確かに熱があるな。
 「風邪ひいちゃったのかも」と主張した直後、革張りのソファにほとんど倒れるように上半身を預けた彼女の額は、私の手の平と比べてはっきりと熱かった。苦しげに寄せられた眉の下で、その瞳は緩く伏せられている。呼吸は浅く、速い。
 彼女が雨に濡れて帰ってきたのは一昨日の夜のことだ。
 あれから丸二日が経ってはいるが、その間も彼女はドローン傘の修理やら部屋の掃除やらで、休むことなく動いていた。あっけらかんとしてはいるが、私を匿っているという精神的疲労も抱えていることは間違いない。そこに身体を冷やしたのだから、体調を崩すのも、無理はない話ではある。



「………………あの」



 ソファにぐったりと頬を押し付けたまま動かない彼女に声をかける。
 とは言え、体調が悪いなら、そんなところじゃなく自室で休むべきじゃないだろうか。そう思ったのだが反応はなく、彼女の目は閉じられたままだ。さっきまで普通に動いていたのに、体調が悪いと自覚した途端こうなるのか。病は気からとは言うが、それを体現しすぎではないか。心配よりも、呆れが僅かに勝る。無理を押して動いていたことを、自覚すらしていなかったのかもしれないけれど。



「…………起きて……ください……」



 ソファに面していない方の頬を、軽く叩く。ぺちぺちと小気味良い音が響いたのにちょっと驚いて、指先でつついた。「うぅ……」と唸る彼女は眉根を寄せるも、目を開く気配はない。身動ぎ一つする様子すらも。無意識に、息を吐く。
 ――どうしたものか。
 放っておいてもいいが、ソファを半分近く占拠されてしまうと、彼女が目を覚まして自主的に移動するまでの間、私の居場所がない。できればさっさと部屋に戻って、自分のベッドで休んでほしい。彼女も、体調が悪いのならば、そっちの方がずっと楽だろう。「……あの」発した声が掠れる。



「……聞こえて、ますか………」



 けれど、私の声はアパートの屋根に打ち付ける雨にかき消されてしまいかねないほどに小さかった。こればかりは生まれ持ったものだから、どうしようもない。私は彼女や保安部にいた連中のように、声を張る方法を知らないのだ。拡声器に頼っていた、先日までの自分を思い出す。あれがなければ、私の声はいつも、雑音に埋もれる。



「………………」



 リビングに面した、ソファの背もたれの奥にある扉を見やった。風呂場やトイレを除いて唯一の個室である、彼女の部屋だ。
 中を覗いたことがないわけでも、入ったことがないわけでもない。彼女は普段から開閉に気を遣わないたちだったし、彼女の外出中、そうとバレないように物色もしたことがある。一度だけではなく、何度か。あれは何の秘密もない、ただの二十代の女の部屋だった。ベッドと棚、それから全身鏡だけでいっぱいになる、こぢんまりとしたもの。
 ため息を一つ吐いてから、立ち上がった。先にその扉を開けておいたのは、後で両手が塞がることが分かっていたからだ。
 彼女が何度か服の裾を引っかけては叫んでいたドアノブを回す。見えない線を、私はそこにあると知りながら踏み越える。
 灯りの消された薄暗い部屋は、最近アロマキャンドルでも焚いたのか、微かに甘ったるい匂いがした。僅かに隙間の空いた、無地のカーテン。壁に固定された飾り棚に並ぶ小物類、鎖国がなされる前に撮られたものと思しき、夕暮れ時の街並みを映した写真は、その脇に飾られている。出窓のスペースに置かれた、イミテーションの多肉植物と、小さな猫の置物。棚の上の、古いラジオ。ベッドが以前見た時よりも整えられていたのは、昼間彼女が掃除をしたためだろう。ここにくるといつも何かが抜け落ちているように思えるのは、空の写真立てのせいなのだろうか。それとも。
 私は彼女のことを、何も知らない。
 扉を開け放したまま、リビングのソファの傍に戻る。彼女は私が立ち上がる前と全く同じ姿勢のまま、苦悶の表情を浮かべ、未だソファに突っ伏していた。保安部のセス=バロウズと知りながら私を匿った奇特な女は、今熱に魘されている。



