どうやら保安部は、指名手配犯であるユーマ=ココヘッドを、総力を挙げて追っているらしい。
 ギンマ地区の大通りは、普段の警備の数倍の保安部員で埋め尽くされていた。テロリスト対策班だけでなく、他の課の人間まで引っ張り出されているのかもしれない。ギンマ地区だけでなく、他の地区にも保安部を配備しているなら、の話ではあるが。
 顔全体を覆うマスクをつけ、皮膚を露出させない彼らが実際はどこの所属なのか、遠目からで班別することはできないが、妙に殺気だっているらしいことは飛び交う怒号からも察せられた。もしかしたら、指名手配犯が近くに潜んでいるという情報でもあったのかもしれない。タイミングの悪さに、小さく舌打ちする。いっそ、それらしき人影でも見つかってくれればそちらに注意を引きつけられるものを。
 雨は相変わらず、容赦なく降り注いでいた。バスを使えば濡れることはないが、万が一そこで保安部に気付かれれば逃げ場がない。人混みに紛れながら、歩いて行った方が良いだろう。なるべく軒の下を歩きながら、通行人に紛れるように先へ進む。カナイ区にはわざわざ雨に濡れることを好む酔狂者も少なくはないから、傘やレインコートがないというだけで悪目立ちすることがないというのは、幸運だった。
 軽く俯いて、フードを深く被り直す。その瞬間、前方を歩く二人組の女子高生が「そういやマルノモン地区、やばいらしいよ。ほとんど水没してるっぽい」と他人事のように話すのを聞いて、思わず伏せていた目線をあげた。赤い制服は、エーテルア女学院のものだ。以前、彼女が「可愛い」と言っていた。



「友達のお姉ちゃんがさあ、逃げ遅れて、会社に取り残されちゃったんだって。今救助待ってる、って、さっき友達に連絡来たんだよー。写真見せてもらったけど、もう大分水に浸かっちゃってて」

「え〜、大変なんだねえ」

「ねー、早く助けてもらえるといいよねえ」



 マルノモン地区。水没。救助。
 たった三つの言葉だけで、頭痛を覚える。あのニュースだけでもある程度の水害であることは想像していたが、まさか水没とは。となると、あの周辺で、何か余程のことが起きたのだろう。排水設備が幾つか破壊されたのだろうか、と想像するが、それだけで水没という事態になるとは考えにくい。水力発電所に細工でもされて、マルノモン地区一帯に大量の水が押し寄せた、その結果排水処理が追い付かず、洪水を起こした。そう考えるのが自然だろう。犯人は恐らく、リーク情報を流して現在進行形で市中を混乱させている、ドーヤ地区のレジスタンス一派だ。その理由を推測できるだけの情報は、今の私にはないが。



「………………はぁ」



 ため息を吐いて、歩幅の狭い彼女たちを追い抜く。隙間を縫うように降り注ぐ雨が肌に触れて煩わしかったが、急がなくてはならない。
 間違いなく彼女は、未だマルノモン地区にいるのだろう。鈍臭い上に、無類のお人好しだ。逃げ切れず、最後の最後まで取り残されている姿は簡単に想像できて、ほとんど苛立ちに近い感情を抱いてしまう。もっと自分勝手に生きるべきなのだ、この街では。独善から離れた場所にいる彼女には、難しいことなのかもしれないけれど。
 気が急いていた。だから、その一瞬、私は確かに周囲に注意を払っていなかったのだろう。角を曲がったとき、丁度死角からやって来た二人組の保安部員と鉢合わせてしまったのだ。



「!」

「うおっ」



 あわや接触しかけて、慌てて身を捩る。不味い。外れないよう、パーカーのフードに手を添えた。視線が合いかけたのを咄嗟に外す。どこか覚えがある声だったのにも、肝が冷えてしまった。――勘違いでなければ、恐らく私の元部下だ。調査課の人間が動員されているのは想定の範囲内だったが、まさかこのタイミングで接触してしまうとは。
 声を出さぬよう顔を隠したまま小さく会釈だけをして、先を行く。変に走っては不自然だ。彼らが追っているユーマ=ココヘッドと私では体格が違うが、彼が変装もせずに逃げ回っているとは考えにくいし、保安部員もそのつもりでいるだろう。――少しでも不審な点があれば罪を着せろ。調査課がそういう組織であることを、一番良く知っているのは、他でもない私なのだ。
 呼び止められることは、しかしなかった。ただ、何か引っかかるものはあったのだろう。「あれ?」と不思議そうな声を彼が発したのを、そのとき私は確かに聞いた。振り向きも、足を止めることも、勿論しなかったけれど。
 もう一人の保安部員が、私と接触しかけた男に「どうした?」と尋ねる声を聞く。意識の大部分を、彼らの会話に割く。



