彼女を泣かせたかったわけじゃない。
ただ、話してほしかっただけだ。救助のさなか、私の目の届かないところで何か要らない傷を負ったのではないかと、心配しただけだ。
なのに彼女は、私に腕を掴まれたまま、何か説明するでもなく、泣いた。さっきまで抱えていた足を倒れていたブーツの横に下ろし、顔を歪め、嗚咽を漏らして、子供みたいに泣いた。あとからあとから流れる涙を片手の甲で拭って、しゃくりあげていた。拭いきれなかった涙がその頬や手首を伝うまで、私はほとんど、唖然としていたのだ。まさか、自分の言葉で泣かせてしまうことになるとは想像していなくて。
言葉を探して、目線を彷徨わせる。逡巡して、ようやく、小さく息を吸う。こんなとき、もう少し気の利く言葉が言えたら良いのに、何も浮かばない。
「………………だから、どうして泣くんですか、あなたは……」
女性に目の前で泣かれるのは、これで二度目だ。
一度目も、彼女だった。私が彼女の弟の遺品を持って、今のアパートとは違う家を訪れたとき。目の前で泣き崩れた彼女を見ても、けれどあのときの私は、今のような感情を抱かなかった。
同情なんかしなかった。テロリストとして処分された男の遺族のことなど、どうだってよかった。あのフルートを、保安部の人間よりかは丁重に扱ってくれる人間の元に届けたかっただけで、憐憫を掛ける気などさらさらなかったのだ。
あの時は、彼女が私にとって、ただの有象無象の一つでしかなかったから。
では、今は。
今は?
「……わ、わたし」
その答えを出す前に、小さな声で、彼女が呟いた。
雨音に紛れるくらいの声量だった。彼女にしては、珍しかった。思わず握ったままの手首に力を込める。伏せられた睫毛が、涙で濡れている。
「ずっと、セスさんに言えてないことが」
その声は水分を含みすぎていて、うまく聞き取れない。
初めは、本当に、恩返しのつもりだった。
私にトーリのフルートを届けてくれたこと、トーリの死を教えてくれたこと、(恐らく)私まで処分の対象にならないよう、手を回してくれたこと。
たくさんの恩があったから、アマテラス社から逃げるセスさんを、今度は私が守りたかった。例えそれがセスさんにとって、余計なお世話だったとしても。
「好き」に変わったのがいつかなんて、私には分からない。
素っ気ないけれど、たまに優しいところ。表情に嘘のないところ。はっきり物を言ってくれるところ。掠れる声も、ちょっと冷めた目も、好きだった。セスさんはどうだったかわからないけれど、私はセスさんとお話をするのが楽しかった。仕事から帰って扉を開けたとき、セスさんがいてくれることがどれだけ嬉しかったか。これはちゃんと、恋だった、私なりの恋だった。
「わ、わたし、弟がいて」
セスさんは、私がしゃくり上げながら話すのを、黙って聞いている。聞き返すこともなく、辛抱強く。それは、思考がぐちゃぐちゃになった今の私からしてみればありがたいことで、おかげで、絡まった糸を少しずつ解すように、頭の中が徐々に冷静になっていったのが分かった。涙を拭う指が、ぐしょぐしょに濡れる。
トーリって、名前なんです。そんなに年は離れていなくて、学校を卒業して、就職が決まっていて。私と違ってしっかりしていて、お母さんが死んでしまったときも、本当は私がちゃんとしなくちゃいけなかったのに、トーリの方が、ずっと大人で。若い頃、楽団の一員だった母の血をちゃんと継いでいたトーリは、お母さんに似て、本当にきれいにフルートを吹いた。どう頑張っても運指を覚えられなかった私とは、出来が違った。あの子と、あの子の吹くフルートが本当に好きだった。
どうしてこんなことを話すのか。それは、そうしないとセスさんの問いに答えられなかったからだ。「どうして泣いていたのか」って。私にとっての最後の家族。今日の一連の出来事は私に、もうあの子がどこにもいないことを思い知らせた。全部、でも、今更なんです。セスさん。あの子はもう、私の傍にいない。一年前に、忽然と姿を消してしまった。骨の一片すら抱けないまま。それを思い出して、私はさっき、ここで泣いていたんです。だけど、全部失ったわけじゃなかった。一つだけ、この手に戻って来たものがあった。
「――セスさんが、取り戻してくれた」
長い長い言葉の最後に、紛れるように吐き出したそれ。
