目を覚ました瞬間に目が合った人物をそうと認識するのは限られた生物にある特性らしいけれど、星晶獣に関しては殊更それが顕著である気がする。私はすっかり彼を愛し、信頼した。それは個性だと彼は言ったけれど、私は他の星晶獣に会ったことがないからこの感情が特別なのかそうでないのか分からない。
私は彼と二人きりだった。白い壁、白い床、等間隔に並べられた柱にも、タイルにも目印になるような模様はなくて、人の気配はない。広すぎるこの場所で私は毎日のように迷子になった。大きな声で彼の名前を呼べば無機質な屋内に私のキンキン声が反響する。彼は迷惑がる素振りも見せずに、自分の気配を辿るといいと教えてくれたけれど、私にはそれがほとんど分からなかった。なんとなく、ふわっとした、色で言うとクリーム色みたいな、そういう感覚がどこかに漂っているような気はするんだけれど、それが自分からどのくらい離れた位置に居るのかまでは分からない。
私はそういう、検知能力? とか、戦闘力? とかいうものをなるべく削ぎ落として作られたらしい。必要ないんだって。良くわからないけど。というよりも、私はそれを求められていると思うから、良くわからないと言っておくことにする。
私は彼の作った(今のところは)最後の星晶獣で、そういう検知とか、戦闘とかよりもずっとずっと大切な役割があると言う。私はそれを、明確に言語化されるまでもなく、実を言うと察している。
彼がまず私にしたことは、記憶の定着だった。それはもう私が目を覚ます前には既に完了していたものだ。つまり、目を覚ました時に芽生えていた私の自我が既に定着されていた記憶により形成されたものであることは間違いない。私のこのお気楽な思考回路や、大きい声、喜怒哀楽がはっきりしているところとかは完全に「彼女」譲りだ。それだけじゃなくて、明るい栗毛や、着ている服、爪の形やふとしたときに出てしまう癖に至るまで。
私の脳にははっきりと彼女が記録されていて、彼女としての行動がパターン化されていて、言動や立ち振る舞い細かな所作に至るまで、私は一瞬どころか、いついかなるときだって「彼女」になる。それを求められている。
ただ、私の中には一つだけ鍵がかかって開けられない場所があって、私はたまにそれを引っ掻いたり擦ったりして様子を窺うんだけれど、そこはうんともすんとも言わない。私はそこに何か秘密があるような気がしてならないのに、ルシフェル様は触ってはいけないと言う。でも、私が好奇心旺盛な少女であることは私に責任があるわけではないし、私はルシフェル様の言葉に従うふりをしてたまにそこをこじ開けようと試みる。成功した試しはないし、多分ルシフェル様も私がそうしようとしていることは分かっているんだろうけれど。それでも彼は私に、何も言わなかった。
私はそうして彼と過ごしていた。だけど、今思えばそれは本当に僅かな期間だ。
ルシフェル様はある日私を呼んだ。私が作られて三十日が経った頃だった。それは私の脳にコピー・ペーストされた、彼女と彼の過ごした日々とちょうど同じだけの日々だった。
「ここに彼が眠っている」
私が立ち入りを禁止されていた唯一の場所に、それはあった。
台座の上、幾重にも羽が折り重なって作られた卵型の球体、浮かんだ輪は神々しく、私は少しだけ見惚れた。形は違うのに、しろくやわらかなそれはゆりかごを連想させた。ここに彼は眠っている。ルシフェル様の言葉を反芻させて、私はうんうんと頷いた。まるで飲み込みのはやい優秀な少女であることを強調するように。
私の中には「彼女」に関すること以外にもちょっとした記憶があって、大体のことはルシフェル様が私を作る段階で脳に刻み付けておいてくれたものだ。だから、ルシフェル様の話に関してそこまで理解に苦しむことはなかったけれど、もしも真っ新な「彼女」として産まれていたら、言外に秘められたその意図を汲むことは難しかったのかもしれない。
星晶獣、特に天司と呼ばれる一群には役割がある。敵性分子の排除だったり、元素の均衡を保つことだったり。それはこの空の世界のバランスを取るために必要なことばかりだ。そうするに至るまでの過程も、一番最初にルシフェル様を作り上げた星の民の存在も、おぼろげだけれど、必要最低限の知識だけは頭に入っている。そこから派生して何かを考えたり、論じたりすることは難しいけれど。たぶんそれは、私の元となったのが「彼女」だからだ。私には、彼女と同じくらいの知能や力しか与えられていない、最初から。
