「セスさん。これ、借りてもいいですか?」
鍋の中身から水分が失せ始めたのを見計らってコンロの火を止めたとき、不意に、リビングのソファ、その足元に座っていた彼女が、そう私に尋ねた。
何のことかと顔をあげれば、彼女は眉を八の字にして、覚えのある派手なパーカーを掲げてこちらに示している。あれは、ついこの間彼女が私にと買ってきたものだ。「これから初夏を迎えるとは言え、カナイ区は年中冷えますからね!」と熱を出す前の彼女が言っていたのは記憶に新しいが、なぜよりによって鮮やかな黄色を選んだのかが甚だ理解できず、開封せずにいたもの。昨日の夜、寒がっていた彼女の肩口にかけてやったものだった。
毛足の長い絨毯の上とは言え、床に座っていたせいで身体が冷えたのだろう。青白い顔でいるものだから、少し可哀想になってしまって、「…………どうぞ」と短く答えた。ソファに座っていればいいものを、と考えながら。
「わ〜、すみません、お借りします」
「…………別に……一生着ていてもらっても構わないですよ」
そのつもりで掛け布団代わりにしたのだ。彼女は袖を通しながらも私の言葉にちょっと考え込むような様子を見せてから、「えっ……ひょっとして返品されちゃいました……?」と神妙な面持ちで首を傾げている。こんなに可愛いのに……と両腕を広げて自身を見下ろしながら続けるが、ならば尚更、私ではなく彼女が着たら良いのだ。流石に少しサイズが大きいようだが、髪の色の明るい彼女には、存外その色は良く似合う。
返品、という言葉には明確な返事をしないまま、皿を取り出した。底の安定した、ボウル状の深い皿だ。彼女がよく、シリアルを食べるのに使うもの。ほとんど無意識に鍋から中身を移したところで、「そういえば食欲はあるのだろうか」と考えたが、もう皿に盛りつけてしまったし、そうでなくとも薬を飲んだ方が良いのは間違いない。軽く胃に何か入れておくべきだろう。昨日の夕食だって、彼女はほとんど口にしていなかったのだから。
彼女の視線がリビング側から遠慮がちに注がれるのを自覚しながら(恐らく、私が先ほど「視線が煩い」と言ったせいだろう。こっそり盗み見ているようだが、わかりやすすぎる)スプーンと一緒に皿をトレイに乗せる。彼女の座るリビングのローテーブルまでそれを運び、「一口だけでも良いので食べてください」と言い添えて指し出せば、彼女は「えっ」と一言呟いて、私とそれとに交互に視線を動かした。――そんなに驚かれるようなことをした覚えはない。
「これって……ひょっとして……おかゆ……!?」
「…………他に何に見えますか…………」
「私に!?」
「あなた以外の誰が食べるんです…………」
「えっ、せ、セスさん……?」
「流石に健康なときに食べる気はしませんが…………」
「え、でも、じゃあセスさんは朝は何を食べるんですか……?」
「……あなたが買い溜めしてくれている肉まんでもいただきます」
「わ、いいなぁ肉まん。一口ください……!」
「…………嫌ですよ……」
「そんな……」
カナイ区の人間なら誰しもが度々口にするアレは、体調不良の時分ですら無理を押して食べたいと思うものなのだろうか。結構元気なんじゃないですか、と呆れるが、至近距離で見た彼女の瞳は、熱でふやけていた。「あなたは完治するまでそれを食べなさい……」とお粥を指し示しながら念を押せば、彼女はけれど、嬉しそうに目を細めるから、少しだけ戸惑ってしまう。
「ん、それはもちろん食べます。……へへ、嬉しい」
いただきます、と、彼女は包帯の緩んで解けかけた手を合わせる。あれも、後で巻き直してやらなければ。そう思いながら、ソファに腰を下ろした。
一匙掬ったそれに息を何度か吹きかけてから、彼女はゆっくり口に運び入れる。多少塩は入れたが、濃い味付けの好む彼女だ。風邪を引いて味覚がおかしくなっているのも相まって、ほとんど味なんかしないだろう。なのに、彼女はわざわざ背後に座る私に振り向いて「美味しいです」と、屈託なく笑った。
「ありがとう、セスさん」
純粋な、真っ直ぐ向けられる感謝にどんな顔をしたら良いのかが、私には分からない。
ソファに座ったまま、彼女を見下ろす。明るい髪の色。人懐っこい瞳。犬みたいだ。鎖国がなされるようになってから街中に彷徨くようになった野犬ではなく、室内外の、小さな犬。
「……………………どういたしまして」