「………………後で、文句を言わないでくださいね…………」



 忠告したところで、彼女がそれを聞いていないことなど知っていたけれど。
 彼女の身体に手を差し込む。衣擦れの音が、雨音に混じる。拷問以外で人に触れたのは久しぶりだと、熱さを覚える手の平を誤魔化すように思った。膝の裏と背中を抱え、立ち上がる。意識がほとんどないせいか、彼女の身体は存外重かった。一瞬、よろめいてしまうくらいには。



「………………重……」



 舌打ちののち思わず独りごちるも、眉間に微かな皺を作ったまま目を閉じる彼女は、何も答えない。二人分の重みで、床が軋む。
 扉に彼女の足をぶつけないよう注意深く抱え直した時、不意に、「どうして私がこんなことを」という思いがちらついた。本当に、どうしてだろう。床に転がしておいたって良かったはずだった。匿われている身とは言え、その理由が分からないという気味の悪さが邪魔をして、芯からは恩義を感じることができずにいるのだから。けれど、私は今彼女を抱えている。その理由が、自身にすら上手く説明できない。
 抱きかかえられたまま、彼女はじっと目を伏せている。されるがまま、唇を緩く噛んで。
 どうにか彼女をベッドに横たわらせたときには、どっと疲れてしまった。数日の隠匿生活で、元々さしてなかった体力が落ちているのだろう。「…………はぁ」小さく息を吐きながら、足元に畳まれていたタオルケットを広げ、かけてやる。体温よりも低いそれが心地良いのか、その時、初めて彼女の眉間から皺が消えた。仰向けで寝る習慣がないのか、彼女はすぐにこちら側に向かって寝返りを打つ。顔の横に無防備に放られた、包帯の巻かれた左手は、私のものよりも一回り、小さい。



「………………間抜けな顔……ですね……」



 変わった人だ。
 ギンマ地区の片隅に蹲っていた私に手を差し伸べ、衣食住を提供し、けれど見返りを求めなかった。何を企んでいるというのか、どれだけ訝しんでも、しかし彼女の部屋には何もない。私が処分しておけと言った制服が、頑丈なケースに入れられたフルートと一緒に、クローゼットの奥に片付けられていたくらいで。
 非正規品のドローン傘を掴まされ、怪我を負った。ずぶ濡れになって帰ってきたかと思えば、買ってきた私の服だけは死守したと笑う。修理に苦心し、基板に接着剤をつけ、挙げ句熱を出した。食の嗜好も合わなければ服を選ぶセンスもなく、私の言葉に一喜一憂し、ころころと表情を変える人。
 なんて面倒な人なんだろう。



「………………こんな状況でもなければ、絶対、関わり合いになんかなりませんよ…………」



 感謝はしていない。だけど、この日々にうんざりしているわけでもないのだ。
 こんな声を彼女の耳は拾ったのか、或いはどこかが痛むのか、その眉根が緩く寄せられる。その眉間に指を伸ばして触れれば、「う……」と、彼女は小さく呻いた。熱はさっきよりも高くなっているようだった。目を覚ましたら、薬を飲ませた方が良いだろう。体温計や薬の類は、確かあの救急箱に入っていたはずだ。包帯も、怪我の具合を見てから一度変えた方が良い。
 そんなことを考えてしまう自分に気がついて、思わず目線を下げる。情を覚えてどうする。どうせ、こうして生活を共にするのも一時的なものでしかないのに。苦々しく思いながら、彼女の眠るベッドから離れた。とりあえず、今はそっとしておく他ないと。そうして部屋を出ようとしたときだった。



「――トーリ」



 譫言のように、彼女は誰かの名を呼んだ。縋るように。
 それはほとんど、泣き声に近い音だった。
 どこかで聞いた名前だった。確かにその時私は、そう思った。


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