声が小さい人って、生活音も小さいらしい。
セスさんは、単身者用の狭いアパートのリビングで、ほとんど存在感もなく生活していた。時折小さな咳をするくらいで、足音はほとんど立てないし、扉を閉める音も、食器を重ねる音も、びっくりするくらいにしない。あのアマテラス社で立派な肩書きを持っていたくらいだし、きっと、元々育ちも良いんだろうなあ。普通に歩いているだけでドアノブに服の裾を引っかけて、「うわー!」と叫んで壁に腕をしこたまぶつける私とは、全然違う(そういうとき、セスさんは私を、信じられないものでも見るような眼で見ている。)
セスさんはリビングのソファをベッド代わりにして眠り、無言で食事をし、私のいない間にシャワーを浴びた。怪我は大したことがなくて、せいぜい擦り傷くらいなものだったから、もう絆創膏を幾つか貼っているだけだ。私の手に負えない怪我だったらまた話は大きく変わっていただろうから、これには安心した。
洋服は、以前サイズを間違えて購入してしまった私のトレーナー。何が気に入らないのか、「多分これなら着られると思うんですけど!」って、お店で買ってきた下着類と一緒に渡したらすっごく嫌そうな顔をされたけれど、かと言ってアマテラス社の制服はもうボロボロだったし、洗濯をしても、特に泥の汚れが落ちなかったから、仕方がない。
でも、そうじゃなくてもセスさんは、あれをもう着る気なんかなかったみたいだった。後に「ちゃんとは綺麗にならなかったです、ごめんなさい」って返そうとした制服を、彼は受け取ろうとしなかったから。
「…………それは、あなたの方で処分しておいてもらえますか」
もう必要がないので。って、眉を顰め低く呟かれたそれに、私は理由を尋ねることもできないまま、数秒の思案の後、頷く他なかった。セスさんの言う「処分」はなんだかしづらくて、私のクローゼットの奥の方に押し込んでしまったけれど。
私にはぶかぶかだったトレーナーは、セスさんにぴったりだった。でも、制服姿を見たときも思ったけれど、セスさんに白は、あんまり似合わないみたいだ。今度、お休みの日にでもセスさんの洋服を買いに行こうかな。「セスさんは何色が好きなんですか?」って尋ねたら、聞こえないふりをされてしまった。結局私はセスさんのことを、未だに、何にもわかっていない。
セスさんは、借りてきた猫みたいだった。微かな警戒心を滲ませながら、じっと息を殺していた。夜は私よりも遅くまで起きていて、朝は私よりも早く活動し始める彼は、もしかしたら私のいない昼間に休んでいるのかもしれない。いや、そうであってほしかった。モノクルの奥にある右目は滅多に私を見ないけれど、その下にある隈は彼をこの家にあげたときからずっと、変わらずそこにあって、少し心配だったのだ。
私は無害ですよ、安全ですよ、何にも企んでなんかいませんよ、ってセスさんに言いたくて、実際に何度もそれを口にした。セスさんは、「自分で言う人がいますか?」って怪訝そうにしていたけれど、でも、事実そうなんだから仕方ない。信じてもらえないなら、って、身分証名称から社員証、高校の卒業アルバムまで見せたけれど、セスさんはずっと、胡乱げに目を細めているだけだった。
家事をしながら鼻歌を歌った。たくさん話しかけた。どうだっていい話だ。この前読んだ本の話とか、学生時代の失敗談(携帯端末と間違えてエアコンのリモコンを持っていったこととか、先生が授業中に蜂に刺されて運ばれたこと。先輩が「外」で女優になったこと。全部、カナイ区が鎖国される前の話だ。)セスさんは私の声を、面倒なときは、聞こえないふりをする。無意識なのかそうでないのか、ため息を吐く。でも私は、諦めたり傷ついたりはしない。私が傷つくときがあるとしたら、もっとこう、大きく環境が動いたとき。人が一人、目の前から消えてしまうくらいの、大きな変化があったとき。
「セスさん、今日もお買い物をしてから帰りますね。今日の夕飯は何がいいですか? 私、何でも作ります!」
「…………何でも良いです」
…………というか、あなたの作るものは大概――。
拡声器を持たない彼の声は、同じ部屋でも、時折ちゃんとは聞き取れないから、聞き返す。そうするとセスさんは、たまに、小さく舌打ちをする。
アマテラス社保安部捜査課長であるセス=バロウズは汚職を理由に「処分」されたらしい。
カナイ区のそこかしこでなされる噂話を、私は彼を保護してから数日後には耳にしていた。なんでも、教会と癒着があったとか、なんとか。癒着っていうと、献金を受けていたとか裏で取引をしていたとか、そういう話になってくるんだろう。だけどその真偽の程は定かではない。そもそも保安部は元より黒い噂が絶えないし、自分たちの利益や保身のために動くなんてことは、日常茶飯事だったから。
でも、「処分」っていうのは、本当なんだと思う。
セスさんは保安部に切り捨てられた(或いは、本当に汚職をしていた、っていう可能性も、勿論ゼロではない。)それで、どうにか逃げ出してきたのだ。行くあてもなく辿り着いたのがあの歯医者さんの看板の陰で、私は偶然そこに居合わせた。彼は間違いなく、逃亡者だ。そうじゃなかったら彼を匿おうとした私に、「下手をしたら殺される」なんて言わないし、あの制服を、「もう必要がない」とも、言わない。保安部の支配するカナイ区で、私は逃亡幇助の犯罪者だった。そんなことは、わかっていた。
仕事帰り、或いは買い物袋を抱えてアパートに戻るとき、私は、いつもどこか緊張していた。部屋の灯りが全部消えていたらどうしよう。片付けてあるセスさんのブーツがなくなっていたらどうしよう。どこにもセスさんがいなかったらどうしよう。浮かび上がる夥しい数の「どうしよう」は、私にあの日の映像を思い起こさせる。床に落ちたビニール袋から転がるタマネギ。どれだけ待っても開かない扉。足りない靴。なくなった楽器。屋根を叩きつける、止まない雨音。視界が緩く点滅する。私はいつも、あの日に囚われている。
だから玄関扉を開けて、セスさんの姿をソファの上に見つけた時、私はそれでようやく安堵するのだ。
「――セスさん、帰りました!」
ほっとして笑う私に、セスさんは一瞥をくれるだけで、何も返事をくれはしないけれど。
セスさんがどこにも行く場所がないなら、怪我の全てが完治しても、ずっとここにいてほしかった。私を信用してくれなくても。私との間に横たわったあの日のことを、セスさんが思い出すことがなくても。
アパートの屋根を、雨が叩いている。セスさんの独りごちるような小さな声をかき消すには至らないはずなのに、私がそれに気がつかなかったのは、セスさんと違って、私の足音や独り言が、馬鹿みたいに大きなせいだった。