彼女はかろうじて水害を免れた建物の、灯りの消えたロビーに一人でいた。
もしも調子の外れた鼻歌が聞こえてこなければ――或いはあれが途切れるのがもう少し遅ければ――水際に放置されていた救助用のボートに乗り込んで、彼女の会社まで様子を見に行くことすらしただろう。それほどに、酷い惨状だった。マルノモン地区は、その内を無理に引きずり出されたようだった。泥に混じった水の中、ありとあらゆる残骸が漂うそこは、私の目には一つの死体のように映っていた。
だから彼女の姿を見つけた瞬間、本当は少し、腹が立ってすらいたのだ。
人間、行き過ぎた心配を抱くと、安堵だけでなく怒りまで湧いてくるものなのだろうか。これは正しい感情なのだろうか。ここに来るまでの間で、精神的にも体力的にもすり減ってしまっていたのは関係があるか。極力他者を遠ざけて生きてきた私には、分からない。
けれど、それでも彼女が泣いているのに気がついたとき、その全てが音を立てて遠ざかった。
「――さん」
名前なんか呼ぶ気はなかったのだ、本当は。
ソファに座ったまま身を捻って私を見た彼女の目から、ぼろりと涙が落ちた。
「…………あなたは馬鹿なんですか? ……救助する側が怪我をしてどうするんです……」
「か、返す言葉もないです……」
「…………まあ、大して傷が深くないのは幸いですが…………。…………できましたよ」
「わ、わあ、すごい、きれい」
セスさんの温度の低い手の平が離れた後、一分のよれも隙間もなく患部に貼られた絆創膏を見て、思わず感動してしまう。怪我をしたのは左足のふくらはぎの外側で、一人で貼るにはちょっと大変だったから、セスさんにやってもらっていなければ、多分何度かやり直すことになっていただろう。
「ありがとうございます! 私、今日めちゃくちゃ人の手当てをしてたんですけど、これ、今日一綺麗です……!」
お礼を言う私に、けれど隣に座ったセスさんは、深々とため息を吐く。「あなたから治療をしてもらった人たちはきっと、後でやり直さなければいけなかったでしょうね…………」ってぼそぼそ吐き出されて素直にショックを受けていたら、「…………冗談ですよ…………」って続けられて、びっくりした。セスさんと話していると、どうしても振り回されてしまう。冗談が冗談に聞こえないのだ。
でも、こうしているとセスさんはまるで普段通りだった。いつも通り、私のことを「あなた」と呼んだ。さっき名前で呼んでくれたのは気のせいだったんだろうか? そわそわしてしまって、変に意識してしまう。もう一回、呼んでくれないかな、って、欲張ってしまう。
セスさんはだけど、私には全然構わず、余った医療用品を片付けはじめた。その髪から雨粒が滴ったのを見て、私は咄嗟に、傍にあったタオルをセスさんに差し出す。濡れた髪の隙間から覗く目が、若干の警戒を滲ませたように見えたから、慌てて「使ってないです、これは綺麗なやつです、とても清潔です」と言い添えた。それでようやく、僅かな沈黙の後、セスさんはそのタオルを受け取ってくれる。
「…………ありがとう、ございます」
相変わらず、聞こえるか聞こえないくらいの声量で、そう呟いて。
建物を叩く雨の音と、水面を打つ雨の音は、耳を澄ませてみると、全く別のものに聞こえる。ぐちゃぐちゃに濡れたブーツに足を戻す気にはなれなくて、治療してもらったばかりの冷えた足を、抱え込むように抱き寄せた。そうして、隣のセスさんにこっそり視線を送る。セスさんの横顔は、普段、おうちのソファに座っているときと、ちっとも変わらない。違うところがあるとしたら、セスさんが、絶対に着ない、って顔をして私に返した、黄色いパーカーを羽織っていることだった。
――物凄く失礼だけど、やっぱり、あんまり似合ってない。明るい色って、セスさんには似合わないんだ。ぼんやりとそんなことを考える。でも、暗い色だったらきっと、何でも似合うんだろうな。アマテラス社のレインコートも、すごく似合っていたから。
セスさんは、でも、どうしてここに来てくれたんだろう。外に出たら危ないのに。あれだけ着る気のなさそうだったパーカーまで着て、ずぶ濡れになって。ずっと横にある疑問が、喉元まで出かかっている。
