河川敷の方で爆発事故があったのは、それこそあの女学院で殺人事件があったらしいって噂が広がったのと同じタイミングだった。
女学院の話がはっきりした形で私たちに伝わってくることがなかった一方で、爆発事故の方は街の多くの人が認識している。ニュースにもなったくらいだから。複数回に及ぶ爆発音と振動で、あの辺りは一時騒然としたって話だった。
何でも、川底に魚雷が撃ち込まれたらしい。でも保安部の人たちの対応が早くて、そんなに大ごとにはならなかったみたいだ。死傷者もいなかったんじゃないかな? 川の向こうにはアマテラス本社があるし、ひょっとしたらアマテラス社を狙ったテロとか、そういうのだったのかもしれない。最近は特に街中でも、「打倒天照!」って書かれたポスターが貼られているのを見かけるし、レジスタンス、っていう存在も耳に挟んだことがあるから。
そういうのを聞くと、でも、本当は、落ち着かなくなる。死んでしまった弟のことを思い出して、胸がざわざわする。私はあの子が本当にテロを企てていたとは思っていないけれど、それでも。
「これ、もし仕事中とかだったら、私も爆発に気付いたかもなぁ……」
私の職場があるマルノモン地区は、事件現場である河川敷に程近い。
既に規制は解除されており――そう話すアナウンサーを画面端に収めたニュース番組を眺めながら呟いたのは、その「ざわざわ」から目を逸らしたかったからだった。
「…………近くで何かあったら、野次馬に行くタイプでしょう。あなた……」
けれどセスさんが見透かすように私を見つめるから、思わず目を逸らしてしまった。なんで分かるんだろう。昔から私は割と、揉め事を見かけると後先考えずに首を突っ込んでしまうタイプだった。それで何度、厄介なことに巻き込まれただろう。
セスさんは、はぁ、って、深くため息を吐く。朝食のパンを咀嚼し、飲み込んでから、目線も合わせずに言う。
「…………あなたは……いつも危機感がないですね」
この街では、自分の身を守ることを第一に考えた方が良いですよ。ほとんど忠告みたいに言われてしまって、私は思わず小さくなる。言い返す余地なんてない。ただちょっと、頭の端で、トーリみたいなことを言うな、って思った。顔も背丈も全然似てないのに、トーリとセスさんは、言動が近い。
そんなこと、口の端に上らせることもできないから、「はぁい……」って、素直に返事をしておいたけれど。
「……それより時間、大丈夫なんですか」
「えっ」
「…………いつもと同じ時間に出るなら、そろそろ準備しないとまずいのでは?」
「……ま、まずいです、やばい!」
「………………」
時計を見て、慌てて立ち上がって食器をシンクに運ぶ私に、セスさんは迷惑そうに眉を寄せる。本当はもっと楚々と振る舞いたかったけれど、こればかりは無理だ。バスの時間に間に合わなかったら、部長にちくちく言われてしまうことになる。「セスさん、お皿、このままでいいんで、帰ったら洗うので!」お皿を水にだけつけておいて、部屋に駆けた。部屋着の裾がドアノブに引っかかりそうだったのをすんでのところで避けて自室に飛び込むと、今日着ていく予定だったスカートを引っつかんで、勢いのままに服を脱ぐ。今から着替えて、髪を整えて、化粧もして――間に合う気がしない。
だけど直後、背後で扉が音を立てて閉められて、びっくりした。何も言われなかったけど、多分、セスさんが半開きだったのを見かねて閉めてくれたのだろう。どっと汗をかく。こういうところが、危機感がないって言われる所以なのかもしれない。
「す、すみません……っ!」
扉の向こうは、いつの間にかテレビも消されたらしく、もう、物音一つしなかった。私はまたセスさんに呆れられてしまったらしい。情けなくって、思わず自分の頬を叩く。どうしてこう、落ち着きがないんだろう、私って。
