じられない。
「てことは、皆にも外からの声は聴こえているってことかなあ?」
取っていたメモから、ぱ、と顔をあげたさんは、ボクの顔を窺うようにして尋ねる。
さっきまで恥ずかしがっていたくせに、突然未来機関の職員の顔になるのだから、ボクの方がどきりとしてしまう。
「さぁ、それはわからないけれど」彼女が望む希望的な発言はいくらでも作ってあげられたけれど、ボクはあえて曖昧に笑った。
「ボクは特殊だから」
「特殊。……幸運だから?」
「うーん、それもあるけどさ、ボクはこうやって目を覚ましてみて、いろんなことを思い出したんだ」
「いろんなこと?」
ボクの言葉を繰り返し反芻させてからようやく飲み込むさんには、もしかしたら難しい話かもしれない。嫌味でも馬鹿にしているわけでもなく、ボクは何と言ったらいいのか思案する。
「ねぇ、逆に聞きたいんだけど、キミは目が覚めたときどうだった?」
「私?」
「うん、強制シャットダウンをして、無理矢理あのプログラムから脱出したわけだよね。そのとき、どうだったの?」
「……うーん」
今度は、さんが首を傾げる番だ。ボードを膝の上に置いて、ボールペンを無意味に何度かカチカチしながら思考を整理するように小さく唸る。目線を自分のスニーカーの上に落として、唇を尖らせた。
「怠かった」
「筋肉とか衰えているわけだしね。そりゃあそうだ」
「あとは頭が重かった。なんか、ぐっすり眠っているところを無理に起こされたときの倦怠感、っていうか」
「……記憶はどうだった?」
「記憶……」
探るようなボクの目線に、さんは再び黙る。
「プログラムの中でのことは覚えていた? 学園生活は? キミがコロシアイに巻き込まれたことや、未来機関に保護されたこと、そういう記憶はあった?」
さんが、ボールペンを握りなおす。ボクの顔を真っ直ぐ見つめる。
「全部覚えてたよ」
ただ、とさんは続ける。「それは苗木くんたちが目覚めた私に適切なケアをしてくれたからだと思う。もしも一人だったら、ちょっと、自信はない」
なんの、とは彼女は言わなかった。恐らく正確な状況を自分が把握できたかどうか、ということなのだろうけれど。
「じゃあさ、他の皆はどうだったのかな?」
さんはもう、メモを取らない。ボクに向き合って、背筋を伸ばす。
「……他の皆っていうのは……日向くんたちのこと?」
「うん。だって間違いなく彼らは絶望だった。目が覚めたとき、どうしていた? 取り乱した? 叫んだ? 江ノ島盾子の名を呼んだ?」
「……」
これは常々、ボクが気になっていたことだった。ボクが目を覚ました時、目の前にいたのはさんだけだった。僅かに時間を置いて、日向クンたちがやってきたけれど、彼らは全員絶望の片鱗すらも見せてはいなかった。島にいるときのまま、ボクの前に現れた。彼らが選択した強制シャットダウンとは、彼らが絶望の残党だったころの記憶を上書きするものではないはずなのに、だ。
「正式な手順を追ってプログラムを終えなかった以上、何らかの負荷がかかって然るべきだ。なのに、彼らはどうして平気な顔で生きてるの?」
さんが黙る。黙ったまま、唇を噛む。それからどれくらいの時間を要しただろう。さんは、小さく息を吐いて呟いた。
「みんなも、私と同じだった」
「……つまり、全部覚えてるってことだよね」
「うん、でも私より、時間がかかったよ。思い出したのは、プログラム内での記憶のほうが先だった。徐々に昔のことも思い出して、今はもう皆、全部、分かってる」
「自分たちがしでかしたことも? 何もかも?」
「そうだよ、でも、凪斗くん」
訴えるような目線に、ボクは閉口する。彼女がボクの言いたいことを察しているように、ボクもそうなのだ。
