マルノモン地区が浸水しているらしい。
原因は、今のところ不明。ライブ映像も流されることのないまま、不用意に該当地区に近づかないようにという警告だけを流して臨時ニュースは終わった。相変わらず、この街では本質の輪郭をなぞる程度の報道しかなされない。そんなこと、今に始まったことではないが。
「………………はぁ」
指名手配犯の映像に切り替わる画面を前に、今日何度目になるか分からないため息を吐く。
――このタイミングで浸水。それも、マルノモン地区で。
どう考えても、自然発生的なものではないだろう。その浸水とやらがどの程度のものなのか分からないことには何とも言えないが、少なくとも足首ほどの浸水かそこら程度では、アマテラス社はニュースとして取り上げることも、市民への警告もしない。恐らく、その「浸水」はもっと重大なものなのではないか。そんなことを、ぼんやりと考える。
そしてそれは恐らく、先にあったあの爆発と無関係ではないのだ。
元がつくとは言え、保安部調査課長として、多少なりともカナイ区の表も裏も知っている身だ。ドーヤ地区のテロリスト。犯行声明文。アマテラス社への内部リーク。それから実行犯として指名手配された、あの世界探偵機構から派遣された探偵、ユーマ=ココヘッド。爆発、そして浸水。けれど現在マルノモン地区で何が起きているかの答えに辿り着くには、足りない。当たり前だ。テレビから与えられた情報しかないのだから。せめて市内に設置された監視カメラ映像にアクセスできれば話は変わってくるだろうが、今の私にそんな権限があるはずもない。
どうでもいい情報を垂れ流すだけのテレビを消す。ソファに身体を預けながら、薄暗い部屋の片隅を見つめる。
けれど、そもそも考えて、一体何になるのかと、頭の端で思う。私は今や、追われる身だ。一般市民ですらない。今更調査課長の真似事などして、何になろう。
「………………」
アマテラス社に未練はなかった。ヨミー様に裏切られた直後の喪心が、怒りに変換されたわけでもなかった。本当に、何もないのだ。ただ、自分は間違えたのだな、という諦念に似た感情があるだけで。
彼女がいなければ、それにすらも辿り着けないまま死んでいたのだろうけど。
部屋にかけてある時計を見る。最初の爆発から、約一時間半が経っていた。
この間、彼女からの連絡は一度もない。「会社の目の前で爆発があったんですよ! びっくりしたあ!」と、帰ってくることも想像していたが、しかしそれもなかった。室内は、私の体温だけを置いて、静かに時を進めている。肘置きについた腕に体重をかける。眉根が寄っていることに気がついて、思わず目を伏せる。
――脳内を巡るのは、彼女のことばかりだ。
爆発に巻き込まれていないか。偶然見かけたユーマ=ココヘッドを追いかけてはいないか。何かもっと厄介な――それこそヨミー様に見つかってはいまいか。私を隠匿している罪から、連行されてはいまいか。そういった心配ばかりが頭を埋め尽くす。
それに、最早気がかりはそれだけに留まらない。浸水が起きたマルノモン地区で、逃げるのに他人を優先して、一人取り残されてはいないか。逃げ遅れた子供を抱きかかえて、代わりに沈んではいやしまいか。荷物を取りに引き返してないか。全部あり得そうで、頭痛がする。私は彼女ほど後先考えない人間を知らないのだ。
路傍に蹲った私に声をかけてしまうくらいのお人好しで、その上、自分が罪を背負うことになると知りながらも私を匿いさえした、向こう見ずな人間だ。いくら私を恩人と認識しているからと言って、ろくに知らない男を平気で自分の家に住まわせるような、危機管理能力の低い人間。カナイ区で暮らすのに必要な防衛本能の明らかに欠乏した彼女が、今、渦中のマルノモン地区にいる。落ち着かないのは、彼女を「そういう意味」では一切信頼していないせいだろう。無事に帰ってくるとは思えない。
立ち上がって、カーテンの隙間から外を窺う。似たような切妻屋根が並んで雨に打たれているのが見えるだけで、そこに異常はない。マルノモン地区から離れたギンマ地区の住宅街は、事件の匂いを感じさせないくらい平穏だった。口の端から息が漏れる。あと、一時間。
もしあと一時間経っても彼女が帰ってこなければ、その時、何か対策を打つことにしよう。
その「何か」の仔細を考えたとき、どうしても、いつだったか彼女が発した言葉が脳裏をちらつくけれど。
昨日からカーテンレールに引っかけられた黄色いパーカーを視界の真ん中に置いて、もう一度、ため息を吐いた。
「ひえ…………」
