自惚れても良いんですか、って質問に、あの日のセスさんははっきりと答えをくれなかったけれど、雨の中繋いだ手を放さずにいてくれたから、私はそれがセスさんの答えなんだ、って信じて疑わなかった。
 私の気持ちに応えてくれたんだ、って。
 セスさんも、いつの間にか私のこと、好きになっていてくれていたんだ、って。








 でも、あれから一週間。
 何も進展がないっていうのはどういうことだろう。



「…………」



 食事を終えた今、食器を片付ける私に代わって、セスさんはテーブルを拭いてくれている。なんとなく、そういう役割分担になっているのは、前からかわらない。いつも通りだ。本当に。定規で測ったみたいに。
 セスさんは、びっくりするくらい今までと変わらなかった。リビングのソファで寝起きし、私とは必要以上の会話をしようとしない。勇気を出して「ソファ、隣に座っていいですか」って尋ねたとき、人一人分の間隔を作って座り直されて、普通にショックを受けた。あけちゃうんだ、って。そこにできた空白を思いきって詰めることができるほど、私は自分に自信がなかったのだ。結局数分だけそのまま一緒にテレビを観て、お茶を淹れにキッチンに行ってからは、もう、ラグに座った。セスさんは離れて座った私に、何も言わなかった。
 私は年若い学生でもなんでもないから、恋人になれたなら、そりゃあ、色々するもんだと思っていた。例えセスさんからしたら他に選択肢のない、不本意な状況から始まったものだとしても、同棲っていう現状は、関係を一気に進めるのにうってつけだったから。でも、そんなこと全然ない。セスさんは私に指一本触らないし、キスもしない。
 もしかして、恋人になったって思っているのは私だけなんじゃないだろうか?
 一度芽生えた疑念は、私を動揺させるのには充分だった。
 だって、私、セスさんに好きって言われてない。私が恋人同士になった、って思い込んでいたあの日だって、「さんの家以外、どこに行くんですか」とか、「自分で考えてくださいよ、それくらい」って言われただけだ。冷静になってみると、それって告白の答えじゃない気がする。そもそも、もしかしたら私の言った「好き」も、正確には伝わっていないんじゃないだろうか。
 ショックは、私の身体をじわじわ伝播していった。セスさんも私のことが好きだったんだ、なんて勘違いしていた自分があんまりにも痛々しくて、哀れで、自分のことながらお腹が痛くなってしまった。最悪だ。その事実に気がつくまでふわふわしていた感情が急に萎びて、洗い物の手も止まってしまう。今日は折角、セスさんにも眉を顰められないくらい丁度良い味付けでご飯が作れたのに、それにすらも悲しくなってしまう。
 目線が落ちて、はあ、ってため息を吐いたその瞬間、セスさんに声をかけられなければ、私はもう一段階、気持ちが落ちていたかもしれなかった。



「………………片付け、代わりましょうか」



 セスさんの声は、相変わらず低くて、小さい。ぼそぼそと喋るから、もし今水を流していたら、多分私はそれに反応すらできなかっただろう。だけど、今のはちゃんと聞き取れた。反射で「えっ」って言ってしまったけれど、セスさんも、それが聞き返されたものじゃないってことは分かるみたいだった。



「…………疲れているように……見えたので……」



 ソファからじっとこちらを見つめられる。長い前髪の隙間から覗く瞳は、部屋の灯りが乏しい分、近くで見るよりも暗い。だけどその優しさに、わあ、って舞い上がってしまいそうになった。多分、私がここ最近、仕事のできない代わりにマルノモン地区の復興作業の手伝いに行っているから、セスさんも気遣ってくれているんだろう。
 嬉しい、すごく嬉しい。優しい。好きだ。やっぱり、すごく好き。