「いや、なんか……前の上司に似てた気がして」

「上司? 上司って…………セス=バロウズ? …………いやいや、あの人があんな派手な服着て歩くかよ」

「……まあ、確かに。似てただけか」

「そうそう、それにあの人は――」



 自分の名前が出た瞬間に生じた緊張を解いたのも束の間。もう一人の保安部員が一度そこで言葉を止める。雨の音が、その声を変に歪ませたのだろうか。



「あの人は、もう処刑されたって通達が、この前ちゃんとあったじゃん」



 思わず息を止める。それがどういうことなのか、確かめる術は今の私にはない。








「いてててて……」



 避難用に解放されていたビルの一階で、破れてボロボロになったストッキングを脱いだ。構わず水に入ってしまったものだから、足の指の間まで湿って、すごく気持ち悪い。余ったタオルを身体の近くに敷いて、そこに足を乗せた。行儀が良くなかったけれど、もう私以外に人は誰もいないから、遠慮することもなかった。撥水の意味がないくらいにぐちゃぐちゃに湿ったブーツが、足元で横向きに倒れる。
 掻き集めた救急用品は、ほとんど使い切ってしまった。それだけ怪我人がいたってことだ。でも、消毒液はあるし、大きめの絆創膏もある。この怪我の治療くらいはできるだろう。



「ふん、ふーん……」



 誰もいないのを良いことに、鼻歌を口ずさむ。がらんとしたロビーは、私の声を細やかに反響させている。
 血と水で湿ったストッキングを身体の脇に放ると、そのまま足をソファの座面に乗せた。固まった血を綿で慎重に拭う。ピンク色の染みこんだ綿は、後でゴミ箱に捨てさせてもらうことにしよう。次にマルノモン地区のゴミが回収されるのが一体いつになるのか、私には、ちょっとよく分からないけれど。



「ふんふん……ふーん」



 救助は、滞りなく終わった。振り返って見ると、本当にあっという間だった。銀行にいた人たちも、私の会社の同僚たちも、皆無事に救助されたし、小さな怪我を負った人はいたものの、入院が必要になるような人は見られなかった。死者は出なかった。それを知って、救助に携わった皆が胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
 最後に避難してきたのは水力発電所の職員たちで、彼らは、今回の水害の原因は、発電所のバルブにあるって説明してくれた。水量を調節するためのバルブが開きっぱなしになって、操作できなくなってしまったらしい。原因は不明。どうやらあのとき、電話ボックスの爆発に紛れる形で、地区内の配水管が破壊されていたらしく、それも浸水の大きな要因になったんだとか。
 水は、建物の一階部分を飲み込んで、ようやく増加が緩やかになった。今はもう、随分静かだ。結局保安部は現われなかったし、今後の復旧の目処も立っていない。会社は、水が引くまではおやすみだって。ちょっと嬉しいような気もしたけれど、反面、再開してからの忙しさが容易に想像できて、お腹が痛くなってしまった。何でもほどほど、中庸がいいのだ、本当は。



