ジェット船外機付きの本格的な救助用ボートは、隣接するカマサキ地区から借り受けたものらしい。
 幸運にも、似た形のボートを扱った経験があるという男性がいて、彼を中心に救助隊が組まれることになった。お客さんも取り残されているであろう、銀行方面から救助を始めるらしい。子供と老人を優先して、けれど負傷者は最優先で。話し合いに参加しながら、ほとんどが勤め人であるマルノモン地区で災害が起きたのは、不幸中の幸いだったのかな、と考えた。これが住宅街の多いギンマ地区だったら、自力で逃げられない人が多くて、もっと大変だっただろう。
 それでも今後どれくらい水かさが増すか分からない以上、救助は時間との勝負だ。私や他の女性たちは、怪我人を治療するための救急用品やタオル、毛布などを掻き集めるために奔走する。決して降り止むことのない雨に打たれながら、ただ、誰もが必死だった。何が起きてこんなことになっているのか、けれど、説明できる人は、その時ここにはいなかった。








「………………一時間…………経ちましたね…………」



 長針が一周したのを見届けて、深くため息を吐く。
 あれから、新しい情報は何もない。先ほどから再びテレビの電源をつけたが、アマテラス社がスポンサーを務めるニュース番組は相変わらず指名手配犯、ユーマ=ココヘッドに関する情報を垂れ流すだけで、最早マルノモン地区に関しては何も得られるものがなかった。
 アマテラス社はレジスタンスの、というよりも、ユーマ=ココヘッドの捕縛を優先しているのだろう。そのためなら、住民の命の百や二百、失われようと構わない――そう言ったところか。無論、本当にマルノモン地区が未曾有の危機に陥っているかどうかも分からない今、はっきりと断定できるものでもないが。
 彼女も、戻っては来ない。その兆候すらもない。時間だけがゆるゆると過ぎ去って、空の暗さばかりが増していく。
 私自身が定めた刻限は過ぎていた。ならば、やることは一つだ。息を一つ吐いて、干し場代わりになっているカーテンレールにかかったハンガーから、パーカーを取る。途端にむっと香る少し甘すぎる柔軟剤の匂いに、思わず眉を寄せた。この匂いには慣れたつもりでいたが、生地のせいだろうか。私のものよりも、妙に濃く香っている気がする。
 しかし、いつ見ても派手な色だ。私だったら、絶対に選ばない。一体何を考えてこれを私に着せようと思ったのか。こんな色の服は、二十余年の人生において、手にとったことすら初めてだった。けれど、だからこそ「変装」には丁度良いのだろう。



「セスさんもちょっとくらいだったら、変装してお出かけとかしたって良いんじゃないですか? 眼鏡とか、サングラスとか!」



 案外バレないかもしれないじゃないですか。先日、彼女はそんなことを言って笑った。そういう浅はかな考えは理解できなかったし、目で否定はしたが、ころころ変わる彼女の表情は、嫌いではなかったのだ。
 パーカーが乾ききっていることを確認して、袖に腕を通す。彼女が着ていると僅かに余るそれは私には丁度良くて、少し笑えた。



「指名手配犯に関する情報は、アマテラス社保安部まで――」



 同じ事を繰り返すだけのテレビを消す。パーカーのフードを被って、部屋の灯りを落とした。振り返ると、カーテンの向こうが微かに白んで見えた。
 ひとりで座るには大きすぎるソファ。並んで食事を摂ったローテーブル。棚にある本は、全部読んだ。(彼女は面白かったと言っていたが、アマテラス社の検閲を通っただけあって、どれも非現実的で毒気のない、陳腐な小説ばかりだった。)毛足の長い絨毯に座る彼女の姿を思い出す。包帯を巻いてやった、あの柔らかい手。二人分の食器が収められた、こぢんまりとした食器棚。閉ざされた、彼女の部屋の扉。そのクローゼットに隠された私の制服と、彼のフルート。壊れたドローン傘の残骸は、もうこの家にはない。思い出と名付けるには細やかすぎるものたちが、記憶の中に、きちんと収まっている。
 出て行くときは、二度とこの家に戻らないときだと思っていた。