「……つ、つかれてないです。大丈夫!」



 それでも慌てて首を振ってしまったのは、やっぱりセスさんにどんな顔をしたらいいかわからなかったからだった。ついさっきまでは、全然恋人らしいことしてくれないなあ、私って魅力ないのかなあ、なんて楽観的に考えていたのに、今じゃ「もしかしたら付き合っていないのかもしれない。私が勘違いしていたのかもしれない」って考えに支配されて、どうにもならない。
 だって、恋人だったら、好きって言ってくれるもん。キスだってしてくれる。隣に座っても、距離を置いたりしないもん。じゃあ、やっぱり違うんだよ。セスさんは他に行き場がないから、仕方なく私と一緒にいてくれるだけ。
 セスさんがこの間聞かせてくれた、彼と、マコトさんとの会話の内容を思い出す。いつかセスさんが彼に必要とされたら、きっとセスさんはこの家を出て、マコトさんのところに行ってしまう。そのとき、私はもう彼にとって必要がない人間になる。あのとき、マコトさんがセスさんを信じてくれているって知ってすごく嬉しかったはずなのに、今はそれが、ちょっと痛い。なんて自分勝手なんだろう。
 だけどそう思ったら、段々泣けてきてしまって、参った。セスさんが声をかけてくれたおかげで踏みとどまったはずなのに、一気に滑落してしまったみたいだった。ぐす、と鼻を啜る。そうすると、セスさんが、今度ははっきりとため息を吐いた。はあ、って言うそれは、一際大きく耳に届いた。
 シンクの中で泡だらけになったお皿とスポンジの輪郭が、熱を持って滲んでいく。だから、セスさんがソファを立ったのがその気配だけで分かっても、顔をあげられなかった。私の隣まで歩いてきたセスさんが、もう一回ため息を吐いても、全然、どうにもならなかった。



「………………泣かれたって、困りますよ」



 服の裾を引っ張って、セスさんは私の目元をちょっと乱暴に拭う。「うえ」と声を漏らす私に構わず、セスさんは泡だらけの私の手を取ると、ほとんど無理矢理水で流した。セスさんはそのまま、シンクに残ったお皿を洗ってくれる。無機質な、かちゃかちゃ、って音は、私が洗うときよりもずっと小さくて、声の小さい人は生活音も小さいんだなって、セスさんがこの家に来たばかりの時に思ったのを思い出した。
 セスさんと隣で並ぶと、キッチンはいつも圧迫感があって、狭い。セスさんのごつごつした、私とは違う指が丁寧に泡を流すのを、私は鼻を啜りながら見ていた。きれいな指だな、って思った。血色は悪いけれど、細くて、爪がきれいに切られている。あの手が私の手を取ってくれたのが、今、急に信じられないことのように思えてしまった。今の私は、めちゃくちゃへこんでいる。自信という自信が軒並みなくなってしまっている。これまで怪我の治療をしてもらったり、風邪の看病をしてもらったり、身を隠さなければならない状況にあるというにもかかわらず探しにきてもらったりと散々迷惑かけて、これでどうして自分が好かれてるなんて思ったんだろう。傲慢にも程がある。
 水切りかごに最後の食器を置いたセスさんは、一旦これで終わり、とばかりに私を見下ろした。それで、私の目がまた少し潤んでいるのを見て、もう一度私の顔を擦ってくれる。今度は手の甲で。その手つきがあんまりにも優しいから、息ができなくなりそうだった。



「お茶でも淹れますから、座っていてください」

「…………で、でも」

「…………私が飲むついでです」

「………………う、じゃあ……はい…………」



 セスさんの気遣いに申し訳なくなりながら、リビングに向かう。お母さんとトーリがまだ一緒に暮らしていた頃から使っているソファは年季が入っていて、私からしたら物凄く馴染み深いものなのに、今はやっぱり、前みたいに我が物顔では座れない。
 ちらりと窺うようにセスさんを振り向いたら、セスさんは気配だけで気がついたのだろう。お湯を沸かしながら、目線も上げず、「座ってください」って、念を押すように口にした。それで結局、恐々としながらソファの、隅っこに腰を下ろす。
 つけっぱなしになっていたテレビは、丁度CMが始まったところだった。新型乾燥機、象が乗っても大丈夫! という触れ込みで注目を集めているロボット、新商品のお菓子。夜の短いニュースを挟んで、それから週末に放送される予定の、昔の映画の宣伝。これ、昔観たなあ。すごくきれいなラブストーリーで、まだ鎖国されていないカナイ区の映画館で、ぼろぼろに泣きながら観たっけ。一緒にいた先輩は、目を真っ赤にした私を見て、ちょっと引いていた。そんなことを思い出していたら、「どうぞ」って、目の前に湯気の立つカップが現われて、びっくりする。慌てて受け取ると、セスさんはそのまま、私に触れることのないよう人一人分の距離を取って、ソファに腰を下ろした。自分も飲む、って言ったのに、セスさんは、カップを持っていなかった。



