仕事帰り、アパートに程近い路地の片隅に蹲る人影に気がついた時は、反射的に、どうしよう、って思った。
もしもここがカマサキ地区だったら、きっと酔い潰れちゃったんだなあって、多分そのまま、ちらちらと様子を窺いながらも通り過ぎたと思う。でも、ここはギンマ地区の大通りから少し離れた、閑静と言っても差し支えのない住宅街だ。こんなところで酔い潰れている人なんて、そうそういるわけがない。事実ひとり暮らしをするようになってから一年、これまで私は、自分の家の近くでこんな風に、建物の陰でほとんど闇と一体化しているような人は見たことがなかった。
その人は、薄暗がりにいた。とうに灯りの消えた歯医者さんの看板の陰に、息を潜めるみたいに丸くなって座っていた。その気配の薄さに、私は最初、それがゴミ袋か何かだと思ったのだ。ごほ、と咳き込むような音に気がつかなければ、きっと素通りしていたはずだった。
――もしかしたら酔っ払ってるんじゃなくて、病人なのかもしれない。
「まあ、もうこの街ではさ、知らない人とは極力関わらない方が良いと思うよ」
頭の中で、かつての弟の忠告が浮かんで消える。
雨は相変わらず、このカナイ区に降り注いでいた。ばたばた、ばたばた、鼓膜を揺らすそれは、一定の音を刻み続けていた。関わらない方が良い、それは、私だって重々承知の上だ。でもこういうときは、また話が違うんじゃないだろうか。
その人は、ポンチョ型のレインコートを一枚着ているだけで、身体を丸めたまま、無抵抗に雨に打たれていた。何もかも、諦めたみたいに蹲っていた。
一体、いつからここにいたんだろう。声をかけてもいいのかな。もしも事件とかに巻き込まれた、とかだったら、保安部に通報するのが一番いいだろう。でも、その前にまず救急車を呼ぶべきじゃないだろうか。
携帯端末を取り出して、それから様子を窺うためにしゃがみ込んだ私のお腹のあたりを、スーツのスカートがぐって圧迫した。うっかり地面に膝をついたせいで、多分、ストッキングが破れた。背伸びをして買った新古品のドローン傘が、私が立ち止まったのを知覚して、頭上でくるくると緩く回転しながら雨を弾いていた。静かな夜だった。「あのう」っていう私の声が、思ったよりも大きく響いたくらいには。足元にいくつもできていた、永遠の水溜まりが、雨粒を飲みこみ続けていた。
「……大丈夫……ですか?」
いつでも救急車を呼ぶことのできるように、数字を打ち込んだ状態で、恐る恐る声をかける。
じっとりとした雨と埃に混じって、血の匂いがした。それで、「救急車、呼びましょうか」って口にしかけた声が、喉に引っかかった。目深に被られたフードから覗いた黒い髪が、微かに動いた気がした。元々は白かっただろうスラックスは泥で汚れて、ほとんど闇に溶けている。ポンチョの裾に白で書かれた文字が、微かに視界に引っかかる。
その瞬間、どうして私はそのフードに手を伸ばしてしまったのか。何か、直感めいたものでもあったのだろうか。私は自分の行動に理由をつけることが苦手な、直情的な人間で、だから弟からも、心配されていた。「いつかとんでもないことしそう」って。
それで破滅を見そうだね、って。
細められた目が。
フードの下、モノクルのかけられたその瞳は、僅かな焦燥を滲ませながら、ほとんど睨みつけるように私を見ていた。その顔立ちを、知らないはずがなかった。明るい緑の瞳は、街のネオンに似ていた。誰もが彼を知っていた。やまない雨の降り続ける街。幽閉でもされたみたいに、どこにも行けない私たち。
「――セス=バロウズ?」
彼はこの街を牛耳るアマテラス社保安部の、捜査課長たる人物だった。
彼はその後の私の行動を、その日からずっと非難している。
曰く、「考えなしの無鉄砲」「考え得る中でも最悪の選択」「下手をしたらまた新たな事件の引き金になりかねなかった」だそうで、私はそれをちくちく言われる度、小さくなってしまうのだ。心の隅で、「でも、そうじゃなかったらセスさんは、もしかしたらもう死んじゃってたかもしれないですよね?」と反論したい気持ちを、ぐっと抑えながら。
セスさんは、あの天下のアマテラス社、その保安部の捜査課長だ。