「………………」



 身を翻し、黒い玄関扉に手を触れ、それに力を込める。逡巡は、さしてなかった。この一時間で、覚悟は済んでいた。軋む音を立てて、扉が開く。それでも無意識に、唇を噛む。
 一歩外に出た瞬間、肌に纏わり付く空気が変わったのが分かった。雨の、どこか埃っぽい湿った匂いがする。相変わらずの曇り空とは言え、空の、家の灯りとは違う種類の光に、思わず目を細めた。長い間、壁一枚隔てた先でしか聞いていなかった雨の音は、どこか懐かしく、耳に馴染んだ。
 傘も、レインコートもないが、仕方ない。軒から踏み出せば、ぬかるんだ地面に踵が沈んだ。雨は煩わしいほどに、パーカーに染みを作った。
 三年。
 閉ざされたカナイ区は、今や腐敗を始めている。分かっていて、私はその円の中心にいた。だからこそ分かる。どこにも行くことのできない彼女たちは、恐らく人並みの幸せすらも得られない。それでも、彼女くらいはどうにか、これ以上不幸な目には遭わずにいてほしいと思うのだ。地べたに蹲る私を、しゃがみこんで、心配そうに窺ったあの目が、今も焼き付いて消えない。
 人気のほとんどなかった住宅街から大通りへと向かう道中、外気に触れる肌を、フードを深く被ることで隠した。ざわめきが近い。息を潜めて、周囲に視線を巡らす。伸びた髪が煩わしかった。建物の窓硝子に反射する自分の姿をなるべく視界に入れないようにしながら、複数の保安部の姿が遠目からでも確認できる雑踏に、いつもよりも大きい歩幅で踏み込んだ。








「すみません、誰か、こっちに毛布を!」

「は、はい! 今行きます!」



 大丈夫ですか、とボートから降りてきたおばあさんの背に毛布をかけて、避難者が身体を休ませるために使ってほしいと解放された、マルノモン地区の、比較的高い位置にあるビルの待合室に連れていく。寒さで震えているようだったけれど、怪我はないらしい。ほっと胸を撫で下ろす。



「大変でしたね、温かいお茶がありますよ」



 ソファに座るや否や、そう言っておばあさんにお茶を差し出してくださる女性職員に向かって「よろしくお願いします」と頭を下げて、私は再び外へと引き返した。救助者は次から次へとやって来るのだ。足を止めている時間もない。
 水は、すっかりマルノモン地区を飲み込んでいた。どこを見渡しても、建物の、一階部分は全滅。さっき軋んだ音を立てていた歩道のルーフは、質量のある何かがぶつかったのか、柱から折れて半分くらい水に沈んでいた。水かさは増す一方だ。「これ、水力発電所で事故があったんじゃねえか?」あちこちでそんな疑問が上がったけれど、真実は、誰にも分からなかった。
 視認できる範囲でも、どこかの会社のものらしいデスクや椅子が至る所に流れ出ていた。巨大なコンテナや、持ち主がやむを得ず捨てていったらしい車、廃材に、カフェテーブルのパラソルが街の中を漂う様は、映画のワンシーンみたいで、全然現実味がない。こうして走り回っている今でも、本当は、夢なんじゃないかな? って思ってしまう。だけど、さっきボートから子供が降りるのを手助けしようとした際、水に浸かった瞬間に廃材か何かで切ってしまったらしい傷口は、確かにずきずきと痛んでいた。……見るのが怖いから、ちゃんと確認してはいないけど、間違いなく出血はしていると思う。痛い、ってことは、夢じゃないのだ、恐ろしいことに。だからこそ、余計に、動いていたかった。絶え間なく降り注ぐ疑問や恐怖から、そうしているうちは目を逸らしていられた。
 避難所代わりのビルから飛び出た瞬間、「誰か! 手が空いている人!」と水際から叫ばれて、はっと顔を上げる。



「怪我人だ! 治療を頼む!」

「わ、私! やります!」



 治療に関しては、私なんかよりもセスさんの方がよっぽど上手いけど。器用に包帯を巻いてくれたセスさんの手を思い出す。胸が苦しくなって、慌てて首を振って駆け出した。
 保安部の姿は、今もマルノモン地区にはない。カナイ区の地べたを這う、私たちだけが、いつもこうして必死に、生にしがみついている。


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