仕事帰り、用事を済ませて家へと戻るその帰り道、頭上で嫌な音がした。バギッ、ガガッ、ピー、ピー、っていう、こんな時でなくてもあんまり聞きたくないような音の連続に、反射で心臓がぎゅっと縮こまる。
こういうとき、頭がいつもの数倍の速度で回転するのは、一種の防衛本能なんだろう。咄嗟の判断で、両手で頭を押さえた。でも、走るとか、身を捻るとかすれば良かったのだ。この異常音が私の頭上――ドローン傘からのものであると察した時点で。
動作を停止したドローン傘は、淡く放っていた光を失い、重力に従って落下する。頭を覆った私の手の甲目掛けて。
「ひっ」って声が喉から漏れて、ぎゅって目を閉じたのと、手の甲に鋭い痛みが走ったのは、多分、ほとんど同時だった。
「いっ……!」
思わず漏れた声を、どうにか飲み込む。悲鳴をあげなかったのは偉かったって、自分でも思う。足元に落下したそれに遅れてしゃがみこみ、半泣きで手を擦ってしまったけれど。
「いたぁ〜…………!」
無理をして買った新古品のドローン傘は、購入から一ヶ月と経たずに故障してしまったのだった。私の手に、まあまあ大きな裂傷を残して。
ドローン傘は羽の部分が一部折れてしまって、運悪く、それが私の手に突き刺さったらしい。新古品とは言え高い買い物だったのに、不良品だったのかな。私には過ぎたものだと思っていたけど、めちゃくちゃ気に入っていた傘だった。痛みとショックで、多分、数秒くらい呆然としていたと思う。我に返ったのは、血が出ていることに気がついたからだ。
慌てて歩道に散らばった部品を掻き集めて脇に抱える。そうしている間も、降り止むことの決してない雨が私の髪やら肩やら頬やらを、容赦なく叩いていた。今日は比較的温かかったのもあって、レインコートをバッグに入れっぱなしにしていたのも悪かった。せめてちゃんと着ていたら、こんな風に雨に晒されることもなかったのに。右手にバッグ、左手に買い物袋、そして右脇に壊れたドローン傘を持って、今更どうやってレインコートを着ることができるって言うんだろう。だったらもう、走った方が良い、絶対。
駆けた瞬間、水溜まりが跳ねて、太股あたりまで水滴が飛び散った。撥水性のあるレインブーツを履いているとは言え、隙間から入り込んでしまえば撥水も何もない。爪先の冷たさと不快感に、う、と眉を寄せる。人通りの少ない道だったから、誰かに見られることは勿論怪我をさせてしまうこともなくて、それは本当に、何よりも一番の幸運だったと思うんだけど、それにしたって散々だ。
そう言えば、今朝の星座占いは十一位だった。「今日は信じられないミスをしちゃうかも?」って言うから、いつもの五倍は丁寧に仕事をしたっていうのに、帰りにこんな目に遭うなんていくらなんでも酷すぎる。手の甲からだらだらと血を垂れ流しながら走る。ヒールだけど、関係ない。セスさんのために買ったお洋服を濡らすわけにいかない。いや、勿論もう濡れちゃってるんだけど。それはそれとして。
でも、さらにその上があったなんて、一体誰が想像できたって言うんだろう。
「ひぎゃっ」
レインブーツのヒール部分が排水溝の穴にはまって、バランスを崩した。視界が反転する。内臓が浮いたような感覚になる。枯れた街路樹の枝が視界に入って、脇に挟んでいたバラバラのドローン傘が空を舞った。厚い雲で覆われた灰の空。ばたばたと落ちる雨に顔面を打たれながら、その時の私がしたことといえば。
受け身を取るでも、目を閉じるでもなく、引っかけていた腕から抜けた紙袋に手を伸ばし、それを落下から守ることだった。
「……今更だとは思いますが、注意力がなさすぎるんじゃないですか。あなた」
「か、返す言葉もありません……」
濡れた服も、びしょびしょの髪も、汚れた紙袋も、壊れたドローン傘も。
全部こっそり片付けてしまえばバレないんじゃないかって思っていたけれど、この狭い家ではそんなのはどうしたって不可能だった。こんなときに限って丁度シャワーを浴びていたらしく、脱衣所から出てきたところだったセスさんと廊下でばったり出くわしてしまった上、私は言い逃れのできないくらいにどろどろの、ぐちゃぐちゃだったから。
