トーリは私の弟だ。
 私と違って賢くて、なんでもできる、自慢の弟。
 お母さん譲りなんだろう。トーリは音楽の才能も並大抵ではなかった。本当は楽団に入りたかったのだと知っていた。鎖国により、その夢は閉ざされてしまったけれど。だけどお母さんの遺したフルートを、トーリはいつも吹いていた。伸びやかな音が時折空気に震えて、掠れるのが好きだった。
 トーリはしっかり者で、お友達も多かった。そのうちの何人かとは、顔を合わせたことがある。皆明るくて、気の良い子たちばかりだった。私は家の外でトーリが何をしているのかをきちんと把握はしていなかったけれど(だってもう、私もトーリも大人だし、私はトーリの親ではない)、時々フルートを持って出かけるトーリは、誰の悪口も言わなかった。ただ誰から影響を受けたのか、アマテラス社への文句を、その口の端に上らせることがあるくらいで。
 トーリはその頃、カナイ区ではそれなりに大きい商社に就職が決まっていた。勿論アマテラス社ではない。トーリだったら、望めばアマテラス社にも入れたかもしれないけれど、トーリは街に暮らす人たち同様、ううん、それ以上の、極度のアマテラス社嫌いだったから、頼まれたって面接になんか行かなかっただろう。「あんなのがのさばってるんじゃ、カナイ区に未来なんかないね」そう呟くトーリの横顔を、私はもうちゃんとは覚えていない。
 私は心配だった。うちの中でだったら構わないけれど、外でそんなこと言うのは危険だ。アマテラス社に反抗して、連れて行かれてしまったまま戻らない人を、私は何人も知っている。
 この街では、目立たず、大人しく。賢いトーリは、きちんとそれを理解して、外では目立った行動をしなかった。そのはずだった。
 トーリは雨を凌げる屋根のある、三年前からはもうめっきり人の来なくなった公園の、石作りの小さな舞台で、友達に聞かせるためフルートを吹いていた。私はもう、そこに連れていってはもらえなくなってしまったけれど。それでも目を閉じればいつだって、トーリの音は聞こえた。そのはずだった。けれどカナイ区に降る雨は、トーリのフルートをかき消す。トーリの音は、半径数メートルと少ししか、届いてくれない。雨の中、トーリは眩しそうに目を細めている。そういう幻を、今も見る。



「じゃあ、いってきます、姉さん」



 あれは去年の春だった。
 ――「あれ」は去年の春だった。







 目を覚ましたのは、ちゃんと閉じきっていなかったカーテンの合わせ目から、ほんのり白んだ空がのぞいたせいだ。
 年中雨の降り続けるカナイ区だ。その中でも「眠らない街」なんて言われているカマサキ地区だと、二十四時間ネオンが煌々と輝いているせいで、時間の感覚が分からなくなってしまうことがあるけれど、閑静な住宅街であるギンマ地区は、厚い雲の奥に何となく見える空の色で時間を判別することができる。
 朝だった。
 恐らくそれは、間違いなかった。
 ただ、今日の私は脳に靄がかかったみたいに、ふわふわしていた。寝起きは元々悪くないのに、はっきりと頭が働かない。身体の上、特に下半身に、何かが乗っているみたいな気怠さがある。首だけを動かして、枕元の時計を見た。六時半。



「…………六時半…………」



 昨日、いつ寝たんだっけ。
 頭が上手く回らなくて、目を擦る。手の甲が濡れた気がして、ちょっとびっくりした。知らないうちに血でも流していたのかと思ったのだ。でも、手の甲はピンクで汚れていたりしない。ただ、透明な液体が細く伸びているだけだった。
 何か、夢を見ていた気がする。あんまりきちんとは覚えていないけれど、トーリがいた。ここではない、前のアパートで、彼が出るのを見送った。そんな夢だった。多分。
 左手の包帯はもうほとんど取れかけていたけれど、患部はどうにか露出することなくガーゼの下に収まっている。視界に入る袖は、寝間着にしているものではなくて、それでやっと、ん? って思った。そういう不自然さを自覚するうち、少しずつ、膜が二重三重に張られていた脳が、覚醒を始めたようだった。
 ――セスさん。
 ばちん、って頭の中でスイッチが切り替わったみたいに、飛び起きる。窓の外は、さあさあでも、ぽつぽつでもなく、雨が一定の強さで降っていた。ぞわ、と悪寒が走る。寒い。身震いした私の身体から、重力に従ってパーカーがずり落ちる。私のものではない、けれどこれには見覚えがあった。これから夏になるのを見越して、それでも雨の影響で年中どこか肌寒いカナイ区で、快適に過ごせるようにと、そう思って選んだ、薄手のパーカー。私が先日、セスさんにプレゼントしたものだった。黄色が派手だったのか、セスさんには眉を顰められた上、一度も袖を通してもらっていなかったけれど。
 それが布団代わりにでもなるように私の肩にかけられていたことの意味って、なんだろう。
 一個しか思いつかない。
 頭にちらついた不吉な予感に、思わずパーカーを抱えてベッドから下りた。身体は重く、頭もガンガンと鳴るように痛んだけれど、構ってなんかいられない。セスさんが、出て行っちゃったんじゃないか、って思ったのだ。このパーカーを置いて。
 だって、考えられないことではない。私があんまりにもどうしようもないから、セスさん、呆れちゃったんだ。不良品を掴まされて、修理も上手く出来なくて、挙げ句に熱を出すような女。こんな女に身を寄せるなんて危険すぎる、って。それでこの家を出たのかもしれない、どこか別のところへ行ってしまったのかもしれない――。