絶望の残党は、残らず死ぬべきだ。僅かにでもその残滓があるのなら、なおさら。ボクは今でもそう思っている。彼女がそれと反する思想を持っていることも、ボクはもう知っている。「凪斗くん」もう一度、彼女が確かめるようにボクの名前を呼ぶ。
「――罪は裁かれるためだけじゃなくて、償うためにもあるんだよ」
「……きれいごとだね」
思わず口から吐いて出た言葉に、さんは笑った。ひどく、悲しげな瞳だった。
どこかでこんなこと、前にもあったな、そう思った。そうだ、ボクが未来機関に保護されたときの顔に良く似ているのだ。あのときのさんは、絶望の残党とされていたボクに酷く気を遣っていた。
だけど、ボクはあのとき嬉しくてたまらなかった、あんなに会いたかったキミに会えた、これこそがボクの求めていた幸運だとおもった。左手を切り落としただけの甲斐があったと。さんはあのときも、悲しい顔でボクを見ていた。
「ボクは特別だからって、さっき言ったよね」確認するようにわざとゆっくりと尋ねると、さんは神妙な顔で頷いた。
「ボクはあのとき絶望していたわけじゃない」
窓の向こうに、海が見える。プログラムの中で見続けたものとは違う本物の海は、濁って、お世辞にも手放しで美しいとは言えない。だけど、これが現実だ。
「江ノ島盾子によって絶望させられていたとキミたちが思っているなら、それは勘違いだ。江ノ島盾子の手を縫い付けたがために、キミたち未来機関に目をつけられたんだろうね。だけどあれはさ、キミのためだったんだよ。キミに会いたい、それだけの理由でボクは自分の腕を切り落としたんだ。あのときのボクを絶望と呼ぶなら、勝手にしたらいい。だけどね、ボクは希望に満ちていた。キミに会える、そう思ったら、それだけで生きていけた」
ボクの左手はもうない。恐らくどこかで腐って土に溶けているだろう。義手になってしまったそれを、掲げる。安っぽい電光にも透けることのない、鋼鉄の手、そこに反射する自分の瞳は、こんなにも真っ直ぐだ。
「ボクがプログラムから自力で脱出できたのは、幸運っていうこの才能と、キミの声のおかげだ。すんなりと現実世界に馴染めたのは、ボクが本質的には絶望していなかったからだ」
ボクはその指の隙間から、さんを見つめる。
「日向クンたちが全ての記憶を持ちこして目覚めることができたのは、強制シャットダウンのおかげだろうね。内心はどうだかわからないけれど、表面的には落ち着いて生活をしているのも、世俗とは切り離されたこの島の環境と、プログラム内での記憶を強く引き継げたからこそだと思うよ。ある意味彼らも幸運だったんだね」
さんは黙ってボクを見つめていた。「だけど」その膝の上の両手が、ぎゅうと握りしめられる。
「だけど、他の皆はどうだろうね?」
日向クンと左右田クンは、他の被験者を目覚めさせるためのプログラムを作り続けている。それが彼らを目覚めさせた強制シャットダウン以上の効力を持って彼らの脳に影響を与えるかどうかは、分からない。そんなに世界は彼らにとって都合よくできてはいないだろう。
莫大な時間と手間と金をかけてまで、元絶望の残党を目覚めさせる。結末は誰にも読めない。絶望時代の記憶を忘れているなら満点、日向クンたちのように、全ての記憶を持ちこした状態で彼らの目が覚めるなら80点、プログラム内の記憶だけがなくなり、絶望として目が覚めるなら0点、いや、マイナスか。ならば一生目が覚めないままのほうがいいのかもしれないと考えるのは、酷なことだろうか。
さんはボクのことを真っ直ぐ見つめている。学園にいた頃よりずっと大人びた。きれいになった。この細い肩にいくつもの重荷があることを、ボクはもう理解している。
「私はそれでも皆を起こすよ」
起こして、元の皆に戻すの。彼女はそう言った。彼女が、見た目よりもずっと頑固だということを、ボクは知っていた。