ひとたびこのカナイ区で事件が起これば、部下を引き連れ現われて、犯人検挙のために事件の調査を行う。地道な捜査を要される仕事だから、しつこい人とか、陰険とか、街の人からは散々言われていたけれど、実際のセスさんは、そう悪い人じゃあない。だって、たまにお風呂の掃除をしてくれるし。
「セスさん」呼びかけると、ソファに座ってぼんやりしていたセスさんの右目がこちらを見る。
「今日は帰りにお買い物をしてくるので、いつもより遅くなります」
「…………昨日も聞きましたよ」
「え、言いましたっけ!? ……あっ、あと冷凍庫に買い置きの肉まんがあるので、よかったらお昼にどうぞ! お皿とか、そのままで良いですからね」
それじゃあ行ってきます、って、私の靴だけが並ぶ玄関に置いておいたゴミ袋と、鞄、それからドローン傘を持って、セスさんの返事を待たずに家を出る。セスさんは「いってらっしゃい」とか、「気を付けて」とか、そういうのは、絶対に言わない。扉の向こうで、私の方を見すらもしない。鞄を引っかけた右腕で、最後に手を振ったけれど、セスさんはカーテンの閉め切られた薄暗がりの部屋の中で、身動ぎの一つもしなかった。
セスさんと暮らすようになって、早数日。
最初はいつ保安部にしょっぴかれるかとビクビクしていたけれど、ここ最近はすっかり、以前の生活に戻っている。と言ってもまるっきり「以前と一緒」ってわけにはいかない。だって家に帰ればセスさんがいるし、私が仕事をしている間も、彼はあのアパートで過ごしているのだ。正直、正気を保っているのが難しいくらいだった。職場の先輩からも、「何かあった?」って聞かれるくらい、私は平生ではいられなかった。
浮かれていたのかもしれない。
なんて、そんなこと、誰にも言えないけれど。
一度、「日中何してるんですか?」って聞いたら、眉を顰めて「関係ありますか?」って、蚊の鳴くような声で言われた。なので私は彼が昼間何をしているのかを、全然知らない。ただ、外には出ていないんだろうなってことは、分かる。彼は今、保安部から逃げていて、その身を隠している状況だから。なんて、一体何があって、どうしてそんなことになっているかも、私は教えてもらえていないんだけど。
保安部の制服を脱いだセスさんは、私の記憶に残る彼よりも、少し小柄に見えた。
それでも、私はあの夜のセスさんのことを、覚えている。何もかも、全部どうだっていいって目をして、彼は穴の開いたゴミ袋みたいにそこにいた。切れた口の端は赤く、ポンチョ型のレインコートの裾に書かれた「天照」の字は、泥と血で汚れていた。通報する寸前だった端末を鞄に押し込んで、「私の家、すぐそこなので、その怪我、治療させてください」と口にしたときの、「…………は?」っていう、掠れた声。途切れ途切れに言った私の声を、あなたが今も覚えていたとは思わないけれど。
セスさんは思っていたよりも重くて、肩を貸しながらも立ち上がったとき、しっかりよろけた。無理してドローン傘を買っておいてよかった。認証されたユーザーは私だから、どうしてもセスさんが濡れてしまって、「ごめんなさい、濡れちゃいますよね」って、密着しなくてはならなかったけれど。セスさんの身体は、びっくりするくらい冷たかった。帰ったらすぐお風呂にお湯をためようって、頭の隅っこで考えた。
「…………あなた、馬鹿なんですか」
何を企んでいるんです、って、雨に紛れるように吐き出されたその声を、私の耳は拾っていたけれど、気がつかないふりをした。そのときの私はただ、目の前のセスさんをどうにか助けなくちゃって思っていただけだったのだ。セスさんが私に「…………下手したら殺されますよ」とだけ話してくれた後でも、後悔なんか、一個もなかった。セスさんを助けて、例えそれで何かの罪に問われ、今度こそアマテラス社に連れて行かれることになっても良かった。
なんてのは、でもやっぱり、ちょっと、嘘だな。
撥水性に優れたレインブーツが水溜まりを踏む。二人分のゴミが溜まった袋を、指定のゴミ捨て場に置いて、バス停へと歩き出す。大粒の雨が、音を立てて傘に落ちていた。セスさんがあの夜蹲っていた歯医者の駐車場に、空缶が一つ転がっていて、私はそれを拾って、近くの自動販売機に備え付けられたゴミ箱に捨てた。がらんと音をたてたそれは、一年前の自分の脳内で反芻しつづけていた音に、良く似ていた。