「怪我をしていたのには驚きましたが……ドローン傘が壊れて、挙げ句転ぶなんて、良い大人が信じがたいですよ……本当に私と同い年なんですかね……」
「えっ同い年なんですか? 私たち」
「………………」
手の甲の怪我を、ぶつぶつ文句を言いながら治療してくれていたセスさんは、けれど私の質問に答える気はないらしかった。へぇ、セスさんって私と同い年なんだぁ、そんな風には見えないなぁ、でも、私、年なんて教えましたっけ? って思ったことをそのまま口にしていたら、消毒液のついた綿をぐり、と押し付けられて、「あだだだ!!」って叫ぶ。それからピンク色の液体のついた綿を、セスさんは何の感慨もなくゴミ箱に放った。酷い、とは思うけれど、本当に酷い人だったら、まず治療なんかしてくれることもないだろう。そう思ったら、やっぱり、根は優しいんだろうな、って思う。そんなこと言ったら、また機嫌を損なわせてしまうのかもしれないけれど。
どろどろの洋服は脱いで、洗濯機に突っ込んだ。シャワーを浴びて、髪を洗い、ふわふわの部屋着に着替えた私はさっきまでのどろどろぐちゃぐちゃ状態から脱して、やっと人心地ついている。幸いなことに、怪我も、見た目ほどは酷くないらしい。「貸してください」ってぼそりと口にするセスさんに再び手を差し出せば、患部にガーゼが当てられる。私の手を取って、固定のために包帯でぐるぐる巻きにするセスさんの手は、ひんやりしていて気持ちいい。
「……ふ、ふふ、ひひ」
「…………変な声出さないでもらえますか」
「や、だって、なんか優しくてくすぐったくって……!」
「絞めて良いなら絞めますよ」
「いっ! いだだだ、ごめん、ごめんなさい、絞めなくていいです、そのままで!」
無言で包帯を緩くするセスさんの髪は、シャワーを浴びたばかりだったせいか、まだ少し濡れていた。いつもはうねうねとうねっている癖っ毛は、濡れると量が減って見えて、新鮮だった。まじまじと見ていると、セスさんはあからさまにため息を吐く。視線に気付かれていたのは、素直に恥ずかしくて、慌てて自分の手に目線を落とした。
「できました。いいですか、これで」
そう声をかけられ、はっとする。「わ、わー、ありがとうございます、すごい、きれい」よれもなく、締め付けられるような苦しさもなく、比較的軽傷な部分の絆創膏だってきちんと患部を覆っている。セスさんは、器用だった。私が数日前にしてあげた治療が、今更恥ずかしくなってしまうくらいには。
ほわー、と感嘆の声を漏らしながら、包帯の巻かれた左手と、絆創膏の貼られた右手をまじまじと見つめる。
「すごいなあ、器用なんですね……」
「――にでもやられたのかと思いました」
私が呟いたのとそれは、ほとんど同時だったから、セスさんが口にしたその言葉は、私にはちゃんと耳に届かなかった。
「え?」と聞き返す私に、セスさんは思案したように目を細める。小さく低い声で、口走るみたいに呟く。
「………………ドジですねと言ったんですよ」
セスさんは、ずけずけモノを言うけれど、本当に大事なことは言わない。きっと。
でもそこに踏み込んでしまったら、セスさんが私の前から姿を消してしまうかもしれないから、だから私は、何にも気付いていないふりをして、セスさんの、感情の薄い瞳から目を逸らすのだ。
「あ、そうだ!」
あえて元気な声を出して手を叩けば、セスさんはこちらを見る。怪訝そうに目を細めて、小さく息を吐いて。その「いつも通り」に、私は今、安堵している。
「見てください。お洋服、買ってきたんですよ。これだけはすっ転んでも死守して――」
「……………………これ、本当に店員に聞いて買ったんですか?」
「えっ!」
セスさん。
これが私の恩返しだって言っても、セスさんは、覚えてないって、冷めた目で言うんだろうな。