サンちゃんの傍にいることは楽しかった。
 サンちゃんはああ見えて根は優しいから、私が困っていたら何かと手を貸してくれるし、料理だって上手だ。自分から話しかけてくれることは滅多になかったけれど、私の問いかけにはいつだって答えてくれた。嫌がる素振りも見せなかった。それが、前とは違うなって、私はぼんやりと思っていた。
 この世界は何だかとても不思議なところで、私とサンちゃんの他には人は愚か、虫も動物もいなかった。長閑な村の景色はどこも荒廃してはいないのに、私たち以外の人たちがまるで透明になってしまったかのように、そこには誰もいない。
 命と言えば植物くらいなもので、私はサンちゃんの目が覚めるまでの間、家の棚にあった「はじめての農業」を読んで実践してみた。運動不足の足腰はすぐに悲鳴をあげたけれど、他にすることがなかったから仕方ない。モスグリーンのコートはあっという間に土で汚れてしまったけれど、気が付いたら時間が巻き戻ったみたいにきれいになっていた。サンちゃん曰く、「物理法則が歪んでいる」そうだけど、物理法則ってなんだ? 私は大抵のことを理解できない。
 サンちゃんが起きてから、私はすっかり元気になって(自覚はしていなかったけれど、やっぱり不思議な世界に一人きりというのはなかなか堪えていたらしい)より一層畑仕事に精を出した。作物は不思議なくらいにすくすくと成長したし、「はじめての農業」に書いてある「春に植えて秋に収穫」なんていう文言は一切当てにならなかった。そもそもここに四季はない。永遠とも思われる穏やかな春。私とサンちゃんは、その中でただぼんやりと生きている。私は野菜を作り、サンちゃんは珈琲の豆を作り、以前よりも遥かに減った会話の中、お互い腹の傷には触れぬまま、ただ受動的に生きている。
 けれど、能動的な人生とは果たして何だろう。そう考えたとき、私はかつてのサンちゃんを思い出していた。世界中を飛んで回って、「復讐のための観測」をしていた彼は、主体的と言って問題なかったはずだけれど、その結果彼は今ここにいる。罰を受けている。私と共に。
 サンちゃんは食事中、私に向かって微笑んでみせるときがある。
 諦めたように笑うその瞳の記憶を探りながら、私は首を傾げて笑みを返す。それしかできずにいる。
 私は今、どんなときに、「わはっ」と声を出せばいいのか分からない。



「あれ~? お客さん?」

「おいおい、サンダルフォン、誰だよこの姉ちゃんは」



 「彼ら」がここを訪れたとき、私は感情を表に出さずにいられる自信がなかった。部屋に戻っていろというサンちゃんの言葉に素直に従ったのは、そのためだ。
 だけど、もしかしたら間違えたかもしれない、彼らの視線から逃れる様に扉を閉めながら、私はずるずるとその場に座り込む。もたれかかった扉の向こうで、「なんだよ今の姉ちゃん」と、私の存在を疑問視するような声が聴こえたけれど、サンちゃんはそれに明確な答えを出しはしなかった。なんだよ、今の姉ちゃん。私は口の中でその問いを繰り返す。なんだよ。なんだよ。
 本当になんだよ。
 立てた膝に額を押し付ける。本当に、上手くいかない、難しい。つるりとした膝には転んだときにできるような小さな痣がいくつかあった。短い靴下。歩きやすさを重視した運動靴。モスグリーンのコートは身体に比べれば大きめで、袖が余る。私はこの袖の部分が本当に煩わしくて、できることなら切り落として長さを調整したいくらいなのに、「物理法則が歪んでいる」この世界ではそれができない。多分、切ったって気づいた頃には元の長さに戻っちゃってるんだろう。土汚れと一緒だ。
 上手くいかない。難しい。私は間違えてばかりいる。もっと上手にできていたら、サンちゃんはあんな風に笑ったりしないんじゃないだろうか。そんなどうにもならないもしも話に頭を悩ませて、私は最近、ちょっと困ってしまっていた。行き詰っていた。栗色の髪の先をくるくると指に巻きつけながら、私は唇を尖らせる。なるべく深刻には見えないように、あえて、そうする。
 サンちゃんのことは、好きだ。好きだからこそ、私は彼を元気づけたいのに、上手くいった試しがない。サンちゃんはいつもどこか遠くを見ている。窓の外だったり、部屋の斜め上だったり、私の瞳の奥の誰かだったりを、何かを探すように見ている。そこには何もないですよ。ここには私とあなたしかいませんよ。念じて見たって無駄だ。だから私は夜になるとベッドに潜り込んで、上手く眠れるわけもないのに目を閉じながら、悪態ばかりを吐いている。これはなかなか難しいですよ。届くはずもない伝言を脳内で紙にしたためて、丁寧に畳んで畳んで、小さくして、その辺に放り投げる。毎晩そんなことをしているから、私の頭の中はもうとっちらかって爆発寸前だ。
 上手くいくわけがないのだ。そう思っている時点で、やっぱり駄目だった。だって本音を曝け出さない関係に進展があるわけがない。だから、「どうして嘘を吐くんですか?」という女の子の声が、私の後頭部の向こうから聴こえてきたとき、私はすっかり息が止まってしまった。
 その時に私は、ああ、終わるんだなと、どこか他人事のように思った。
 この世界には間もなく罅が入る。砕かれて、バラバラになって、そしてサンちゃんは外の世界に出ていく。
 その時私はどこへ行けばいいんだろう。
 問答の末の絶叫が響き渡ったとき、私は部屋の壁が弾ける音を聞いた。部屋の窓の向こうで、サンちゃんが育てていた珈琲の木が真っ二つに割れたのを見た。世界が白む。初めてここに来たときと同じように。ああ、どうか、どうかと言われたのだ。どうかお前が彼の安寧になりますようにと。
 なれるわけなかったよ。
 私たちの飯事が終わる。









