閉ざされたカナイ区は、人間の生み出す負の感情も街の中に閉じ込めて、煮詰まらせてしまう。渦巻く嫉妬、羨望、悪意や、殺意すらも。
自殺や殺人なんてのは日常茶飯事だ。やれあのビルから人が飛び降りただの、密室で人が死んでいただの、痴情のもつれから刺しただの刺されただの。そういうのを聞くと、私はいつもドキドキしてしまう。「また殺人だって」って大した感慨もなく人は言うけれど、私がそれに慣れることなんて、これから先もきっとない。
そういえば、ついこの間も(それこそ昨日とか、一昨日とか、ここ数日での出来事だ)、山の上にある女学校で殺人事件があったらしい。――でも、らしい、ってだけで、それがどういう事件だったかまでははっきりと伝わってこない。学校内での事件なんて割とセンセーショナルなのに、ニュースなんかで取り扱われることがないのだ。
「街の中では結構噂されてるんですけどねえ。なんか、学校の中で複数の死者が出たらしいって」
仕事から帰ると、夕飯の支度をしながらその日聞いた出来事をセスさんに話す。興味がないときセスさんはあからさまに聞き流すけれど、そうじゃないときはきちんと目線を向けて言葉を返してくれるから、ちょっと嬉しくなってしまう。
「……それは……アマテラス社が絡んでいるんでしょうね。……あそこは、アマテラス社に縁のある家庭の子女が多いはずですから……」
「へえ〜! 言われてみれば、あそこってお嬢様学校ですもんね。制服も可愛いし……」
「制服は関係ないのでは…………?」
でも、こういうのも、前までだったら考えられなかった。私の家に来たばかりの頃のセスさんはいつも押し黙って、どこか警戒心を滲ませて私の一挙手一投足を見守っていたから。
「そっかぁ、アマテラス社の関係者かぁ……」
アマテラス社。最初の頃はその単語がセスさんの口から零れる度、私は何だか居たたまれないような、申し訳ないような気になってしまっていたんだけど、カナイ区で暮らしている以上、その名前に触れずにいることは難しかった。だって街にあるものは、ほとんどがアマテラス社製のものだ。テレビ番組だって、新聞だって、アマテラス社の手が入っていないものなんかない。私たちはアマテラス社に色んなものを奪われているけれど、同時に、色んなものを与えられている。日常生活から切り離せないくらい、密接に関わってしまっている。
そんなだから、私ももう、会話の内容を精査するのをやめてしまった。あちこちに転がっている岩を避けて歩くのって、すっごく難しいのだ。セスさんが全然気にしている様子がない、っていうのも、勿論理由としてはあったのだけれど。
だけど、「そういうこと」ってやっぱり本当にあるんだ。身内の不祥事とか、何か良くないことがあると上層部が揉み消す、ってやつ。
「そういうのって、ドラマとか本の中だけの話じゃないんですねぇ」
「………………はぁ」
アマテラス社保安部の捜査課長。ついこの間までそういう立場にいたセスさんは、教会との癒着問題を起こしたことで職を解かれ、今は私のアパートに身を寄せている。外に出ることはなく、ずっとこの単身者用のアパートで、昼も夜も生活している。本を買ってきてほしいと頼まれることはあるけれどそれくらいで、私は日中、セスさんがどんな風に過ごしているのかを、今でもちっとも分からずにいる。
私だったら、ずっと家で隠れてろって言われたら、しんどい。一日二日で、気が滅入ってしまうと思う。ちょっとくらいだったら、変装とかして、お出かけしたっていいんじゃないだろうか。そう提案したら、「馬鹿ですか?」って顔で見つめられてしまった。ダメらしい。
例えセスさんの背負っているものが冤罪であったとしても、逃亡中の身である彼を匿うのは重罪だろう。もしもバレたら、私は今度こそ逮捕されてしまうに違いない。それでも私がセスさんを住まわせているのは、彼に恩義があるからだ。
一年前、彼は私に、弟の遺品を届けてくれた。弟が自分の分身みたいに大事にしていた、お母さんから譲り受けたフルート。セスさんは、弟がテロリストとして捕まり、処刑されたのだと教えてくれた。教えてくれただけで、慰めの言葉をかけてくれたわけではなかったし、私がそれを飲み込んで受け入れるのには、半年くらいの時間が必要だったけれど。
