春の、ぬるい雨が降る夜だった。
 テロリスト、トーリ=エガートンは数名の仲間と共に非公開処刑。遺骸はすぐにカナイ区の共同墓地に運ばれた。カナイ区では、よくあることだ。その辺に掃いて捨てるほど転がっている、日常でしかない。
 遺品なんて、本来なら遺族の元に届くはずがない。値打ちのあるものはアマテラス社によって回収、のち換金されるか、そうでないものは捨てられるだけだ。けれど恐らくあのフルートは、後者だろう。ここにその価値の分かる人間など、そういない。
 それでもあのケースに入れられた年季の入ったフルートが、そのまま処分されることになるのは忍びなかった。本来の奏者である人間はこの世にいなくとも、あれが代々受け継がれてきたものであるなら、家族の元に戻されるべきだと思ったのだ。
 廊下に打ち捨てられたそれを拾う。手に馴染む楽器の重みに、その懐かしさに、気がつかないふりをする。








 ――アマテラス社に反抗したものは、その家族も連行されることになる。
 テロリストして処理されることになる「彼」の個人情報をそこから抜いたのは、あの遺品を正しく管理する人間が必要だったからだ。
 そうでなくとも、トーリ=エガートンの両親は既に死亡。同居家族は成人した姉ただ一人。それを連行し、拷問の上に処刑したとて何になろう。どうせ、トーリ=エガートンが本当にテロリストだったかどうかは疑わしいのだ。ならば一人くらい、捜査の網からすり抜けたとて問題はあるまい。
 証拠の偽造には慣れていた。捜査課長として、日頃からそういったことに手を染めていたから。あのテロリスト対策班長は私がトーリ=エガートンのデータを削除しても、全く気がつくことはなかった。








 けれど私は、その後のことをほとんど記憶から削ぎ落としてしまっていた。というよりも、捜査課長としての忙しない日々があれを記憶の彼方に追いやったのだ。
 フルートを遺品として、彼の遺族に届けたこと。ギンマ地区の東に伸びる道路沿いにあったアパート。開かれた扉の奥から、弟の名を叫び飛び出てきた、髪も顔も、着ていたものすらぐちゃぐちゃだった女。
 彼女はアマテラス社の制服を着た私を見て、目を見開いていた。全てを悟ったような顔をしていた。同情の気持ちなどなかったのだ、欠片すら。



「…………彼は亡くなりました」



 テロリストとして、処刑が既に完了しています。
 雨音にかき消えるほどの声量だっただろうに、それを彼女はきちんと拾ったのだろう。彼女がそれに、なんと答えたかは覚えていない。――覚えていたとして、どうしてあれを「彼女」と一致させることができたか。あれはほとんど、今の彼女とは別人だった。たった一人の弟の死を前に、絶望に打ちひしがれた彼女から、本来の明るさははっきりと損なわれていた。
 彼女はやがてその場に座り込んだ。何日か櫛の通されていないらしい、絡まった長い髪が、玄関の灯りに照らされていた。星のまたたきのように見えた。私の差し出したフルートのケースを抱きしめ、彼女は「やだ、トーリ」と呟いた。「ひとりにしないで」と泣いた。カナイ区で暮らすのに、彼女は充分な強さを持ってはいなかった。








「私はこういう者です。えーと…………とても安全、です」



 信頼してほしいと、この家に連れられてきたばかりの頃に、どこか緊張した面持ちでいた彼女に身分証を見せられた。エガートンと言う姓はカナイ区で珍しいものではなかったから、さして気にも留めなかった。いや、気に留めたところで、私は一年前のことを覚えていなかったから、きっと意味はなかったのだろうけれど。
 けれどクローゼットの奥に押し込められるように片付けられたフルートのケースを見つけたとき、どうして手に取って眺めなかったのか。きちんと確認していれば、もっと早くにこのたゆんだ糸は繋がったかもしれなかった。あれの重さを、手触りを、私は知っていたのだから。








