カマサキ地区の、人が滅多に通りかからないような路地裏だった。
 連絡の取れない彼女を探すため、マルノモン地区へと急いでいた私の前に、突如として「彼」は現われたのだ。



「――やぁ、ボクだよ」



 そう、手をひらりと振って。
 保安部にいた頃から神出鬼没だとは思っていたが、まるで私が外に出るのを待っていたかのようなタイミングに動揺したのは言うまでもない。「急いでいるところ悪いんだけど、少し話がしたいんだ」そう言う彼は、何もかもを見透かしているようだった。私の返答を、彼は待たなかった。
 マコト=カグツチ。
 彼はアマテラス社の、最高責任者たる男だ。



「随分久しぶりだね。調子はどう? ……ああでも、思ったより顔色は悪くなさそうだね。安心したよ。栄養状態が良いのかな?」



 最高責任者とは言え、彼は実質保安部とは離れたところにいる。直接話をしたことは、数えるほどしかない。警戒するなと言う方が無理があるだろう。



「…………一体、私に何の用ですか」

「そう構えないでほしいな。ほら、キミも知っての通り、ボクはヨミーとは真っ向から対立しているだろう? キミを捕まえに来たわけじゃない、ってことはわかってほしいんだ」



 ボクは、カナイ区の全住民の味方だからね。そこにはキミも含まれているんだよ、セス。
 それがどうも胡乱げに聞こえるのは、彼が面を決して外すことのないせいか、それとも、私がこれまでヨミー様に近い人間だったせいか。「ね?」首を傾げる彼に、思わず目を細める。



「だけど、本当に良かった。本来の予定とずれてしまったときは、どうしようかと思っていたんだ」



 雨は、私たちの上に平等に降り注いでいた。彼の言わんとすることがわからなくて、眉を寄せる。空に向けられた彼の手の平は、雨を掬い上げるように、緩く丸められていた。「突然こんな話をしたら驚かせてしまうかもしれないんだけれどさ」飄々とした話し口調で、彼は言う。カマサキ地区の雑踏が、今は遠い。



「――本当はキミのことは、ボクが安全な場所に連れていくつもりでいたんだ」



 その言葉に、無意識に、息を止めた。
 言わんとすることが、すぐには理解できない。私の目線は恐らく、訝しげなものだっただろう。けれどその反応は、彼からしてみたら悪いものではなかったのかもしれない。仮面の下の顔を微かに傾げさせた彼は、その声色を微かに和らげた。



「だけど、彼女がボクの代わりに、その役を果たしてくれた」



 まだ幼さの残る、けれど二重にも三重にも布を被せたような声だった。「彼女」の部分だけ、一際丁寧に、彼は発音した。何か、含みを持たせるような響きがそこには確かにあった。
 身に纏った一級品のスーツが雨に濡れるのも厭わず、彼は両手を広げる。どこか掴み所のないそういう彼の所作を、ヨミー様は、酷く嫌っていた。そういうことを、こんな時に思い出していた。けれど、同時に目の前の男が何を言おうとしているのかも、察していたのだ。



「…………まあ、ボクとしては、別にどっちでも良かったんだ。キミは賢い人だから、一度何らかの巣に入ればわざわざ保安部の前に姿を晒すことはしないだろうと思っていたし。それに彼女……=エガートンだって、キミに恩義がある。悪いようにはしないだろう。……そういう確信があったから」



 吸った酸素が、喉に張り付いて煩わしい。小さく咳払いをして、誤魔化した。あの日のことを思い返していた。あの日、「死んでくれ」と、汚職の罪を着せられ、ヨミー様に足元を崩された日。連行されようとしていた私を救った、雷に似た白い閃き。
 「――では」と、ほとんど確信をもって、掠れた声で呟く。マコト=カグツチの表情は、仮面に覆われて、読めない。



「………………あのとき、保安部に連行されかけていた私を逃がしたのは……」

「ああ、あのときの光のこと? 勿論ボクだよ。ただ、まさかキミが保安部を振り切って逃げると思わなくてね。保護が遅れたんだ。それで、=エガートンがキミを見つけた」



 その後、キミが既に処刑されたと偽りの情報を流したのもボクだ。そう続けられて、思わず眉根を寄せる。直前、ギンマ地区で接触した元部下の口にした言葉は、今もはっきりと耳に残っていた。どういうことかと思ったが、この男の仕業だったらしい。



「……でも、おかげでここまで来るのも楽だっただろう? 死んだ人間を探すなんてこと、いくら保安部でもしないからね」

「……………………」

「とは言っても、今後も軽率には出歩かないでもらえたら助かるよ。今日は緊急事態だし仕方ないけどね。100%安心安全、っていう保証は流石のボクもできないからさ」



 その言葉にため息を吐きたいのを堪えて、思わずこめかみを押さえた。



「外に出ることができないのは、不便だよね。それは本当に申し訳ないと思っているよ。今は何をするにも不便だろうけれど、いつか必ずボクがどうにかすると約束する」



 一体彼はどこまで手を回していて、どこまで知っていて、どこまで先を見据えているのか。三年前、突然このカナイ区に現われ、アマテラス社の最高責任者としての任を与えられた、どこか得体の知れない人間。やまない雨が降るようになったのも、カナイ区が外と断絶されたのも、この男がやって来てからだ。
 ヨミー様は彼をずっと疎んでいるが、どう考えても一筋縄でいく男ではない。さんと私の間に横たわっていたものまで熟知しているくらいだ。底が知れなくて、恐ろしくすらある。



