自分の力で立ち上がることもできなかった。情けなく思いながらも、特異点の、グランと名乗った少年に身体を預ける。ルリアがサンダルフォンの気配を辿って私たちを導いてくれたけれど、私は何の役にも立たないどころか、お荷物同然だ。身体が重い。あえぐように吸った酸素が喉に張り付いて、生じた吐き気を、唇を噛んで耐える。
 白い柱、等間隔に並んだタイルの床、生命の気配が希薄なこの神殿で私は産まれたはずなのに、ルシフェル様と過ごした三十日の記憶が、今はもう霞んで遠い。
 グランの背は少年そのもので、それほど広くはなかったのに、骨ばっていて硬かった。彼の、サンダルフォンの身体を思い出した。彼に抱かれて空を飛んだ。だけど、違うな、これは私ではなく、彼女の記憶だ。私が彼に触れたのは、彼が目を覚ました時、彼女ならこうするだろうという打算の中飛びついた、あの瞬間だけなのだから。
 ルシフェル様の思惑は少しだけ外れた。いや、もしかしたらこれすらも彼の想定の範囲内だったのかもしれない。それは本人に直接確認してみないことには分からないけれど、それでも私は、彼に抱きついたときの、彼の瞳が今でも忘れられない。
 あのすべてを諦めたような目。彼女の記憶の中のどこを探しても、それは見当たらなかった。近いものと言えば、自分のしていることを、「復讐だ」と、彼女に告げたあの時のそれくらいか。だけどそれよりも、もっと、深い諦念のようなものがそこにあった。私はその時、自分の役割すらも忘れて、心を震わせていたのだった。
 見抜いてくれた。
 それだけがすべてだった。








 無造作に床に転がる彼の首に手を伸ばす。膝が震えた、半開きになったその瞳が映す白を、俺は見ている。視界が歪んで、吐き気を催していることを知った。だけど顕現したばかりのこの肉の内に、吐き出せるものは何もない。二酸化炭素だけを吐き出して、震えに任せて膝をつく。「ルシフェル」残骸と呼んで差支えないその首は、俺の声に何の反応も示さない。
 身体はどこを探してもなかった。彼の気配は、まるで霧状にして均したような微弱さを持っていた。何故、誰がこんなことを、どうして再生をしない、混乱する俺の耳に、その声が届く。



「誰か……いるのか……」



 その眼球は俺には決して向けられない。知らずに抱きしめた。その首は微かに温度を持っていて、どうしたらいいかわからなくなる。だって俺は、文句を言いたかったのだ。この怒りをぶつけたかった、そしてどうか許してほしかった。理解してほしかった。だけどもう俺たちは、意志の疎通もできない。
 ルシフェルの五感は失われていた。ただ、彼の遺志を伝えるためだけに、その薄い唇は言葉を重ねていく。何も感知できず、方法を吟味することができないと。それを認めたときの殴られたような感覚はいっそ生々しいほどだった。俺達はもう、二度と語りあえない。いや、だけど違うか、そんなものはきっと最初から、できていなかった。その結果が、この惨状なのだから。
 だから、彼が「伝えてほしい」と、続けて吐き出したその言葉を、俺は、上手く呑み込めずにいる。








 私に名前はない。
 ルシフェル様が作った(今のところは)最後の天司で、役割は「サンダルフォンの安寧になること」だ。だけど、その役割だって本当は私に与えられたものではない。
 ルシフェル様は嘗て、異世界から彼女を呼んだ。明朗快活、無邪気で健康、難しいことを理解できず害のない、この世界に於いて何ら役割を持つことがない少女を。
 サンダルフォンが脱出したあとのパンデモニウムを抑えるのに力を使っていた彼には、その時新たに天司を作るという選択肢がなかった。だから縋るしかなかったのだと。一度だけ話してくれた。お前の元になった少女は、彼を止めることはできなかった。だけど、確かに彼の安寧であったはずだと。だからお前もきっと彼の救いになる。
 私の存在は彼のためで、だけど彼が本当に求めているのは私ではない。私はそれをルシフェル様のコアの中で知ったけれど、ならば私は一体なんなのだろう。彼のために作られたのに、私は彼から拒絶されている。彼から一度も名前を呼ばれたことがないのが、その証拠だ。彼の安寧は私ではなく、私の奥に居る、もうこの世界には存在しない少女で、私は言うならば代替物に過ぎない。
 求められることがない代替物なんて、ただの置物ではないだろうか。
 思考を、命を与えられた置物は、いつまでその役割に縛られ続ければいいのだろう。
 私の奥底に沈められた、鍵のかかった箱を、私は目を閉じて目いっぱい蹴り飛ばす。