 手足を丸め、彼女は譫言を繰り返している。「トーリ」「トーリ、ごめんね」謝る必要などどこにあったろう。あれは運が悪かっただけだ。何か一つでもずれていたら、失われなかったはずの命。
 彼女は、恐らく私のことを覚えていた。弟の死を伝え、その遺品を届けたのが私であることを知っていた。「だから」助けたのか、「それとも」助けたのか、私はそれが分からない。恨んではいないのだろうか。一分たりとも。本当は、何も知らずに弟の帰りを待ち続けていた方が良かったのではないか。彼女も本当は、それを望んでいたのではないか。希望を奪った私は、彼女にとって死神でしかなかったのではないか。
 無意識に、そのベッドに歩み寄る。教えてほしかった。知らないままでいるわけにはいかなかった。例え今の生活が、私に与えられた延命期間でしかなかったとしても。
 「………………」長い逡巡の後、口を開く。私は彼女の名前を、呼べない。ずっと。



「…………私を、恨んでいますか」



 けれど、答えなど、期待していなかったのだ。浅い眠りの中、彼女は夢を見ていると思っていたから。
 だけどベッドに横たわった彼女はそのとき、ゆっくりとその瞼を開けた。思わず呼吸を止める。ぼんやりとした眼差しは焦点が合わず、顔の横に放られた彼女の指先だけを見つめていた。
 やけに遅い瞬きは、彼女が夢と現実とを行き来している証左であるように思えた。瞳を縁取る睫毛が震える。その先は、苦しいせいか、僅かに湿ってすらいる。



「…………恨む、なんて」



 普段よりも掠れた、消え入りそうな声がその唇から漏れたのを、血の気の失せたその白い顔を、ただ、見ていた。「セスさん、わたしにフルート、とどけてくれた」その目が滲む。「トーリのこと、教えてくれた」吐息混じりの、喘ぐような音が。



「……感謝、しか、ないです」



 あなたが思うほど、私は誠実な人間ではないのに。
 気まぐれだ。何もかも。偶々ギヨームに連れて行かれるあなたの弟を見ただけ。投げ捨てられたフルートを哀れに思っただけ。あなたの気持ちなんか、考えていなかった。玉葱の転がる暗がりで、フルートを抱きかかえ泣くあなたを見ても、何とも思わなかったのだ。感謝される筋合いなんか、一つもない。私はついこの間まで、「真っ当な」アマテラス社保安部員だった。
 開きかけた唇から、けれど言葉は簡単には出てこない。やっとの思いで吐き出されたのは、「馬鹿なんですか、あなた」と、かつても彼女に向かって吐き出したことのある言葉だった。私に手を差し伸べた彼女に口にしたあれとは、けれど、もう根本的に、そこに染みこんだものが違う。
 違うのだ。



「………………」



 彼女はもう、目を閉じて、小さな寝息を立てていた。寒そうに身を丸めていたから、リビングから、彼女が私にと買ってきたパーカーを持って来てその肩にかけてやった。深い眠りについていたらしい彼女は、身動ぎの一つもしなかった。








「おいしかった〜……!」



 ごちそうさまでした! と空の皿を前に両手を合わせた彼女は、起きてきたよりも血色が良かった。胃に物を入れたことで、体温も安定したのだろう。準備しておいた市販の風邪薬を傍に置けば、「わ……至れり尽くせり……!」と嬉しそうに相好を崩されるので、反応に困る。



「片付けるので、飲んだら部屋に戻ってください……」

「片付けまで……!?」

「それくらいはします…………」

「う、嬉しい……ありがとうございます……お言葉に甘えます……」



 薬を水で流し込む彼女の前から皿を回収し、流しに運ぶ。水を流したタイミングで発せられた、「おうちに自分以外の人がいるって、やっぱりいいですね」の言葉には、聞こえないふりをした。
 あなたが黙っているのなら、私はどこまでも、知らないふりをするだろう。
 いずれこの家を私が出て行くとき、置き手紙に書き残すくらいはするかもしれないが。


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