言葉足らずだった。私はあの子がテロリストとして捕まったことを、殺されてしまったことを、言葉にできなかった。こんなので、伝わるはずがなかった。セスさんが、私の元にトーリのフルートを返してくれたこと。一年前のそのことを、覚えているはずがない。彼にとって、あれは遠い過去のことで、無数にあった事件のうちの一つに過ぎない。私だけが、後生大事にこの手で抱え続けていたものだ。
「こ、こんなこといわれても、困りますよね、覚えてない、と思います」
セスさんが、そのとき俯いたままの私の顎に空いていた手を伸ばす。
ぐ、って顔を上げさせられる。灯りのない室内は、もう薄暗くて、だけど、セスさんの表情だけは、窓の外に灯った、水害から生き延びた街灯が照らしていて、分かった。セスさんは、目を細めていた。笑っていなかった。眉を顰めた彼は、少し、苦しそうだった。その薄い唇が、緩く、開く。
雨の音が遠くなる。
「………………覚えていると言ったら?」
息が止まる。見開いた目に溜まっていた涙がぼろりと落ちる。殴られたような気分だった。
「知っていますよ。トーリ=エガートン。……一年前、カナイ区の外れの公園でテロリストとして連行された、あなたの弟です」
知っています。確かめるように、セスさんはもう一度口にする。
「…………あなたが、一年前の恩義のために私を匿ったことも」
は、と、息が漏れた。セスさんの瞳の中で、私は酷い顔をしていた。ずっと掴まれていた手首が解かれる。だから、呆然となんかしていられなかった。ちがう、って、思った、恩義のためじゃない、って。最初は、そうだったかもしれない、でも、今はもう違う。顎に添えられていた手が離れていく。セスさんの温度が遠ざかる。私には、セスさんがそのままどこかに行ってしまうように思えた。これが、今生の別れになってしまう気がした。
「だから、いつか終わりにしなければいけないと思っていました」
まって。言いたいのに、声が出ない。そう、こうして上手く説明できないのが分かっていたから、私はセスさんに、トーリの話ができなかった。
でも、だからって、立ち上がりかけたセスさんにほとんど反射で抱きついてしまったのは、よくなかったかもしれない。
どん、って鈍い音がした。ほとんど体当たりだった。「は!?」って、セスさんが珍しく大きな声を出す。セスさんの身体は、ちゃんと、がっしりしていた。私とは違う、男の人の身体だった。雨と、うちの柔軟剤の匂いがする。噎せ返るくらいの甘い香り。ここに来る道中で濡れたせいか、タオルで拭いたといえどもじっとり湿ったそれは私の頬を同じくらい湿らせたけど、構わなかった。どこにも行かないでほしくて、力の限り抱きしめる。セスさんは、身を捩って離れようとしたけれど。
「な、何するんですか、離しなさい……!」
「い、いやです、離さない……っ! だって、セスさん、かんちがいしてる!」
「は? してない……ですよ……! しているとしたら、あなたです……。私は別に、善意であのフルートを届けたわけでは」
「そんなのどうだっていいんです!」
めいっぱいの力を込めて言った瞬間、セスさんの力が緩んだ。案外体幹の強いらしいセスさんは、それで倒れたりしなかったけれど、私をお腹で受け止めたまま、はっきりと眉根を寄せていた。意味がわからない、って、その目が言っていた。
だって、そんなの分かってた。保安部調査課長のセス=バロウズ。陰険で、ねちねちしてるってカナイ区でも評判のあなたが、面識のない人間のためにそんなことするはずないって。気まぐれか、何か他に、理由があったってことくらい、分かっているのだ。
「セスさんが、そういうところ、全然優しくないの、知ってます……! でも、優しいところがあるのも、知ってます……!」
「…………何を……言ってるんですか……あなたは……」
「セスさん、お風呂掃除、してくれた……! 熱が出たときも看病、してくれた、おかゆだって作ってくれた、美味しかった……!」
「…………」
「今だって、着たくないって言ってた服を着てまで、迎えに来てくれたじゃないですか……!」
私のこと、心配してくれたからじゃないんですか。その言葉に、セスさんは答えない。
いつの間にか涙は止まっていた。私の声が、ロビーにわんわん反響していた。世界で二人きりみたいだった。だから、言えたのだ、きっと。