マルノモン地区で浸水が発生しました、ってニュースで流れたから、慌てて戻ったはいいものの、目の前の光景は、浸水、っていうレベルを超え始めているように思えた。茶色く汚れた泥水が、マルノモン地区の入り口である下り坂の途中まで迫ってきていたのだ。
元々マルノモン地区は、カナイ区の他地区と比べて土地が低くなっている分、雨水が溜まりやすい立地になっている。それでも、街中に巡らされた配水管のおかげで、一度も浸水被害に遭ったことはなかったはずだ。それなのに、今も尚水かさは増しているように見えて、思わず後ずさった。
マルノモン地区が、湖になってしまったみたいだ。
たまに利用するカフェも、道路も、バスから見かけるビルも、じわじわと水に浸食されていく。
「やばいなーこれ。配水管が壊れたのか?」
「いやー、一カ所二カ所程度故障したところで、こうはならないだろ」
隣接するカマサキ地区からやって来たらしい野次馬の言葉に、心の中で、確かに、って考える。じゃあ、きっと何か他にも要因があるんだろう。普通の――今日くらいの、カナイ区にとって常識的な雨量じゃ、ここまでの水位の変動は考えられない。さっきカマサキ地区にまで響いていた地鳴りのような音を思い出す。やっぱり、あれが原因なんだろうか? でも、あの音の正体がなんだったのか、誰も分からない。テレビはなんにも、教えてくれない。
マルノモン地区で働く人たちが、水の中をざかざか歩いて避難しているのが分かる。歩道橋で取り残されて途方に暮れている人たちの姿も。彼らに向かって、水の中を歩いている人たちが合図しているのを見た。今逃げておかないと、逃げられなくなる、ってことなんだろう。
私が携帯を握りしめたままおろおろしているうち、水深はみるみる深くなっていく。つい先ほどまでは水深は膝丈くらいだったはずなのに、もう、腿くらいまでは及んでいるんじゃないだろうか。そのとき、流れてくる漂流物を手でどかしながら、何人かの男性が水の被害が未だ及んでいないこちら側にまで辿り着いた。手に持っていた靴を道路に放り投げて、大きくため息を吐く。
「やばいなこれ。どんどん水位が上がってる。保安部はまだ来ないのか?」
「あ、あの私、さっき通報したんですけど……! 十分くらい前に……!」
思わず携帯端末を握りしめたまま挙手した。知らない人だったけれど、こういう災害時って、必然、仲間意識も強くなる。
「でも、自動音声で……。もしかしたら他にも通報してる方が大勢いらっしゃって、パンクしてるのかもしれないです……」
男性は私に、「いや。だけどそれで今まで来ないんだったら、もしかしたら保安部はこっちに人員を割く気がないのかもしれないですね」って、神妙な顔で口にした。え、って思わず息を飲む。人員を割く気がないなんて、そんなことあるんだろうか。彼の後ろから、スーツの裾を捲り上げて避難してきた男性が、「あー、さっきのあれ? 指名手配犯に手一杯、ってこと?」って眉を顰めたのに、はっとした。そういえばすっかり忘れていたけれど、電話ボックスの爆発もあったんだ。爆発に、指名手配犯の逃亡に、浸水、今日のマルノモン地区は、災難続きだ。
「じゃ、じゃあどうしたら……」
そうしている間にも、水位はどんどん上がっていく。マルノモン地区が、水没していく。カマサキ地区に程近いビルにいた人たちはほとんどが自力で脱出できたけれど、奥の方――それこそ銀行とか、私の会社の皆とかは、孤立したままだろう。歩道橋にも、結局躊躇っているうちに逃げ遅れてしまったらしい女性の姿があった。水圧に耐えられなくなり始めているのか、設置された歩行者用の巨大なルーフが、みしみしと嫌な音を立て始めている。乗り捨てられたらしい乗用車が、水に浮いている。
「……保安部が来ないなら、俺達で救助活動するしかないな」
先の男性が、首元のネクタイを緩めながら言うのに、ぱっと顔を上げた。これから水位がどれくらい上昇するか分からない以上、放っておくわけにはいかない。保安部の救助も期待できない今、私たち市民がどうにかするしかないのだ。
「私もお手伝いします!」
いつの間にか、男性の周囲には多くの人たちが集まってきていた。野次馬をしていたカマサキ地区からの青年たち、どうにか逃げてきたマルノモン地区の人々。皆がそれぞれ、救助のための案を出し合っていく。
水位は、私がマルノモン地区に戻って来たときよりも明らかに増していた。湖のようになってしまったその広い水面を、夥しい数の雨粒が叩いている。だけど、どうにかしなくちゃ、って思う。今まさに水没していくビル群、その整然とした街並みが、私は好きだったのだ。