あの不可解な物音は包丁の音だったらしい。スープを作っていたのだと言う彼女は、到底一口サイズとは思えない野菜の塊が混入したボウル皿を俺に差し出した。野菜の隙間から僅かに見える液体が、かろうじてそれがスープであることを許しているといった様子だったけれど。
 普通のスープ皿はないのか。と目で訴えるが、彼女はこっちが馬鹿馬鹿しく思えてしまうほどに期待に満ちた目をしていたから、言葉を呑み込む。スプーンで掬った人参は見るからに生煮えだったから、どうにかスープの方だけ舐めた。あまりの味の濃さに、間違っても啜らなくて良かったと思う。



「……君、味見はしたのか」

「してない」

「だろうな」

「でも野菜は自信作! 頑張って育てたんだよ~! 初めての農業! ってかんじ!」



 そう言われなければそのままスプーンを置いたところだった。育てたのか。どうも育ちすぎてる気がするが。



「…………」



 奥歯でほとんど生の野菜の塊を噛み砕きながら、寝起きにこの洗礼は厳しいなと考える。消化不良で吐いては困るから、残りはまだ本調子ではないことを理由に残した。「勿体ないな~」と俺の残したものを躊躇わずに口に入れた彼女は、顔を顰めてから「う~ん今まででも最高レベルにまずいね」と全く申し訳ながる素振りも見せずに呟く。
 それでも何とか全部食べきってしまうと、モスグリーンの大きめのコートの袖を捲りながら、彼女は皿を流しに運んで洗い始めた。栗色の長い髪が煩わしいのか、一つに結んで。その後ろ姿を眺めながら、目覚めたときどこか白んでいたはずの景色が、徐々に鮮明に色を落とし始めていることに気が付く。
 小さな家屋だった。ダイニングキッチンからは外へと続く扉がある他、俺が眠っていた部屋と並んでもう一つ扉がある。あの扉の奥は彼女の部屋なのだろうか。二人で過ごすには恐らく十分な広さの家の中を、彼女は最早勝手知ったる我が城というように動き回る。
 小さなテーブルに向かい合うように設置された椅子は二つ、食器棚のガラスの向こうには皿がそれぞれ二人分、……しかもスープ皿が見える。やっぱりあるんじゃないか。毒づく様にそう思っていると、水の音が止まった。
 手に着いた水滴を払いながら振り向いた彼女は、俺を見て笑っている。目を細めて、唇を噛みしめて、何と言うか、思い切り破顔したいのを堪えているかのような表情だった。
 へへ、と照れたように、その人は笑う。



「起きてくれて良かった」



 俺は、敢えて何も聞かない。
 結んだ髪を解きながら、彼女は向かいの椅子に座る。一度俺の前から消えたはずの彼女。失った日々に見せた笑顔と何も変わらないそれを、彼女は浮かべている。



「また一緒にいられて嬉しい、サンちゃん」



 だから、やっぱり彼は、何も分かっていなかったのだと思う。
 俺は彼女の言葉に耳を傾けながら、窓の外を見た。雲の一つもない空の下、似たような家々が立ち並ぶそこに人の気配は希薄だ。伸びた雑草や、木が作る影、畑に植えられた野菜の一つ一つに至るまで、俺は既視感を覚えている。生きる者の深層心理に眠る共通概念としての、静穏な世界。彼はそれを作ったのかもしれない。
 抗う気などなかった。これが俺に与えられた罰ならば、それを受け入れるだけだ。彼の考えは、俺ごときには分からない。だけど誰もが彼を「正しい」と認めるのならば、間違っているのは俺の方だ。
 俺はこの罰と共に生きよう。
 言葉もなく微笑みを返した俺に、彼女は目を細めた。







 時間の概念も、様々な物理法則すらも曖昧な世界だった。
 生活をする上で最低限欲しいものは、欲しいと願う前にそこにある。俺が目を覚ます前からここにいたらしい彼女は慣れたもので、「魔法ってすご~い」と間の抜けた笑顔で手を叩いた。疑念を抱くことを放棄しているようなその姿を見て、恐らく彼女から見たら俺もそうなのだろうと、不意に思う。
 彼女は野菜を育て、立派に成長したそれらを調理の段階で台無しにするから、いつからか俺が料理をしてやるようになった。本来食事なんて必要ないが、あまりにも退屈だった。そうしていなければ、間が持たなかった。しかしそれも慣れればなんてことはない。包丁の扱いにも、味付けにも、困ったことは一度もなかった。彼女が幾度も失敗するからそういうものなのかと思ったが、こればかりはセンスの問題だろう。



「……さすが、『食べる係』は違うな」



 手伝いを買って出た彼女が芋の皮むきにすら苦戦する様子をそう皮肉ってやれば、彼女は唇を尖らせて、「得手不得手があるんだよ~」と言い訳する。「では君の得手とはいったいなんだ?」と尋ねれば、うーんと考えて、「周りを明るくするところ?」と、かつてと似たような言葉を口にするから、俺はそれにいちいち傷つくけれど、結局は気づかないふりをした。身体に出来た刀傷など、舐めておけばやがて治るだろう。それが何年先か、何十年後かは分からないけれど。
 彼女は変わらずに溌剌としていた。明るく、喧しく、当然のように一日に一つだけ質問をする。そのどれもが、どうだっていいくらいに当たり障りのないことだった。
 あの花の名前は何だったか、野菜の収穫のタイミングをどうするか、俺が育てている珈琲の木の生長の過程について。彼女は一度も元素が何であるか、星晶獣が何であるか、天司とは何か、などとということを口にはしなかった。



 中身のない箱をただただ重ねていくだけの無為な日々だった。くだらない飯事を俺たちは何年も何十年も繰り返す。時間の概念がないここで、それを言うのはナンセンスな話なのかもしれないが、それでも俺たちはただただ決まった円の周囲を回り続けていた。徒労と感じることはない。俺の隣には彼女が居て、彼女は相変わらずへらへらと笑い、モスグリーンのコートの袖を捲り上げながら土仕事をする。俺は苗を植え、木を育て、珈琲の実を収穫し、焙煎し、抽出し、淹れる。彼女は俺の、その手を見るのが好きだと言った。俺は彼女に珈琲を勧めたことはなかったし、彼女も飲みたいとは口にしなかった。いい香りだね、と、すかすかの声で言った。
 マグカップは、他の食器と同様に、二つあった。だけど彼女がそれに手を触れることは、ただの一度もないままだった。
 まるで空虚な日々だった。俺の罪を共に背負った彼女は、その虚無をどう消化していたのだろう。



 ある日彼女が流し台の上にある棚を開けたとき、乱雑に入れていたらしい調理器具が雪崩を起こした。咄嗟に、彼女の頭上に今まさに落ちようとしていた鍋からその頭を守ってやれば、彼女はぐらんぐらんと音を立てて床に転がる鍋に目線をやって、それからぽかんとした目で俺を見上げた。



「あっぶな~い……い、今のわりとやばかったよね?」

「……割と、なものか。君は片付けもまともにできないのか?」



 手の甲の痛みは、あっという間に引いていく。それはこれが、現実世界とは物理法則を異にしているためだ。だから、本当は彼女のことだって守らなくても良かった。分かっていたはずなのに、身体が咄嗟に動いてしまった。思わず舌打ちしそうになる。
 だけど、彼女は笑う。俺を見上げて、目を細める。



「サンちゃんがいてくれて良かったあ」



 この日々が、いっそ俺に執着を与えてくれたら良かった。 
 だけどそれでは、罰にならないか。



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