私がアマテラス社を心の底から憎めずにいたのは、セスさんがいたからだ。本来なら、ひとたび身内がテロリストとして捕まれば、その家族までもがアマテラス社に連行されることになる。けれどそれがなかったのは、セスさんが手を回してくれたからなんじゃないか、って、確証はないけれど思っているのだ。多分聞いても答えてくれないだろうし、セスさん自身、あの頃のことを覚えていなそうだから、尋ねることはしない。
相変わらず素っ気ないし、声が小さい上に早口だからたまに何を言っているか聞き取れない。尋ね返すとため息を吐かれたりすることも多いけれど、セスさんは、本当は優しい。
「セスさん、セスさん。これ味見してください」
風邪で寝込む直前、味付けが濃いって言われたのを覚えている私は、ポトフを小皿に盛ってセスさんを手招きする。セスさんは眉根を寄せて「別に、私に合わせなくても良いですよ……」と言うけれど、「セスさんと私の中間を探りたいので!」と主張したら、ため息を一つ吐いてソファから立ち上がってくれた。やっぱり優しいのだ、セスさんは。
今日はコンソメと塩胡椒の量を減らしてみた。私としては、ちょっと薄くて物足りないくらいなんだけど、身体のことを思ったらこれくらいが丁度いいんだろう。きっと。
私の隣に立ったセスさんは小皿を受け取り口につけると、それをそっと傾けた。こうして並んでみると、身長差がしっかり分かって、ぐっとくる。セスさんと私とでは、頭一個とは言わないけれど、それに近いくらいの差があるのだ。
丁度目線の位置にあるセスさんの喉が微かに動くのに、一人でドキドキしてしまう。考え込む様に首を傾げるセスさんは、私が勝手に緊張しているのに、全然気がついていないようだったけれど。小皿から、血色のあまりよくない唇が離れる。セスさんの長い前髪の下で、その瞳がゆっくりと瞬く。
「………………もう少し……薄くても良いですが…………」
「えっ、まだ濃いですか」
「いえ……前よりは、大分マシです……」
「わ、ほんとですか! やったあ」
セスさんに褒められることってあんまりないから、(これが褒めだったのかどうかは別として)嬉しさのあまりその場で飛んでしまいそうになった。顔がにやける。まだ改良の余地はあるみたいだけど、大分マシ、って、セスさんの口から出てきただけで御の字だ。
あまり広いキッチンじゃないから、大人が二人で並んでいると結構狭苦しい。前のアパートはもっと広くて、弟に片付けを協力してもらってもそこまで邪魔にはならなかったけれど、今こうしてセスさんと二人でいると、ちょっとだけ圧迫感のようなものがある。でも、嫌な圧迫感じゃない。誰かが家にいるって、それだけで心がふわふわする。安心する。でも、セスさんと一緒だと、兄弟っていうよりは――。
小皿を返されるときも顔が緩みっぱなしで、「…………なんですか、その顔は」って言われてしまった。セスさんは、私がこの家に彼を連れてきたときより、ずっととっつきやすくなって、だから、そのせいだ。つい、思ったことがそのまま口をついて出てしまったのは。
「なんか、こうしてると新婚さんみたいだなあと思って!」
目の前のセスさんが、一瞬瞠目する。
その珍しい表情を見た私は、それで、我に返った。「あっ」って、慌てて声をあげるも、一度口にしてしまった言葉は撤回できない。違うんです、深い意味はないんです、つい口から出てしまっただけで。だけど、私が何か言い訳するよりも先に、セスさんがため息を吐く方が早かった。
セスさんはちっとも顔色を変えていなかったし、その声色はやっぱり呆れ一色でしかなかった。けれど、「…………将来あなたと結婚する人は……大変そうですね……」って声に、明らかな拒絶の色はないようだったから、それだけで私は胸を撫で下ろしたのだ。
窓の外では、今日も雨が降り続いている。このカナイ区では、今日もどこかで、誰かがひっそり死んでいる。