セスさんに嫌われたくない、欲を言えば、好かれたいとすら思っているのに、こんなんじゃ、好きになってもらう要素がない。もっと落ち着いた、しっかりした大人にならなくちゃ。セスさんがこれからも安心して、この家にいられるように。
とりあえず、急ぎながらも物音は立てないように着替えることにした。ストッキングを爪で破いてしまって「ひっ……」と悲鳴が漏れたけど、それだけだった。
「じゃあ、セスさん、いってきます! 今日は真っ直ぐ帰ります!」
通勤用の鞄と年季の入った傘、それからゴミ袋を引っつかみ、慌ただしく家を出て行った彼女を目だけで見送ると、家の中は温度が二度ほど下がったような静けさに包まれる。あの騒々しさには慣れてしまったが、一人の方が、正直に言えば気は安まる。
窓を、雨の叩く音がしていた。三年間ずっと私たちに降り注ぐ、いつもの緩い雨だった。
夜でなくても、厚い雲に覆われたカナイ区は薄暗い。最低限の灯りだけをつけ、彼女が水につけていった皿に触れた。放っておいていいと言われたが、特にやることもない身だ。皿くらいは、洗う。シンクの前に立った瞬間、頭の中で、「新婚みたい」と面映ゆげに笑った彼女が蘇って、思わず「はぁ」とため息が漏れたが。
私がこのアパートに隠れ住むようになって、数日。
あの扉の向こうで、時間は、私を置き去りにして動いている。エーテルア女学院における殺人事件、河川敷の爆発事故――前者は情報統制が成されているらしく情報が少ないために語ることはできないが、後者に関しては、まず間違いなくあの探偵たちが関わっているのは想像がつく。探偵事務所の看板を掲げた河川敷の潜水艦を、拭き飛ばしでもしたか。……ヨミー様ならやりかねないことだ。あの方は、障害となるものを悉く排除していく人だから。邪魔者を、彼は全て切り捨てていく。積み重なる死体の山を傍で見ていた私は、本来ならばそこに自分の死体がなければならないことも、知っている。
――ならば、私はいつまでここにいるべきか。
自身の中にいつもこびり付くそれは、彼女が家を出て、一人になる度に色濃く浮かび上がる。
目的のためならば手段は選ばない人だ。そのための力も、金も、影響力もある。一般人でしかない彼女を捕えるなんて、赤子の手を捻るよりも易いだろう。そうでなかったとしても、それこそあの潜水艦のように、アパートごと吹き飛ばされても不思議ではない。そう思ったら、ぞっとした。己の身がどうこうではなく、彼女のことを思って。
例え着せられた罪であっても、逃亡者を匿う彼女は犯罪者だ。保安部は、間違いなく彼女を罰する。私の気まぐれに、必要のない恩義を抱えて生きてきた彼女は、私という他人のために死ぬ。
手の中で皿が滑った。シンクの中で大きな音を立てた皿の淵部分が、そうとは分からないほど欠ける。それを指先で確かめるように撫でながら、そうなる前に出て行くべきだろうな、と考える。なるべくなら、早い内に。
行くあてがあるわけではない。友人も知人も、私は切り捨てた上で保安部にいたから。身を隠して、カナイ区を点々と移動することになるだろう。保安部に見つかるのは時間の問題だろうし、そうすれば私は今度こそ処罰される。彼女の弟と同じように、死ぬ。
それでも、私に感謝しているのだと馬鹿げたことを言う彼女の命を守るくらいは、できるのだ。
皿の淵は、やはり微かに欠けていた。処分した方が良いだろうかと考えたが、「えー! これくらいだったら全然使えますよ!」と笑う彼女は容易に想像できて、結局、他の同様、水気を拭いた後は、食器棚の定位置に戻した。二人分の人間の皿が収まる小さな食器棚は、扉の取っ手部分が、僅かにぐらついていた。
マルノモン地区で爆発が起きたのは、その日の昼のことだった。