「ふふん……ふん……」



 救助を終えて、皆は次々に引揚げていった。家族に連絡をして、迎えに来て貰う人がほとんどだった。皆、バスなんかに乗れないくらいボロボロのぐちゃぐちゃだったし、すごくいい判断だと思う。ニュースにもなって、ご家族も心配されていただろうしね。
 私は一応、あの時毛布をかけて避難させたおばあさんのご家族が迎えに来るまでと思って、さっきまで、ずっとここでおばあさんとお話をしていたのだ。「銀行に用事があったのに、ずーっと待たされて、こんなことになっちゃったのよ。朝一番に行ったのにねえ。やっぱりお休みの前の日は、だめよねえ」たくさんお話してくれるおばあさんに、そうですねえ、でもいつも混んでますよねえ、って相槌を打っているうち、お迎えのご家族がやってきた。お礼を言われてしまったけれど、ずっと一緒にいただけだから、かえって恐縮してしまった。
 私も帰ろう。きっと、セスさんがおうちで待っている。もしかしたら、ニュースを見て心配してくれているかもしれない。そう思っていたんだけど、ちょっと疲れてしまったのだ。ギンマ地区まで歩いて帰るなんて、とてもじゃないけど、すぐにはできそうになかった。
 だから、怪我の治療をするついでに、ちょっと休憩。
 おばあさんがいなくなったロビーはがらんとして、物寂しかった。水位はさっきから、さして変わりないようだった。なのにごうごうと、まだどこかで地鳴りのような音が鳴っている気がした。それが本当に鳴っている音なのか、幻聴とか、耳鳴りなのかも分からなかった。



「ふんふ〜…………んぃッ!」



 消毒液を染みこませた綿を患部に触れさせたとき、痛みでびくりと身体が震えた。おそるおそる確かめるけど、血はもう止まっているし、大きな怪我じゃない。この前の、ドローン傘にやられたときの方が、ずっと痛かった。あの時の傷は、今はもう、すっかり治っている。
 長く続く雨のせいで、私たちの身体を流れる血の色はすっかりピンクになってしまった。
 三年前からアマテラス社の最高責任者であるマコト=カグツチさんは、私たちにそう説明してくれたけれど、やっぱり慣れるものでもない。ピンク色の傷口を丁寧に拭って、それから残っていたはずの絆創膏を探す。簡易用の救急箱は、さっきまで使っていた私のせいなんだけど、ゴミも混ざってちょっと見ただけでは何が何だか分からない。



「……ふーん……ふふん、ふん……」



 でも、お迎えに来てくれる家族がいるって、いいな。そんなことを思ってしまったのは、無意識に歌っていた鼻歌が、トーリがよくフルートで奏でていたメロディだって気がついたせいだろう。
 雨で萎びた絆創膏を見つけて、手に取る。いいな。と思う。いいな。家族がいるのって。



「ふん……ふふん……」



 もしトーリが生きてたら。
 もしもトーリが生きていたら、トーリは多分、真っ先にマルノモン地区に駆けつけてくれる。お友達を連れて、多分、救助の中心になってすらくれたんじゃないかな。それで、「姉さんはとろくさいんだから、避難所の人たちにお茶でも配ってて」って、私を現場から遠ざける。
 責任感の強い子だったから、救助された最後の一人が無事にマルノモン地区を離れるのを見届けるまで、ずっとそこにいるんだろう。それで、全部終わったら私を呼びに来て、「帰ろう」って言う。「帰ろう姉さん、流石に疲れたよ」って。
 でも、トーリはもうどこにもいない。迎えにきてもくれないし、おうちに帰っても、いない。
 は、と息が漏れた。鼻歌は途切れて、目の奥が熱かった。何でトーリがいないんだろう。半年で無理に癒したはずの傷を、私は自分の手で開いてしまう。もう開かない扉を思い出す。朝になってもテーブルに置かれたままの夕飯を思い出す。繋がらない電話。公園にいた若者が大勢連れて行かれた、って噂話。トーリはどこにもいなかった。何もかもが、あの日の私を追い詰めた。
 胸が引き裂かれたみたいに痛くて、だけど泣きたくなくて、高い天井に向かって、ぎゅうと目を瞑った。灯りの消えた建物内は薄暗かった。窓からの、外の、ぼんやりとした灯りだけが、私のことを照らしていた。泣くのを堪えるために、唸る。長く、長く。だから、私は背後の足音に、全然気がつかなかった。その人の吐き出したため息も。
 でも、いつもだったら物凄く小さなその声に心臓がはっきりと音を立てたのは、彼がそのとき初めて、私を名前で呼んだからだ。



「――さん」



 迎えに来てくれる家族がいるって、いいな、って思ってた。
 自分にはもう、縁がないものだって決めつけていたから。
 半身を捻る。そこには、雨の滴ったフードを取ったセスさんが、疲れきった顔で立っていた。


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