ぞわ、と寒気がして、配膳の手を一瞬だけ止める。
昨夜、雨に打たれてしまったせいだろうか。春とは言え、雨の降り続けるカナイ区は、どうしたって寒い。悪寒を覚えつつもクリームソースのパスタをお皿に盛り付けるのを再開した私は、部屋のドアのすぐ傍にまとめておいたドローン傘をちらりと見た。
新聞紙の上に広げられたそれは、やっぱりどう見たってただの残骸だ。何回スイッチを押しても、もう息を吹き返してくれない代物。でも、そういう風に思ってしまう自分に、悲しくなる。セスさんに「直せない」と言われたものの、諦めきれなくて、昨日の日中、時間を見つけては修理を試みていたのだ。セスさんは、「あなたに直せるとは思えませんけど」と手助けすらしてくれなかったけれど。
事実、結果は惨敗。折れ曲がった羽部分を強力な接着剤で止めたところで、ドローン傘はうんともすんとも言わなかった。そもそもそこに基盤があるのに接着剤をつける人がいますか、って、後でセスさんに言われた。これ、基盤だったんだ。悲しくて、その夜お風呂でちょっと泣いた。ちゃんと生体を認証をして、私の頭上を律儀に追いかけてくるあの傘を、私はちょっと、可愛い犬猫みたいに思っていたのだった。
「…………これに懲りたのなら……次は正規品を購入してください……」
お風呂から出た私がまだ落ち込んでいるのをセスさんが察していたのかは分からないけれど、ぐうの音も出ない正論を向けられて、つい言葉に詰まってしまった。それから一日、私はもうドローン傘には触れていない。諦めたのだ。今日だって、ずっとリビングに面した自室の掃除をしていた。ベッドくらいしか置けない狭い部屋だけど、空気の入れ換えが容易でない分、どうしてもすぐ空気が澱んでしまうから。
でも、正規品……じゃなかったのかな、あれ。確かにちゃんとしたお店で買ったわけじゃなかったけど、まあまあ高かったし、会社の人たちが使っているものと丸きり違うようには見えなかったから、ずっと本物だと思っていた。明日からは普通の傘で通勤しなくちゃいけないと思うと、ちょっとだけ気が重くなる。両手が空く上にレインコートと違って持ち物も濡れないって、結構楽だったのだ。一度上がった生活の質を下げるのは、やっぱりどうしても辛いものがある。いくら仕方ないこととは言え。
修理を今度こそ諦められたドローン傘は、今、部屋の片隅で明日の回収を待っている。捨てるしかないなんて勿体ないなぁって、脳の端を掠めるみたいに思ってしまう。
ああいうの、弟だったら、怪しい業者に持っていって小銭にしてきてくれたりしたんだけどな。そんなことを、ほとんど意識もしないまま、考える。
弟は、フットワークが軽かった。顔もすっごく広かったし、閉ざされたカナイ区の中でも、色んなお友達がいた。「俺はこういう交渉ごととか、結構向いてるからね」でも、姉さんはだめだよ。騙されて吸い尽くされてポイって捨てられるの、目に見えてるんだから。首を傾げて笑う弟の顔は、まだ、私の脳に残っている。
この世のどこにもいなくても。
ガツン、と結構大きな音がして、我に返った。中身を全部お皿に移した後も傾けっぱなしだったフライパンが、シンクの端にぶつかってしまったのだった。ぼんやりしていたせいだ。目の前のリビングにいるセスさんを、びっくりさせてしまったかもしれない。
慌てて顔をあげたら、セスさんはソファに座ったままの姿勢で、物言いたげに眉を寄せ、私を見つめていた。その手には、いつから読んでいたのか、昔私が買ったベストセラーの小説がある。わ、それ、面白いですよね、って言いたかったけれど、それよりも先に、「ご、ごめんなさい……」と口にした。セスさんのモノクルの下の目が、あんまりにも鬱陶しそうだったからだ。
セスさんは、私の謝罪には何も答えなかったけれど、「どうしてそう落ち着きがないんですか」って彼が言いたいのは、その細められた目で分かった。
「…………あれ?」
味がわからないかもしれない、と気がついたのは、その後だ。
リビングのローテーブルについて、セスさんと並んで食事を摂りながら、私は舌に違和感を覚えていた。いつもと同じレシピで作ったはずなのに、早くも固まり始めたクリームが口の中でもたもたするだけで、なんだかちゃんと味がしない。そう言えば、匂いも、わかんないかも。分量を間違えたのだろうか?