「…………一体何者なんですか…………あなたは…………」



 そう呟いた言葉に、彼はきっと、その仮面の下で笑った。
 見えずとも、そんな気がした。



「――やだなぁ。ボクはただ、キミたちを愛しているだけだよ」



 でも、キミには、恩を返してもらえたら嬉しいな。
 顔を上げる。「キミの能力を、ボクは買っているんだよ、セス」と、全てを見てきたかのように、彼は言う。



「いつかボクは、キミの力が必要になると思うから」



 この言葉の意味を本当に理解できるのは、きっと、もっと先のことだと思うけど。
 彼はそう言って、私に背を向けた。
 アマテラス社の最高責任者であるマコト=カグツチは、雨を厭う様子もないまま、そうしてカマサキ地区の人混みに消えて行ったのだった。








 ローテーブルに置いた両腕を枕代わりにして寝息を立てているさんの顔を見つめる。
 慣れない救助作業で、余程疲れていたんだろう。彼女の後にシャワーを浴びて戻って来たとき、妙に静かだと思ったが、まさか眠っているとは思わなかった。



「…………お腹が空いたんじゃなかったんですか……」



 そうぼそりと呟くも、起きる気配はない。……起こすつもりで話しかけたわけではないから、起きてもらわなくても良いのだが。
 仕方なく、ソファではなくその隣に腰を下ろす。髪だけはどうにか乾かしたのだろう。腕やテーブルに流れる明るい色の彼女の髪は、部屋の灯りを受けて微かに煌めいているように見えた。ローテーブルに片肘を乗せ、その寝顔をまじまじと見つめる。
 化粧の落とされた彼女の顔は、どことなくあどけなかった。
 曲線を描く肩が、微かに上下している。頬に落ちた睫毛の影は、動く気配もない。今日の彼――マコト=カグツチのことだ――との会話の内容を話すべきかどうか迷っていたが、彼女がこれではどうしようもない。とりあえず、一度は胸に秘めておかざるを得ないだろう。話を聞いたら、「えー! そんなことがあったんですか!」と大仰に驚きそうだが。



「…………はぁ」



 小さくため息を吐いて、口に入りかけていた彼女の髪を払ってやる。指先が頬に触れたというのに、反応と言ったら、寝言と寝息の中間のような音がその口から漏れたくらいで、少し呆れた。無警戒が過ぎるんじゃないか。



「…………変な人ですよね、あなたも」



 彼女はけれど、何も答えない。
 色々、ずれた人だ。一年も前の恩義のために、背負わなくてもいい罪を背負って、こんな私に付き合って、それでもいつも笑っていて、挙げ句、私が好きだとふざけたことまで口にする。とんだ告白だった。生涯、二度とはされないだろうと断言できるくらいに、真っ直ぐな。
 本当に、趣味が悪い。服のセンスや味覚からして合わないと思っていたが、ここまでおかしな人間だとは思わなかった。今の、何も持たない私に好意を持つなんて、どうかしているんじゃないだろうか。私が私以外の人間だったら、絶対にこんな男には、近づかない。
 ――向けられる真っ直ぐな好意を、嬉しく思わないわけではないけれど。



「……………………あなたには…………もっと良い人がいると思いますけどね…………」



 指先をその唇に触れさせる。反応がないのを確かめて、それから、小さく息を吐いた。瞬間、口元が微かに緩んでしまったのは自覚していたが、さんは眠っている。ならば少しくらい、普段は押し込めている感情を表に出したって構わないだろう。
 保安部にいた頃、カナイ区の未来は、私には見えなかった。けれど、私たちの知らないところで何かが動き始めているというのなら、マコト=カグツチがカナイ区を導こうというのなら、それが良い方向へ転がることを、願うくらいはしたいのだ。あなたと生きていくのだから。
 なんて、直接は絶対口にはできないけれど。
 夢でも見ているのか、眠っているさんの口角が、微かに上がる。柔らかな声色で、ほとんど寝ぼけたように名前を呼ばれるから、息を吐いて、今度こそ小さく笑った。
 彼女が目を覚ましたときのために、スープくらいは作っておこうと立ち上がる。私と違って濃い味つけを好む彼女は不思議な顔をするかもしれないけれど、身体のことを考えたら、慣れてもらったほうがいい。
 窓を、緩く雨が叩いていた。私たちを閉じ込める、生ぬるい、長い雨だった。


PREV BACK NEXT