「セスさ……!」



 だけど、リビングに面した扉を勢いよく開けたとき、私は予想だにしていなかった光景に目を見開くことになる。
 私以外の人間がそこに立っているのを、私は初めて見た。
 調味料とか、鍋、菜箸やお玉なんかがぶら下がる、生活感でいっぱいのキッチンに、彼はいた。コンロにかけた小さな鍋から、ぐつぐつ、って、何かを煮るような、懐かしい音がする。菜箸を持ったまま、セスさんは部屋から飛び出してきた私を見ていた。



「………………もう目を覚ましたんですか……?」



 びっくりしたような、でもどこか迷惑そうな声が、その唇から漏れるのを、どうにか耳が拾う。どうやらセスさんは、何か食事を作っていたらしい。鼻が詰まっているせいか、匂いはなんにもしない。



「…………せ、セスさん…………!」



 そうか、朝ご飯、セスさんの、作らなくちゃ、っていうのと、セスさんが家にいてくれた、っていう喜びとで、どうしたらいいか分からなくなる。朦朧とした頭が、リビングを視界にいれた途端、色んなことを思い起こさせるから(昨日の自分の醜態、食事の途中で途切れた意識、片付けをしていなかったこと)私はその中のどれから拾ったら良いのかが全然わからなくて、困ってしまった。良かったと、ごめんなさいって、一言で言い表す言葉、ないのかな。頭が上手く回らないのは、きっと風邪のせいだけじゃない。



「せ、セスさ」



 支えにしていた扉から数歩進む。その瞬間、ぐん、って引っ張られる感覚があって、思わず叫んだ。袖がドアノブに引っかかってしまったのだ。以前のように、腕をしこたまぶつけて悶絶する。そんな私に、「朝から騒々しいですね…………」って、セスさんは眉を顰めている。



「………………身体の具合は、どうなんですか」

「へっ? わ、私ですか?」

「…………他に対象がいるなら連れてきてほしいですが」

「だ、大丈夫です、もうすっかり元気……」

「嘘はバレますよ」

「………………じゃないです。あとで会社に電話して、今日はお仕事、休みます……」

「…………それが賢明な判断なんじゃないですか……」



 セスさんは小さくため息を吐くと、「座っていてください」と、リビングの方に目をやりながら促した。一度は「でも……」と食い下がったものの、「病人に家事をされても困ります」と言われてしまえば、従う他ない。でも、それ以上に、そこに彼らしい気遣いが滲んでいることに気がついたのも、きっと大きかった。セスさんは、セスさんなりに私を心配してくれているのだ。その心遣いだけで、喉の奥がほんのり痛くなってしまった。
 引っかかった袖口をドアノブから解放して、ソファの方へと向かう。セスさんが来て以来、リビングのソファはセスさんのベッド、って認識でいるから、私が座るのは食事をするときと同じ、絨毯の上だ。でもセスさんは、キッチンの方でそっと眉を寄せていた。「そっちの方が楽ならそこで良いですけどね……」鍋の中で何かが煮える音にかき消されるくらい、小さな声だった。
 昨日そのままにしておいてしまったはずの食器類は、テーブルからすべて片付けられていた。私の方は食べかけだったはずだから、手間をかけさせてしまっただろう。今もそうだ。セスさんの食事を作れないことが、申し訳ない。
 だけど、セスさん、料理なんてできるのかな。そんな素振り、ちっとも見せてこなかったけれど。ちらちらとキッチンの方に目をやる。リビングと対面の形になっているせいか、私が視界に入って気になったのだろう。セスさんは極力私を気にしないよう目を伏せていたのに、よっぽど鬱陶しかったのか、「…………視線が煩い」とほとんど独り言のように言うから、びくっと身体を震わせてしまった。視線が煩い、は、初めて言われた。「すみません……」と謝りながら、視線をリビングに彷徨わせる。ドローン傘の残骸は、昨日と変わらず、そこでひっそり横たわっている。
 鍋の中で何かが煮える音と雨音が混じり合うのが心地よくて、パーカーごと膝を抱えたまま、そっと目を伏せた。本当は、聞きたいことがたくさんある。私、自力でベッドに行きましたっけ、とか、このパーカーをかけてくれたってことは、そうでなくてもセスさん、部屋に入りましたか、とか。いや、それを責める気なんか、毛頭ないんだけど。きっと私が寒がったから、セスさんはタオルケットの上からこれをかけてくれたに違いない。いずれにせよ、これが私の身体の上にかかっていた時点で、彼が部屋に来たのは間違いないのだ。
 じゃあ、もしかして私、何か変な寝言とか、言ってませんでしたか。
 ぐらりと眩暈がして、目を開く。こっそり盗み見たセスさんは、今も鍋と向き合っている。セスさんは気がついていないのか、呆れて無視を決め込んでいるのか、もう私を見なかった。



「姉さんって、寝言が多いよね」



 かつてのトーリの言葉は簡単に脳に浮かぶのに、肝心のトーリはもう、ここにはいない。それが今は、ただ、不思議だ。


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