何も考えなければ楽だったのに、どうして俺は未だ、砂を呑み込んだようなざらつきを覚えているのだろう。
彼女はそんな俺の瞳を時折見透かすような色で見つめる。何も言うなと念じれば、その目はすぐにいつもの色を取り戻し、器用に彼女の、彼女らしい感情を発露する。大きな口を開けて笑い、物怖じせずに発言し、喜怒哀楽の全てをきちんと切り分けて俺の前に差し出して見せる。その姿にも、何も感じなければ良かった。
いくら無心であれと言い聞かせても、不出来な俺の脳は何かしらの不純物を生み出す。完璧だった。完璧だったのだ。君の方は。何千何万と繰り返した静かな夜は終わらない。作り物の空が白んで俺は目を覚ます。睡眠をまともにとることはできなかったから、目を覚ますという表現は適切ではないのかもしれないけれど。太陽が昇れば、人間である彼女のために料理を作る。俺は食べなくても生きていられるし、そもそもこの世界の法則を思えば食事をしなくとも問題はないのかもしれないが、それでも彼女のために包丁を握る。この日々を、与えられた役割を演じ続け、繰り返し、飲み下し、彼女と共に、彼女と共に。檻の中だと言う認識さえなければ、それは存外楽なものだと言い聞かせ。
実際のそれに換算すれば、一体どれほどの月日をそうして過ごしていたのだろう。
箱庭の中で、俺たちは彼の望むままに生きていた。何も知らないふりをして、何も気づかないふりをして。そうしていれば楽だった。だけど「ふりをしている」時点で生まれてしまう虚無を、俺はどこに埋めればいいのだろう。家の外か、彼女の管理する畑か、俺が育てた珈琲の木の根元か、そうすればあなたは気付いてくれるだろうか。
無駄か。
その日は唐突にやってきた。
蒼の少女と赤き竜、そして特異点が、この世界に紛れ込んできたのだ。
彼らも驚いていたようだったが、この件に関しては俺も予期していなかった。彼らを住まいに案内することに躊躇がなかったと言えば嘘になるが、無心であれと、呪文のように自身に言い聞かせる。だって、何があろうと関係がないのだ。彼らの事情を汲んだところで、例え外の世界に何が起きていたとしても俺には一切の権利が与えられない。俺はここから出てはいけないし、彼女だってそうだ。
そこまで考えて、我に返った。けれど遅かった。俺はその時丁度家の扉を開けていたところで、都合よくこの瞬間に彼女が畑に出ている可能性なんてあるわけがなく、実際、彼女はそこにいた。ダイニングテーブルについて、何をするでもなくぼんやりと宙を眺めていた。その目線が、ゆるゆるとこちらに向けられる。
「あれえ? 早かったねえ。忘れ物?」
俺の肩の向こうにいる者の存在に気が付いたのだろう。間の抜けた声で、「あれ?」と彼女はもう一度繰り返した。目を丸くした彼女は、そのまま何度も瞬きを繰り返し、俺の顔と彼らのそれとを見比べる。
「え~? お客さん?」
「おいおい、サンダルフォン、誰だよこの姉ちゃんは」
「……」
その時、俺が舌打ちを堪えながらも、赤き竜ではなく蒼の少女に目をやったのは何故だろう。蒼の少女は僅かに目を見開いて、椅子から立ち上がった彼女のことを見つめていた。その視線から彼女を隠すように、俺は自然な所作を装って立ち位置を変える。
「……君は部屋にいてくれないか」
本来ならば。
彼女はきっと、「ええ~」と口を尖らせて首を振っただろう。折角お客さんがいるのに、だの、静かにしてるから、だの言って、この部屋に居座るはずだった。だけど、有無を言わせない目で見下ろせば、彼女は利口に目を逸らす。「はーい……」と素直に頷いて、特異点たちに軽く頭を下げると、彼女は自室へと戻っていった。
赤き竜が「なんだよ今の姉ちゃん」と興味を持つのは予想できていたが、「彼女のことはまあ、気にしなくてもいい」とはぐらかす。
そもそもその前に、どうして君たちはここにいるのか。そう尋ねれば、もう彼女について引っかかりを覚えていたとしても、それを口にする者はいなかった。
自分は壁に寄りかかりながら、普段俺と彼女が座っている二脚の椅子に特異点と蒼の少女を座らせる。特異点の頭の向こうに見える扉を、俺は無意識に、目の端で見つめている。
直後、特異点たちが語ったことを信じるならば、俺が起こした災厄から外の世界は幾許かの月日が経っていたらしい。ここでの永遠とも思える日々を思えば「幾許か」と言う表現は俺に衝撃を齎しても良かったはずだったのに、実際は何とも感じなかった。そんなものか、と、ただそれだけを思った。これくらいに鈍感であればよかった。何に対しても。生まれた時から。
彼らはあの災厄に関して、怪我人はあれど実質的な被害は奇跡的になかったと言ったが、それは恐らく天司長である彼の庇護によるものなのだろう。島々では順調に復興が進み、航路の安全も確保された頃、しかしそれは起きたと言う。
空の世界を構成するエーテルが乱れ、星晶獣の精神に影響が出たと言うのだ。エーテルとは変わった性質の元素で、光と闇の二面性を持ち特定の周期に従って状態を変えるが、その周期が突然狂ったのだと言う。空は明滅を繰り返し、狂ったように暴れまわる星晶獣は街を破壊する。ではそもそもなぜその周期が乱れたのだと言えば、その問いに対する答えは一つしかない。
エーテルを司る者に、何か予期せぬ異常が起きたということだ。自然と浮かんだ彼の姿に、僅かに心がざわついたのを自覚する。
「……ルシフェルの無事を確かめてきてほしいと頼まれたんだ。ルシフェルの居場所であるカナンは元素の薄い低層にあるせいで四大天司は近づけないって言うし」
神妙な面持ちで続ける特異点は、どうにかカナンの中心にある神殿に辿り着くことはできたらしい。よくもまあ人間風情があの到達不能区域に至ることができたものだと内心瞠目したが顔には出さない。そこで彼らは所持していた羽に導かれ、繭のような何かを見つけたらしい。羽と繭は共鳴するように光り、それに包まれた特異点たちが目を覚ませばここにいた、というのだ。
彼の無事を確かめに来た、と特異点は言った。ならば早い所ここから脱出すべきではあるだろうが、生憎俺は脱出経路を知らない。探せば出口くらいはあるだろうが。そう漏らせば、「出口を探したこともないのかよ」と赤き竜が目を見開いたから、笑いたくなる。だって、ここから出てしまうわけにはいかないだろう、俺は。罪を犯した。罰を受けている。どうして逃げ出すことが出来ようか。
天司長の意図は俺には分からない。だから、思考を放棄する。ただ与えられた空間で、与えられた彼女と、与えられたものに囲まれ、与えられた木を育てる。漫然と生きるには打ってつけだっただろう。無為な日々はやがて俺の呪いの輪郭をぐずぐずに溶かしていって然るべきだ。彼らにはそんな俺がどう映ったのか。
半ば投げやりにも思えたのだろう俺の態度に困惑した赤き竜の隣で、感情のこもった瞳で俺を見つめていたのは、特異点ではなく蒼の少女の方だった。
「……どうして嘘を吐くんですか」
俺を見つめるその双眸に、どうしてか、俺はのことを思い出している。
が俺に向けた「一緒に行ってもいい?」と言う声が、俺の耳には今でもこびり付いているのだ。
未練がましく。いつまでも。