私の役割は、だから、これだ。
視線を感じて、ルシフェル様の顔を見上げたら、その双眸には私が映っていた。けれど、それは果たして本当に「私」だったのだろうか。ルシフェル様は私に名前をつけてはくださらなかった。必要がないから。私は「彼女」だから。だから、今こうしてルシフェル様が見つめているのも、本質的にはきっと私じゃない。
「君に彼の安寧になってほしいのだ」
ルシフェル様の背の後ろに見える、卵型のそれを視界の端で見た。
あそこで眠りについているらしい人のことを、私は知っている。私は彼の安寧になる。
特性ではなく個性だとルシフェル様は嘗て私に言ったけれど、では、不透明な膜に全身隈なく包み込まれて窒息しそうな気配を感じてすら尚それを受け入れようとする私のこれは献身と言う名の個性なのか。そうするように彼は私を作ったのか。それはもう、彼にしか分からないのだ。
私は疑問を抱いてはいけない。疑念のないままに頷いて、記憶の中の彼女のように、笑って、大きな声を出して、損得など考えずにいなくてはいけない。頼まれなくとも、私は彼の、「サンちゃん」のために生きなくてはいけない。いや、だけど実際問題、記憶の中の「彼女」は「サンちゃん」のために生きていただろうか?全てを彼に差し出していただろうか?
「彼女をあの世界から呼んだのは」
私の思考を読み取るように、ルシフェル様が静かに言葉を重ねていく。
「この世界に於いて一切の役割を持つことがない彼女ならば、彼の安寧になれると思ったからだ」
私の網膜に焼き付いたそれが映写機のように彼の顔を映し出す。「彼女」が見た記憶だけでなく、ルシフェル様が見ていたそれも含まれたその映像は、時に主観的に、時に客観的に、彼らの過ごした日々を私の前に提示して行った。
靴紐を踏まれてつんのめった彼女、頬に食べかすをつける私を信じられないものでも見るかのような目つきで見つめている彼、復讐をすると言う彼に私が知らないふりをしてみせたこと、空を飛ぶ際に騒ぎながら彼にしがみ付いた彼女を、落としてやろうかと彼が一瞬だけ考えていたこと、それまでどこかで置いていけないものかと思ってすらいた彼が私に、最後には「行くぞ」と言ったこと。
だから、私は混乱する。私がまるでそこにいたように思えてしまう。俯瞰しながらそこにいる。私は彼女になったり、それを真上から見ているだけの第三者になったりする。だけど、私はやっぱり、自分とほぼ同じ思考回路の、自分と全く同じ形をした少女がそこにいると、それを自分であると誤認してしまうのだ。それこそがルシフェル様の思惑で、私は彼の役に立てることを喜ぶように設計されていて、私の役割は、「彼の安寧になること」それは即ち、都合のいいになることだ。
その都合のいい、が、一体誰にとっての話なのかを、私は考えてはいけない。
四大天司の一人の羽を奪った彼は、やがて各国にパイプを持つ商人たちを襲う。彼女から見た彼は、断ち切られたようにその先がない。彼を止めることが出来なかった彼女は、ルシフェル様の手によって元の世界に帰された。商人たちを襲って、ますますあとに引けなくなった彼が彼女の眠る宿に戻ったとき、もぬけの殻であるベッドを見て彼がどう思ったかを、きっとルシフェル様は知らない。
その後、加速度的に、彼は世界に終末を齎そうとした。全てを利用し、世界を終わらせようとしていた。
それは叶わなかったけれど。
「彼が安らかに過ごせるように、どうか、頼む」
ああ、困ったなと、私はその時初めて、自分を作り上げた彼に思った。
完璧な存在だと思っていたのだ。過ごした日々が、産まれる前に刻み付けてくれた記憶が、だけど、これはもしかしたら、彼女のせいなのかもしれない。星晶獣ではない、私の中の彼女が、それを見抜いてしまった。
ルシフェル様は、少し欠けているんだ。
だけど私はその穢れのない美しい双眸を、何者よりも変えがたく思ってしまう。
私が何者であるかを答えてくれる人はいないけれど、それでも、ルシフェル様のコアの中で眠る彼が目を覚ましたときに、サンちゃん、と呼びかけた私を見た彼が、酷く悲しそうな目をして見せたその瞬間、わたしはまるで、それがこの世の春のように思えたのだ。なんて、ごめん。
私は、爪先からはあの子になれない。