今のアマテラス社保安部でそれなりの地位に立つには、優秀であることは大前提として、ある種の「才能」を持っていなければならない。
他人を蹴落とすことを何とも思わない「才能」。罪のない人間を殺すことを躊躇しない「才能」。それから上からの命令に絶対忠実で、それに疑問を抱く自分から目を逸らす「才能」。それらなくして、どうして保安部員が務まると言うだろう。
事実私は、保安部捜査課長という肩書きに不足ない「才能」を持っていた。
保安部部長であるヨミー様の忠実な僕として、あの方の望むものを全て差し出した。閉ざされた、永遠の雨が降る街で起きる無数の事件、あの方が解決を望むものから順に、相応しいと思われる人物を逮捕した。強引な捜査であろうと構わなかった。私たちの引いた円の線を例えそれが踏み越えてしまおうと、証拠の偽造はいくらでもできたから。見せしめの公開処刑も厭わなかった。必要があれば、テロリスト対策班との連携だってこなした(あそこの班長は私とは気質が真逆で、面倒ではあったが。)アマテラス社に叛意のある人間を捕え、その家族をも連行し、片端から処刑、処刑、処刑――。私の手はとうに血で汚れている。
「よくやってくれたなぁ、セス」
お前はオレの、最も信頼する部下の一人だよ。
ヨミー様の言葉に従っていれば、何の間違いもなかった。例えそれが本来の正義から著しく逸脱したものであろうとも。
この街で生きていくには、「それ」こそが正しい行いだったから。
「セスさん。肉まん、冷凍庫に入れておいてあるんで、私が仕事に行っている間とか、好きなときに食べてくださいね」
「…………」
「じゃあいってきまーす!」
慌ただしく走りながら家を出て行った女の気配が扉の奥で遠ざかっていって、それからようやく、小さく息を吐く。
アマテラス社保安部捜査課長、セス=バロウズと言えば、自分で言うのも憚られるが、ここカナイ区において知らぬ人間など探す方が難しかった。冷酷無比、陰険で陰湿、血の通わない非情な人間――まぁ、良いところを探せと言う方が難しい。そういう振る舞いをしてきたのだから当然だ。例え周囲の人間から疎んじられていようと、嫌われていようと、しかし私は間違いなく出世街道を進んでいたはずだった。
それがどうして今、無関係の女の家で息を潜め暮らさなければいけなくなったのか。
事の発端は、今から数日前に遡るが、それを思い出そうとすると、今でも血の気が引く。動悸、眩暈、吐き気。胸を押さえながら、ソファに背を預ける。時計の音と、雨を叩く音だけがするこの部屋は、さして中のものを守ることのできない、鳥籠に似ている。
質素な家だった。私が社より与えられた部屋と比べれば圧倒的に狭く、家具一つとっても程度が低い。テレビは小さく、小綺麗ではあったが、風呂なんか申し訳程度についているようなものだった。
――死んでくれ。
ヨミー様の言葉が過ぎる度、両耳を押さえる。あの河川敷。枯れた花束。薄汚い潜水艦。探偵たち。地面に転がる拡声器。気分が悪い。女の不在の家で、何度胃の中のものを吐き出したかしれない。そうして吐きながら、あの夜を思い出す。ヨミー様の命令によって、部下だった連中に引き摺られながら本部へと連行される途中に起きた、辺りを白で覆うほどの、鋭い光の点滅。まるで、誰かが「逃げろ」とでも私に訴えたかのような。咄嗟に私を掴んでいた腕を振り払い逃げ出したのは、生存本能だった。どこをどう走ったのかなんて覚えていない。必死だった。無様だと、まだどこか冷静な頭で考えた。
けれど行くあてなどなかったのだ。社が借り上げていた家に戻ることはできなかったし、友人なんか、とうの昔に切り捨てた。逃げ出したところで、命が数刻延びるだけだった。分かっていたのに、どうしてみっともなく生にしがみついたのか。