「ありがとうございます。……いただきます……」



 カップに息を吹きかけながら、居心地の悪さに、落ち着かなくなる。セスさんは何も言わず、じっとCMばっかりのテレビを眺めている。本当は、あんまりテレビ、好きじゃないのに。私につきあって、みてくれているだけだ。
 セスさんが淹れてくれたお茶は、砂糖も入ってなさそうなのに、ちょっと甘かった。私が買った茶葉しかないはずなのに、だけど私はこれがなんなのか分からない。あったかくて、少しほっとする。緊張していた神経が、ゆるゆると解れていく。
 全自動運転の自動車、馴染みの風邪薬、最近度々見かける、発電所からのお詫び。そういうのを二人で黙って見つめている中、やがて口を開いたのは、セスさんの方だった。



「………………落ち着きましたか」



 低く掠れた声に、胸が鳴る。こんなときなのに、私はどうしてもドキドキしてしまう。「は、はい」ちょっとだけ口をつけたお茶の表面が揺らぐのを視界に収めながら、私はそれで、「ごめんなさい」と呟いた。泣いてしまって、びっくりさせて、ごめんなさい、って、そう言いたかった。
 だけどそれが契機だったのかもしれない。そう、私は、ごめんなさい、って思ったのだ。勘違いして、一人で舞い上がって、恋人だなんて思ってごめんなさい、って。変に期待してそわそわして、今までより近い距離にいて、迷惑だったでしょう。そう思って、もう一回「ごめんなさい……」って吐き出したときには、もう、だめだった。



「私、勘違いして、浮かれてました…………め、迷惑でしたよね……」

「は?」

「一週間、ずっと、勝手にそのつもりでいたんです、は、恥ずかしい……セスさんは、全然そんなつもりなかったのに、ほんとに、ごめんなさい、穴があったらはいりたい……」

「…………………………」



 本当に恥ずかしくなってきてしまって、持っていたカップを一度ローテーブルに置く。温まった両手で頬を押さえて、俯いて、羞恥で涙ぐんだ視界に自分の足だけを入れる。



「私、自分とセスさんが、恋人なんだって思っちゃってました…………」



 そんな私に、セスさんが呆れた様子で、「酷い勘違いをしていたんですね」って言ってくれたらそれで済むはずだった。でも、セスさんは長い沈黙を纏った後、ため息を吐いた。ぐ、と座面ごと引っ張られるように身体が傾く。セスさんがソファに座り直したんだって分かったのは、びっくりして、セスさんの方を見たせいだ。セスさんは、私の隣に座っていた。私があれだけ壊せなかった空白を、彼は踏み潰してそこにいた。
 少し苛立たしげに、眉を寄せて。



「………………勘違いですか? それ」

「……………………」



 私の頬を押さえていた右手を取られる。セスさんのひんやりした手の平に、温度が全部奪われていく。
 思考が上手く働かない。セスさんは、何が言いたいんだろう。勘違いですか? って、私が聞きたかったことだ。それで、勘違いだったのだろう、実際。だって、そうじゃなかったらもうとっくに――。
 でも、セスさんは取った私の手の甲に、そっと唇を落とした。ひ、って、喉から声が漏れた。体温が一気に上がって、びっくりして、身を引きたいのに、引かせてもらえない。セスさんが私の顔をじっと見る。反対の手が腰を掴んで、引き寄せられる。鼻先が近づいて、少しかさついたセスさんの唇が、私のものと重なる。
 何秒くらい、経っただろう。



「……………………これくらいしないとわからないんですね。あなたは」



 ――甘。
 お茶の風味が少し残っていたのか、舌でぺろ、と自分の唇を舐めながら呟くセスさんに、それで、ようやく「わあ…………」って声が出た。口元を手で押さえる。重ねただけ、だったけど、キスだ。キス、しちゃった。
 本当は、そんなの言われなきゃ全然わからないです、とか、好きって聞いてないですとか、もっとしてほしいですとか、言いたいこと、いっぱいあったんだけど。セスさんの首筋に顔を埋める。好きって言ってくれないから、代わりに、「好きです〜…………」って呟く。ぐずぐずの、震えた声だったから、本当はちょっと恥ずかしかった。
 セスさんもちゃんと言葉にして、伝えてほしいな、って思うけれど、それでも今は、セスさんがため息っていうよりは随分優しい音で息を吐いたのが分かったから、身を引いたりせず背中に手を回してくれたから、もう、それだけで充分だ。


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