「……い、おいっ!」



 どれくらい意識を失っていたのか。目を開けると、そこには「彼ら」が居た。茶色い髪の男の子と、蒼い髪の女の子、それから赤い竜。背後に広がる真っ白な壁や柱を視界に入れながら、私は自分がどこにいるのかを知る。身体は酷く重かった。大量の服を着込んだまま水の中に突き落とされたような感覚だ。指先すらも動かすのが困難で、私は「大丈夫かあ!?」という竜の問いかけに、首を振ることもままならない。



「起き上がれる?」



 男の子が私の背に手を差し込んで、壁にもたれかけさせてくれた。横になっているよりは、呼吸が楽だった。手足の感覚が曖昧で、私は目線だけを動かしながら彼の姿を捜す。それだけで、男の子は察してくれたらしい。



「僕たちも今目を覚ましたところなんだ。その時にはサンダルフォンは……」

「どうも先に行っちまったみてえなんだよ。オイラたちも追いたかったんだけど、でも、姉ちゃんをここに置いていけないからよお……」

「ごめ」



 なさい、と続けたかったのに、声にならない。本当に嫌になる。目が覚めたときは私と同じような状態だったはずなのに、それでも彼は立ちあがったのだ。なるほど、「あの人」の気配は希薄で、その身に何かが起きているらしいことは明白だ。私だって、動かなければいけないのに、なのに、脚に力をいれようとしても入らない。まるで自分の身体じゃないように。
 悔しくて、本当は泣きたかった。力を与えられなかったせいだと言えばそれまでなのかもしれない。だけど、それでもあの人への思いは同じはずなのに、いや、それ以上に私は彼への思いだって持っていたはずだ。単純な足し算であるならば、私の方が重くて然るべきなのに、きっと現実はそうじゃない。歪んでいるのは私でも、物理法則でもなく、彼だ。



「……あの」



 不意に、蒼い髪の女の子に声をかけられた。
 彼女は顔をあげた私から、一度だけ躊躇ったように目線を逸らした。だけど、少女の中でも確信があったのだろう。あの人から聞いている。この子はルリア。彼のために怒って、虚無から掬い上げてくれた女の子だ。だから、彼は今ここに居ない。原動力が何であれ、彼は行ってしまった。
 それは本当は私の役割だったのに。恨みがましく思っているわけではなく、私はただ、事実としてそれを受け入れている。だからもう、良かったのだ何だって。「あなたは」躊躇う必要なんてなかった。遠慮せずにいてもらって構わなかった。逸らされた瞳が再びこちらを向いたそのとき、私は埋め込まれた記憶の中で笑う彼女のことを思い出していた。



「……あなたは、星晶獣ですよね」



 私を構成する全てが作られたものだと言うのなら、彼への思いも、偽りでしかなかったのだろうか。
 私はそれが分からない。



 - back -