人気のない住宅街に辿り着いたときには、体力を使い果たしていた。看板の陰に座り込んで、小さく身体を丸めた。レインコートの裾に書かれた天照の文字が、泥で滲んでいた。上手く生きていると思っていた。あの人に従っていれば間違いないはずだった。なぜなら私は他よりこの街で生き抜くための才能があって、あの人の忠実な部下だったから。切り捨てられるとしたら、それは切り捨てられる側に問題があるのだろうと思っていた。自分がそちら側の、無価値なものに成り下がるなんて思ってなかった。
全てを失ったなら、そのまま命も諦めて然るべきだったのだ。
なのに、その声は私に降り注いだ。
「あのう」
大丈夫ですか、と。
そこに立っていた彼女を見た瞬間、自分が何を思ったのかなんて、覚えてはいないけれど。
馬鹿な女だった。
私をセス=バロウズと認め、匿えば何らかの罪に問われることになるだろうことを知りながら、私の忠告も聞かず、彼女は私を引き摺って、家にあげた。私にタオルを渡し、風呂の支度をすると、自分はコートも脱がずに救急箱を広げ、傷の消毒をした。
「痛くないですか? ……人の怪我、治療するの久しぶりで、手がぷるぷるする……」
ぎこちなく笑った彼女の伏せられた睫毛は、雨で濡れていた。
彼女が、考え得る中でも最悪の選択をしたことは間違いなかった。私のことなど見て見ぬふりをしておけば良かったのだ。匿われたところで、いずれ保安部に嗅ぎつけられ、連行されることは間違いなかったのだから。
そうでなくとも、自暴自棄になった私に、自分が殺されるかもしれないとは考えなかったのか。
女はけれど、私と目が合ったその時、照れくさそうに笑った。
カナイ区で生きていくのに、彼女は全く相応しくなかった。それだけは確かだった。
いっそ、何かを企んでいてくれていたなら良かったのかもしれない。
例えば私や保安部に恨みがあって、何か強烈な一撃を与えるために腹の底で思案しているとか。私の信頼を得た上で、最終的に人間としての尊厳を損なわせるようなことを行おうとしているとか。
けれど彼女は、本当に、ただのお人好しでしかないらしいのだ。
私に衣食住を与え、事情を聞き出すような真似もせず、逆に「セスさんに信用してほしいので!」と、自分の経歴を明け透けに話す。私の前に並べた身分証も、社員証(マルノモン地区の、それなりに良い会社の事務員らしかった)にも、偽造された形跡はなかった。同い年らしいと知って、ある意味で衝撃を受けた。高校の卒業アルバムまで持ってこられたときは、流石に辟易したが。
味付けの濃い食事に毒を混ぜ込むようなこともなく、家に盗聴器や監視カメラの類はない。家を漁ったところで出てくる物はショップから届いたダイレクトメールくらいで、拍子抜けした。本当に、この女は私を陥れる気などないらしい。
「セスさん、今日は帰りにセスさんのお洋服を買ってこようと思うんですけど、どういうのがいいですか?」
屈託なく笑う彼女に裏はなくとも、しかし、何か理由はあるのだろう。
彼女に匿われてから、数日。早ければ彼女が私を助けた翌日にはこの部屋の扉は蹴破られることになるだろうと思っていたが、保安部は未だ沈黙を続けている。
ここから出られない私には、一体外で何が起きているのかを知る術はないが、テレビで大々的に指名手配とされていないところを見る限り、裏で私の捜索がなされているのだろう。丸きり無防備な彼女の尻尾がヨミー様に掴まれていないとは、私には思えない。
ならばこの日々は、近く終わる。
「……服」
「はい、服です。そろそろちゃんとしたのが必要かなって思って」
「…………。……あなたのセンスは心配なので、店員に聞いてください」
「えっ! そ、そんな……」
ただ、そうなる前に、こんなことですら分かりやすくショックを受ける彼女に、尋ねてみたかった。
どうして私を匿って、こんな馬鹿げた家族ごっこのようなものをしていたのか。気遣っていたのか。その背にあるものを窺うような目で私を見ていたのか。
そのわけを。