「セスさん、セスさん」って、声を極力落として(それこそ外の雨音に紛れるくらいの声量で)名前を呼んで、パスタを指差す。「……これ、味ちゃんとします?」無言で咀嚼するセスさんは、食事のときは話しかけられたくないタイプだ。でも、口の中のものを飲み込んで、ちょっとの沈黙の後、「………………いつも通り、濃いですけど」って言うものだから、二重の意味でびっくりした。
「えっ!? 濃いです!? ま、待ってください、いつもどおり……!?」
「……いつもと変わらず濃いですよ……」
「う、嘘、いつも普通じゃないです!? なんならちょっと薄味じゃ……」
「…………あれで薄味だったら、世の中のものは大抵薄味です……」
「ええっ……!」
じゃあ、セスさんはいつも、濃いなあ〜って思いながら私の作ったご飯を食べてた、ってこと? 今も?
大声を出して驚いてしまったものだから、セスさんは、すっごく迷惑そうな顔をしていた。いや、でも驚いたのはそれだけじゃない。このパスタが「いつも通り濃い」なら、おかしいのは私の味覚だ。試しにドレッシングのしっかりかかったサラダの葉野菜を口に入れる。歯ごたえはきちんとあるけれど、やっぱり、味がなんにもわからない。
これは、もう、そうなのかもしれない。
「せ、セスさん……!」
自覚したら、急に食欲が減退した。いや、でも本当は最初から、お腹なんて空いてなかった、気がしてきた。時間になったから、ご飯を作り始めただけで。さっきも感じた寒気が、再び訪れる。身体の芯からの、本格的な震えだ。そういえば、掃除をしているときから鼻水が出ていた。埃のせいだと思っていたけど、違ったのだ。昨日頭が痛かったのも、ドローン傘の修理をしていたから、ってわけじゃない。
食事の途中で、フォークを置いた。私の異常に気がついたらしいセスさんが、横目で私を見る。前髪の隙間から一瞬だけ見えた左目の鋭さに、胸が鳴って、頭がぐらってした。それも半分は体調不良によるものだったかもしれない。もう半分は、普通に、セスさんへの好意によるものだったんだろうけど。「セスさん、私」って、そこまで言って、言葉を一度切る。
壊れたドローン傘を抱えて、夕方の街をずぶ濡れになりながら駆け抜けたのが二日前。すぐにお風呂に入ったけれど、身体を冷やしてしまったのは間違いない。きっと、あれが原因だ。
「わたし、風邪ひいちゃったのかも……!」
私の告白に、は? ってセスさんが目を丸くしたことだけは、覚えている。
怪我をしただけじゃなくて体調まで崩してしまうなんて、我ながら情けないけれど。
でも、ぞわあ、と悪寒が走って、急に、物凄く寒くなってしまって、だめだった。座っているのもしんどくて、背中の方にあったソファに上半身をぺったり乗せる。革張りの冷たい感触が気持ち良くて、目を閉じた。その時額に、ひんやりとした、手のような感触を感じたけれど、気のせいだったかもしれない。その時の私はもう、色んな境界線が滲んで、溶けて、曖昧なものにしか感じられていなかった。でも、それが私の体温を確かめようとしたセスさんの手だって気がついていたら、今度こそ卒倒していたかもしれなかったから、それで良かったのだ、きっと。