さしていつもと変わりのない日だった。
家を出た後かろうじて発車寸前のバスに乗り込んで、上司に怒られないギリギリのタイミングで出社を済ませてからは、ずっと雑務に追われていた。会社にかかってきた電話もきちんと取ったし、急な来客の対応もした。書類の不備を指摘されて慌てて修正して、誰かが使ってそのまま放っておいたらしいファイルも、定位置に片付けた。普段と違ったことを敢えて挙げるとするなら、朝伝線させたストッキングを、どうせ内腿だし誰にもバレないだろうと思ってはいてきてしまったのが、今になってやっぱりちょっと気になりはじめた、ってことくらい。やっぱり新しいのにしたら良かった。でも、あの時は開封してる時間も手間も惜しかったのだ。別のをはいていたら、多分、遅刻してたくらいだったから。
窓の外はいつも通り雨が降り続いていたし、お隣にあるマルノモン銀行は今日も相変わらずの混雑らしく、手続きに向かった同僚もなかなか帰ってこなかった。お昼はいつも一緒に食べていたけれど、今日は別々になりそうだ。でも、丁度良かったかも。今日はどうしても肉まんが食べたい気分だったから。(マルノモン地区にある肉まん屋さんは、味の割に高いのだ。だったらもう少し足を伸ばしてカマサキ地区に行った方が安上がりなんだけど、同僚と一緒だと、私もそこまで自由には振る舞えない。)
ちらりと時計を見る。お昼休みまでは、まだまだ時間がある。ぎゅう、って鳴るお腹の音を咳払いでかき消しながら、セスさんは今頃何をしているのかなあ、って頭の隅で考えたけれど、薄暗し部屋の中、ソファに座っている以外のセスさんは、何も思い浮かばなかった。
セスさんと、ゆっくり話ができたらいいな、ってぼんやり思う。普段の当たり障りのない会話じゃなく、一歩二歩くらいは踏み込んだお話。お互いに避けてきた部分とか、線を引いていた部分に触れられなくても、その少し手前くらいまで。望みすぎだろうか。
この週末とかに、どうかな。コーヒーとか淹れて、なんかこう、穏やかな空気を作って――。いや、でもあのセスさんだ。「何を考えてるんですか……?」って、警戒されそうな気がする。それでまた心が離れちゃったらどうしよう、それもいやだ。そこまで考えて、はっとした。打ち込んでいた数字の桁が違う。
まずいまずい。一桁でもまずいのに、二桁はすっごくまずい。慌てて修正しようとした、その時だった。
どぉん、って大きな音と、振動があったのは。
びくりと身体が震えた。窓硝子がピリピリ鳴って、電気が一瞬消えた。ぶわ、って、鳥肌が立つ。「ひっ!?」って悲鳴が自分の口から漏れたものだったのか、同じ部屋にいた他の人たちからのものだったのかは、分からない。でも、本当に分からないのはそれだけじゃなかった。そっちの方が、問題だった。私は、今の音と振動が、一体何に因るものだったのか、全然わからなかったのだ。窓の外を見た上司が、「はあ?」って声をあげるまで。
「――爆発した?」
爆発?