一方で、私がこの水害の間何をしていたかは、治療をしてもらいながら、セスさんにお話しした。電話ボックスが爆発してびっくりしたこと。指名手配犯のニュースを、会社の斜向かいにある大きな街頭モニターで確認したこと。だけどその後、発電所の事故によってマルノモン地区が増水を始めたときには、お昼ご飯を買いにカマサキ地区へ出ていたこと。(そういうところ、妙に豪運ですよね、ってセスさんは呆れたようにため息を吐いていた。)それからは、マルノモン地区に戻って救助の手伝いをしたこと。全員がマルノモン地区を後にしたのを見届けて、一人怪我の具合を見ていたこと――。
でも、セスさんは、どうして自分がここに来たのか、話してくれようとはしなかった。私が聞いたら、答えてくれるのかな。……どんな聞き方をしても、眉を顰められるだけな気がする。「どうして来てくれたんですか」も、「それは変装ですか」も、「保安部に見つかったりしませんでしたか」も、セスさんは、きっと答えてくれない。全部、考えれば分かるでしょう、って、そういう答え方をする。自惚れたいわけじゃないから、最初の一個、「どうして来てくれたんですか」くらいは、本当は、ちゃんとセスさんの口から聞きたいけれど。
タオルで髪を拭いたセスさんは、でも、私の目線が煩わしかったらしい。横目でじっと見返されるから、思わず身体が跳ねた。何も言われてないのに、思わず「ご、ごめんなさい……」と謝ってしまう。セスさんがため息を吐く。私たちの間に、沈黙が落ちる。雨の音だけが、膜の外で響いている。
長い、長い沈黙だった。見つめ合っていることが、こそばゆくなるくらいの。それがどうしても堪えられなくて、もう、どうしようもなくて、抱えた足に力を込めて、もう、思いきって、「どうして来てくれたんですか」って聞いちゃおうと思った、その時だった。
セスさんが、一度だけ瞬いた。「あなたは」って、低く掠れたその声が、私の耳を震わせた。
「……………………どうしてさっき、泣いていたんです」
そんなことを聞かれるとは、思ってなかったのだ。
「は」と、上擦った声が漏れた。セスさんは椅子に座ったまま、私の顔を見つめていた。まっすぐ、まっすぐ。それは逃げることを、許さない目だった。セスさんの中に、かつて彼がアマテラス社の保安部調査課長だった頃の面影らしきものが浮かんでいた。でも、それは私に、恐怖を感じさせるものではなかったのだ。
それは多分、セスさんの声が、やさしかったから。
ばたばたと、建物を打ち付ける雨の音が、連綿と続いていた。窓硝子の向こう、水面で、流されてきた看板が、こんなときでも途切れない照明を受けて閃くように瞬いた。遠くで人の声がした気がしたけれど、きっと、気のせいだ。
「――泣いてなんか、ないです」
気がついたら私は、誤魔化すように口にしていた。
だって、なんて説明したらいいのか、分からなかったのだ。
今日一日で、私の身に降りかかった全てが、私にトーリを思い出させた。それをセスさんに話すことは、できそうになかった。セスさんがトーリのことを、私にフルートを届けてくれたことを覚えていないなら、私の自己満足は、私の内側だけで完結させていたかったのだ。どうしてだろう、見栄だったのか、羞恥だったのか、それが自分でもよく分からない。もやもやと燻る胸を、思わず押さえる。「全然、泣いてないです」って、もう一度口にしたときだ。セスさんが今までにないくらいのため息を吐いて、私の手首を掴んだのは。
びっくりした。
ぎゅう、って握りしめられた腕は、痛いくらいだった。私の方に僅かに身を乗り出したセスさんの、まだちゃんと乾ききってはいない前髪の隙間から、普段は隠れている左目が見える。ぞわ、としてしまう。「ちゃんと答えなさい」セスさんの低い声は、耳に直接囁かれたみたいに、近い。
雨が降っていた。三年以上続く、私たちの日常だった。でももう、私の日常は、本当はもう、どこにもない。アマテラス社が全部、奪ってしまった。私にトーリの欠片を戻してくれたのは、あなただけ。
「…………嘘は吐かない方が身のためですよ」
びっくりするくらい優しい声なのに、なんでそんな、保安部の人みたいな口調で、尋問するみたいに言うんだろう。
こんなときなのに、ちょっと笑えてしまって、鼻の奥が痛いまま、息を吐いた。笑ったつもりだったのに、泣いていた。私がトーリの話をセスさんにしたくなかったのは、私の恋に、理由がつけられてしまいそうな気がしたからだったんだって、そのとき思った。