 俺に天司長の座を明け渡すと彼は言う。自分の代わりに『ルシファーの遺産』を滅ぼせと告げる。全てが終わった後は、天司の役割を自然に還元してもいいと。彼の目には世界しか映っていなかった。昔からそうだった。
 何か一つでも違っていたらと俺は常に考える。
 あのとき、俺を廃棄対象物だと言い放ったルシファーの言葉に、彼が僅かにでも否定してくれていたら。彼を避けるようになった俺に、理由を尋ねてくれていたら。彼への叛乱に身を投じたその時に、俺を殴ってくれていたら。だけどそんなもしも話は二千年を経た今何の意味も成さない。俺の腕の中には彼の首があって、それはもう再生することがない。彼は最後の力を使って、「見ず知らずの相手」に、サンダルフォンへのメッセージを残している。それが、俺は、酷いと思うのだ。
 どうして、どうして、どうして、思っただけのはずの感情が、唇から漏れだしていく。どうしてこんなときに、今際の際に、あなたの真意を聞かねばならない。どうして俺を見てくれなかった。どうして、どうして。だけど。
 譫言のように、彼は口を開く。
 


「……問いは願いなのだ」



 どうして、今まさに、そう呟いていた俺は、震える息を吐き出す。
 彼の眼球が、閉じられる。乾いた唇が微かに動く「私の問いは」どうして「もう一度あの中庭で」どうして「君と珈琲を」どうして「サンダルフォン」
 どうして俺はあなたとあの中庭で珈琲を飲む夢を見続けたのだろう。あのコアの中で木を育てた。実を取り、焙煎し、抽出し、マグカップを二つ並べて、そのうちの一つに淹れて飲む。彼女はそういう時、俺を必ず一人にしてくれた。畑に行ってくるね、なんて間延びした声で家を出た。その髪の根元は、いつまでも美しい栗色でした。ああ、だから、あなたが作った少女は、欠陥品でしたよルシフェル様。
 ならきっと、もう一つのマグカップに珈琲を淹れることを強要したでしょう。喜怒哀楽を躊躇わずに押しだして、俺の呪いを呑み込んだでしょう。だけどはもういない。どうしてここに彼女がいないのか、俺はだけど、そう考えたことなんて、ただの一度もなかったのだ。
 俺の問いは。
 どうして俺はあなたと珈琲を飲む幻想を追い続けたのか。あなたの言葉を借りるなら、もう、答えなんか出ていた。
 あれが俺の願いでした。
 ルシフェル様の首は光を放ち、やがて空気に霧散する。








 グランに背負われたまま、私たちは神殿の回廊を抜ける。彼の気配が、私でも感知できるようになったのは、その扉が開けられる瞬間だった。
 神々しい六枚羽。
 私たちに背を向けていたその人は、扉が開けられたことに気が付くと、ゆっくりと振り向いた。
 私はこのとき何故か、ルシフェル様が私をコアに封じる寸前に呟いたことを、思い出していた。「どうしてと言う問いは、願いに似ているのではないだろうか」あれは自分の思考を整理するための独り言であったのかもしれない。だけど、私はずっとそれが脳の端っこに引っかかっていたのだ。
 どうしてという思いが願いならば、ならば私のこの、産まれた時から腹の内側にこびり付いている「どうして」は、なんて残酷な願いなのだろう。私はそれを、ずっと、植えつけられた彼女の溌剌さで刺し殺し続けていたのだ。



 振り向いたサンダルフォンと、目が合う。ルシフェル様が消滅したこと、代行機能を持つ彼がその力を受け継いだこと、それらを察しても尚、私は何も言えなかった。何もかも理解が追い付かず、信じられなかったのに、ただ目の前の光景は全てを物語っている。
 こんなときなのに、私は、どうしてと考えていた。産まれた瞬間から芽生えた私の問いは、今も尚、内壁を引っ掻き続けている。



「どうして私は産まれたの」



 産まれたくなかったなんて、そんなのあんまりだ。 
 サンダルフォンは、私の内心を見透かすように、その双眸を細めた。揺れと共に、地鳴りが響いたのはその直後のことだった。



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