「確かに、最初は恩義からでした、それは認めます、でも」
でも、喉が引き攣る。セスさんの身体に抱きついたまま、ぎゅ、と目を閉じる。一緒に居て、私はセスさんの良いところを、たくさん、たくさん知った。ちょっと意地悪なところも。それを全部ひっくるめて、私は、セスさんが好きだった。大切だった。
「でも、今は、セスさんが好きだから、一緒にいたいんです……!」
そう、一緒にいたいのだ、私は。
私たち二人が並んだらそれだけで狭くなってしまうキッチンで、セスさんにご飯を作りたい。味覚の全然違うセスさんと私が、どっちも美味しいって思えるように、いっぱい練習したい。同じ本を読んで、感想を言い合いたい。その日あった他愛もない話をしたい。今度こそセスさんに似合う服を探してきたい。いつか、一緒に街を歩きたい。家族ごっこって言われても良い。新婚さんみたい、って、セスさんに呆れられても良いから思いたいのだ。馬鹿みたいでもいいから。
は? って、言われると思っていた。無理矢理身体から引き剥がされることになるのだって、覚悟していた。でも、長い沈黙の後、セスさんが吐き出したのは、いつものセスさんらしい、ため息だった。
恐る恐る顔をあげる。長い前髪を垂らしたセスさんと、目が合う。表情は――どうだろう、怒っているのか、笑っているのか、分からない。セスさんはあまり、表情が変わらない人だから。
「…………それ、本気で言ってるんですか?」
「ほ、本気です、めちゃくちゃ本気です……!」
「………………趣味、悪いですね、あなた」
「悪くないもん……!」
その手の平が、次の瞬間、私の額に触れた。前髪をかきあげるように撫でられて、ひんやりとした感触に思わず目を閉じる。「…………とりあえず、離れてもらえませんか?」冷ややかな声に、私がはっと目を見開いたのも束の間だった。
「…………そうしないと、帰れないでしょう」
それが意味することを、私は、自分なりに受け止めても良かったのだろうか。
ぽかんと口を開けたまま、セスさんを見上げる。私の腕から力が抜けたのを見て取って、セスさんは私の腕を解くと、さっきそうしようとしたように、立ち上がった。まだ隣の椅子に座ったまま、セスさんの言葉の意味を汲み取ろうとする私に「ブーツ、穿いて下さい」って言うから、横倒しになったままのそれに慌てて足を入れた。素足だったからちょっと気持ち悪かったけれど、気にしていられない。
だって、セスさんが直後、私に手を差し出してくれたから。
「……………………」
「…………何ボケッとしてるんですか。…………行きますよ」
「い、いく? どこに」
セスさんが、微かに首を傾げる。長い前髪が、その顔半分を隠している。だけど、私にはその下の瞳が見えていた。真っ直ぐ私を見つめる、緑の瞳が。
「さんの家以外、どこに行くんですか…………」
その言葉に、目を見開く。びっくりしすぎて、セスさんの手を、ぎゅって、力を入れて掴んでしまった。
さん。
名前で呼んでくれたこと、家に帰ろう、って言ってくれたこと。何もかもが私の胸を震わせる。セスさん、確かめるように、彼の顔を見る。
「あ、あの、それって、私…………うぬぼれても、いいんですか?」
立ち上がりながら尋ねる私に、セスさんは深々、ため息を吐いた。多分、こう答えるだろうなって、私が想像した通りの答えを、彼は私に差し出した。
「………………自分で考えてくださいよ、それくらい」
セスさんは、捻くれてて、ねちねちしてて、こういうところ、ちょっと狡い。疑い深くて、ずっと先のことまで考えて、無鉄砲で後先考えない私とは、全然真逆のタイプだ。
でも、繋いだ手を、セスさんは離そうとしなかった。私がわざと、寄り添うみたいに身体を近づけても、ちょっと嫌そうに眉根を寄せるだけだった。胸が一杯になった。セスさんの温度の低い手から、私が失ったありとあらゆるものが流れ込んでくるみたいで、上手く息が出来なくて、仕方ないから、笑った。セスさんは、「…………本当に変わってますよね、あなた」って、呆れるみたいに、ぼそぼそした声で言うだけだった。
雨は、尚も降り続けている。マルノモン地区を飲み込んだ濁流を振り返れば、何かが瞬くように反射して、水の中に消えた。