この世に生を受けた時から、俺は彼のことを愛した。まるで雛鳥が親にするように、それが刷り込みであろうとなかろうと、あの人は俺の全てを懸けるに値したから。
役に立ちたかったのだ。他の四大天司のように、隣に立つことは叶わなくても、その指の一本程度にはなれると思い込んでいた。それはほとんど青い陶酔だった。この手で磨き上げてきたそれは呆気なく、粉々にされてしまったけれど。
「奴は、お前の『スペア』だ」
彼の創造主が彼にそう話しているのを、聞いてしまったから。
自分が彼の代用品に過ぎないこと、それも、決して役に立つことのない、廃棄されて然るべき無価値な存在だと。それを知ってから、上手く笑えなくなった。どうしても口角があがらない。言葉の一つも形にできない。
嘘でもいいから、彼の創造主に、それを否定する言葉をぶつけてほしかった。俺が突然あなたを避けるようになった、その理由を尋ねてほしかった。俺の言葉などなくとも気が付いてほしかった。察して、何か一つでも否定の言葉をくれたなら。そうしたら何も、誰も恨まずにいられたのに。裏切らなくて良かったのに。二千年の孤独を、憎悪を、一滴ずつ抽出してその純度を保つことなどせず、あなたの傍で愚かなままあることを良しとしてくれていたら、そうしていたら。
何もかも無駄な仮定の話だ。
「は……っ」
彼のコアが壊れて、俺は予期せぬ顕現を果たした。身体は鉛のように重く、まともに手足が動かせない。特異点や蒼の少女、赤き竜が意識を失って倒れている様を視界に入れた。意識はないようだが、外傷もなく呼吸も正常だ。放っておいて問題ないだろう。
それよりも、彼の、あまりにも希薄な気配が気にかかった。特異点たちの言葉を信じるならばここはカナンの神殿で、彼が近くに存在していることは間違いないが、幾らなんでも様子がおかしい。彼の司るエーテルのバランスが崩れているという特異点の話が脳裏を過ぎったが、答えを出すにはあまりにも早急だ。
微かに感じられる反応を頼りに、俺は立ち上がる。膝が震えた。いっそ深海にいるようで、重力にすら屈してしまいそうだった。この微弱なまでの彼の気配は、戦略か、或いは計算に違いないとは考えたけれど、それでも、先だって蒼の少女に言われた言葉が皮膚の内側から引っ掻いて、傷を作るから、ならば、いっそもう、決着をつけるべきだと思ったのだ。二千年の間に渡って膨張を続けた、この怒りに。
眠り続ける蒼の少女を見つめれば、その隣には彼女がいた。「必要ないとか、無意味とか、どうしてそうやって自分をいじめるんですか」蒼の少女が吐き出したはずの言葉を、俺は、蒼の少女ではなく、あの少女でもなく、本当は「彼女」に言ってほしかったのかもしれない。そう思った自分に、本当は、どこかで驚いていた。
幻覚でもいいから。
あの少女を模した代替物である彼女に手を伸ばしかけて、とまる。
栗色の髪の根元は、美しく、滑らかだった。どこまでも均されたような色をしていた。「彼女」のように、黒い地毛が見えることなどなかった。どんなに取り繕っても、この少女が「彼女」を演じても、或いは、そうであるように作られていても、それだけで、俺は現実に引き戻されたような心地になった。
だから、文句を言ってやりたいことは、たくさんあったのだ。あなたには俺の気持ちなど欠片も理解できないのだろうと。俺が望んでいたものは、こんなものではなかったと。「彼女」を模した少女を見るたびに、お互いが知らぬふりをして続けた飯事が折り重なって山を作り、心に穴が開いていく。突き刺さった針は俺が溜め込んだ「彼女」との日々に傷をつけるには至らずとも、俺自身を確実に蝕んでいた。
「……」
手を引けば、俺の腕の影の動きに反応したのか、わずかにその眉目が動いた。だが、目を覚ますことはないらしい。
モスグリーンのコートの下の腹が呼吸に合わせて微かに動いた。彼女がきちんと息をしていることに確かに安堵しているのに、俺は今でも、彼女を何と呼べばいいのか分からない。
石に足をとられ凭れかかった柱が崩れた。砕けた石片に押しつぶされそうになって、何とか耐える。わはっ、と言う笑い声が聞こえた気がした。なんてことはない、幻聴だった。
あの二人は全く同じ顔をして、同じ体型で、同じ声帯を持っていた。着ているものまで同じだったけれど、笑い声は違った。厳密に言えば、笑い声だけではない。彼女が時折見せる翳りのある表情や、俺を窺うような視線に至るまで、それは細部にまで完全にコピーされたとは言い難かった。彼女に予め埋め込まれた自我に問題があったというよりは、或いは、後天的な何かによるものなのかもしれない。彼女には、どこか躊躇いがあるようにも思えた。皮肉なことに、それが俺にとっては救いでもあったのだ。
いつだってそれが、俺に正気であれと訴えてくれていたから。だから。
「弄ぶのも……いい加減に……しろ……!」
だからこそ、彼女を作ることを良しとした彼の欠落に俺は怒りを覚えている。平衡感覚は相変わらず狂っていて、まともに足が動かない。それでも彼のもとへ行って、文句を言ってやらなければ気が済まなかった。
俺が求めているものを、彼は、いつだって理解しない。二千年前から、ずっと。全てを慈しむようなあの眼差しには僅かな欠けがあって、それはきっと彼の正しさには影響を与えない。だから、俺にしか分からないのだ。自惚れてもいいか、これくらいは。あなたの傍にいた。あなたに焦がれ続けた。だからこそ、俺にはあなたの完全さも、不完全さも、あなたが持つ危うさも、すべて理解できる。
俺が救われるとでも思ったのだろう。彼女を傍に置いておけば。消えてしまったの代わりを作っておけば。代替物同士、互いの傷を舐めあうことが幸せだと。その浅はかにも思える短慮に泣けてくる。いや、違うか、彼にとっての正解は、これしかなかったのだ。それは最早短慮などではない。
これこそが俺の幸せだと彼が思いこんだ。だけど、俺は、俺のために新しい誰かを犠牲になどしてほしくはなかったのだ。なあ、ルシフェル。だから、俺はもう、何もいらなかったんだよ。彼女が元の世界に帰ったのなら、俺はそれを受け入れた。そうするだけの気概は、俺にもあったのだ、最初から。
やがて、彼の気配の大元に辿り着いた俺は、そこで「それ」を見た。
「……は……?」
転がる彼のその首は、身体を失い、ただ虚空を見つめている。
俺を、彼女を作った創造主は、そうして俺の二千年を終わらせた。