聞かせる意図はなかったそれは、今までのどの言葉よりも小さかったはずなのに、彼女の耳はそれを拾ったらしい。面映ゆげに細められたそれは、一年前のあの日に私が相対した彼女の瞳と、似ても似つかなかった。
昨晩のことは、やはり記憶にないのだろう。「ぽかぽかしてきました」と再びこちらを向いて報告する彼女に、「良いから黙って食べなさい……」と口にしてから、こっそり息を吐いた。
「トーリ」と、熱に浮かされた彼女は口にした。倒れた彼女を部屋に運んだ、昨晩のことだ。
朦朧としているせいで私を誰かと間違えたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。「トーリ」もう一度彼女が言うせいで、部屋を出るタイミングを逸した。いや、そうでなくとも、私はその時、その名前にどこか引っかかるものを覚えていたのだ。喘ぐように口にされた、その名前を、私は知っていた。
「…………行っちゃダメだよ、トーリ」
行かないで。
放り出されていた指先が、シーツに緩い皺を作る。苦しげに歪められた眉、血色の悪い肌に張り付いた長い髪。震える唇が、その名を呼ぶ。あの時も。
トーリ。
譫言のように吐き出されたその名前は、私の記憶の底から何かを掘り起こした。
年季の入ったフルートのケース。このアパートのものよりも幾分か新しい玄関扉。間の抜けたチャイム音。外にいても煩かった、その足音。絶望に見開かれた眼球。電球に照らされた、明るい色の髪。
ああ、そうかと、腑に落ちたのだ。何もかも。どうしてあなたがあの夜の私を助けたのかも。
「ひとりにしないで」
記憶の中の彼女が言った言葉と全く同じものが、魘されるその唇から零れた。
一年前の、春だった。
テロリスト対策班班長であるギヨームが連行してきた集団の中に、その男はいた。背の高い、整った顔立ちをした人物だった。
彼らはカナイ区の端にあるとある公園で、何らかのテロの計画を企てていたところをまとめて逮捕されたらしい。計画を企てた主犯と断じられた男と、その友人達。彼はその中の一人だった。いつからの、だとか、どういった付き合いが、とか、そういうことを捜査する気は、保安部にはなかった。彼らが実際、その公園で何を話し込んでいたのかも。企てていたテロ行為とやらの仔細すら捏造されたものだろう。形だけの調査書は、矛盾ばかりが書き連ねてある。
それが事実だったか、そうでなかったのかは、実際のところは関係がないのだ。彼らは偶然保安部に目をつけられただけの一般市民だったのかもしれないし、本当にテロを企てていたのかもしれない。一つ確かだったのは、体の良い見せしめのために、ある程度の規模での犠牲はつきものだということだった。私たちは愚かな民衆を導かなければならなかった。この先も正しいカナイ区たるために。
「このゴミカス腐れテロリスト野郎共を、これから尋問するんだよ〜っ! ねっ、ドミニク!」
彼女が社内ですれ違った私にわざわざ説明したのは、私が保安部捜査課長という肩書きを持っていたためだろう。「あぁ……」と唸りなのか返答なのか分からない曖昧な、けれど地鳴りのような低い声で返事をする副班長に満足そうに笑ったギヨームは、「じゃあね〜捜査課長サン」と、返事もしない私のことなど気にも留めず、素通りしていく。一様に項垂れるテロリスト達を引き連れて。
運が悪い連中だな、と思ったのだ。
何か一つでも間違えていたら、ここにいる彼らは明日もまた生き存えることができただろう。今日ギヨームに連行されたのは、彼らではない別の誰かだったかもしれない。カナイ区の――換言するなら、アマテラス社の――延命のための犠牲は、トカゲの尻尾を切るのに似ている。私たちはいつも、その日目に余った者から消していく。
その時視界の端に、対策班の一人が抱えていたものが引っかからなければ、私はきっと振り向かなかった。
テロリストとして捕えられた彼らの所持品、その中に、一際目を引くものがあったのだ。古びた楽器のケース。形状から、恐らくフルートだろう。それらをギヨームは、地下へと続く階段の前で、捨て置くよう命じた。放り投げられたそれらに、背の高い男が後ろ手に縛られたまま、それでも振り向いたのを見た。目が合った気がした。縋るような目だった。不用意に動くものだから、男は殴り飛ばされていた。
彼はもう生きて外に出られない。同情したわけではない。ただ、最後に絶望を見せたあの目が最後まで追いかけていたものを、美しいと思った。
トーリ=エガートン。
廊下の片隅に転がっていた楽器ケースには、そう記されていた。