独りごちるような声を、けれどその場に居た私たちはきちんと拾い上げていた。窓に向かって、数人が駆け寄る。「うわ、ほんとだ……」「電話ボックス?」「巻き込まれた人いるの?」「保安部に連絡しなきゃ」私も遅れて、皆の背後から覗き込む。眼下、丁度銀行の正面にある電話ボックスは黒煙をあげ、その形をひしゃげさせていた。距離を取りつつも、数人の野次馬がそれを取り囲み、外は騒然となっている。――本当に、爆発があったんだ。耳にこびりついた爆発音に、背筋が粟立つ。
この前河川敷に打ち込まれたっていう魚雷とか、そういうレベルではないんだろう。見たところ、怪我人らしき人はいなそうだから。でも、爆発は爆発だ。一歩間違えていたら、死傷者が出ていたかもしれない。興奮と動揺の広がる社内で心臓をばくばくさせながら、窓の外の光景を眺め続ける。レインコートを着た男の子と、すらっとした女性の二人組が走ってくるのを、視界の端は捉えていたけれど、私は彼らを全然、気にも留めては居なかった。
道路を挟んだ向かいのビルに設置された巨大スクリーンに臨時ニュースが流れたのは、その直後のことだった。
「ハロっちゃ〜! カナイ区のドレイども〜!」
音量を絞っておいたというのに、そのキンキンとした声は、私の意識を完全にそちらに向けさせるのには充分だった。
「………………」
ニュースをチェックしていた時に、速報としてテロップが流れたのが今から数分前。そこから臨時ニュースに切り替わるまでの速さは、流石アマテラス社といったところか。今そこに映るのは、覚えのある二人の人間だ。アマテラス社保安部、テロリスト対策班の班長であるギヨーム=ホールと、その部下であるドミニク=フルタンク。
小柄なギヨームとアマテラス社随一の大男であるドミニクは、テレビの画面の中にいても異様な組み合わせだった。これでギヨームの方がドミニクを飼い慣らしているのだから、さらにそれは際立つ。先ほど起きたとされている事件が事件なだけに、彼女らが出てくるのは何もおかしな話ではないのだが。一年前の光景を思い出して、目を伏せる。
「さっきマルノモン地区で爆発があったの知ってる?」
カーテンを閉め切った薄暗い室内、テレビの中で首を傾げるギヨームのツインテールが、大きく揺れた。「爆発のせいで何人か死んだ? 死んでない? ま、どっちでもいいんだけどさ〜……」場にそぐわない明るい声だった。いつもの彼女らしい。ギヨームは笑みを浮かべながら、続ける。
つい先ほど起きた爆発は、ドーヤ地区のレジスタンスが起こした爆弾テロであること。保安部に犯行声明文と、内部リークが届けられたこと。――実行犯の名前は、あの世界探偵機構に所属する探偵、ユーマ=ココヘッドなのだと。
画面に映し出された覚えのある少年然とした顔を見て、肘置きについた手に体重をかける。
「知っての通り、正義の街カナイ区では、テロリストに人権なんてないので〜っす!」
だから、みんな、見つけ次第こいつをやっちゃって。
やがて、画面にノイズが走る。ギヨームに指示されたドミニクがカメラを破壊したのは明確だった。砂嵐状態のままのテレビは、やがて別の静止画へと切り替わった。それでも耳にざあざあと音が残っているように思えるのは、降り止むことのない雨のせいか。
「…………はぁ…………」
ほとんど無意識に吐いたため息は、思いのほか苛立ったような響きを伴っていた。
爆発が起きたのは、マルノモン地区。詳しい場所についてもだが、死傷者が出たのか出ていないのかは、判然としない。ギヨームの様子を見る限りでは、それに関してはまだ正確な情報が伝わっていないらしかった。……おかしな話ではない。保安部は人命よりも、正義を優先する。その正義だって、本来のそれからは遠くかけ離れたものではあるが。
犯人と断定された男の顔が、脳裏に浮かぶ。私がヨミー様に見限られた瞬間、あの場にいた男。
河川敷に魚雷が撃ち込まれたと言うのに、しかし、あのユーマとかいう男は生きていたらしい。
今回の爆発の原因は確かではないが、ドーヤ地区のレジスタンスが企てたものであるということが事実として、彼がそこに繋がりがあるとは思えない。保安部は事件を利用し、指名手配犯として今度こそ確実にユーマ=ココヘッドを排除するつもりだろうか? それほどあの男は保安部にとって目障りなのだろうか? 少し考えて、それから目を伏せた。違う、そんなことはもう、どうでも良い。私はもうアマテラス社とはなんら関わりのない人間なのだから。
問題は、今回爆発が起きたと言われているのがマルノモン地区だということだった。
マルノモン地区は、カナイ区にあるビジネス街だ。カナイ区唯一の銀行や発電所を中心に、いくつものオフィスビルの建ち並ぶ地域で、その一つに彼女の勤めている会社がある。銀行の隣、マルノモン地区にある会社としては、比較的小さなものだ。
「………………」
――まさか、巻き込まれてはいないだろうな。
野次馬に行って、余計なことに首を突っ込んではいないか。うっかりユーマ=ココヘッドと出くわして、変な正義感から彼を捕まえようとはしないか。――これまでの言動からして、有り得ない話ではない。考えれば考えるほど、頭が痛くなる。せめてマルノモン地区でも、彼女の会社と離れた場所で起きた爆発であればいいのだが。
こめかみを押さえながら、小さくため息を吐く。大きすぎるソファが軋んだ音を立てる中、つけっぱなしだったテレビが切り替わった。画面のライブ映像は、爆発の衝撃で変形した電話ボックスを映し出していたが、それが彼女の職場の目と鼻の先であると気がついたとき、分かりやすく眩暈がした。