結局理解されたことなんてただの一度もなかった。
 驚くべきことに、俺がパンデモニウムを脱してからの行動を彼はきちんと把握していて、それで尚放っておいたらしい。言い訳はなんだったか、そう、俺が抜け出した後の檻が再び開かぬように押さえていた、だったかな。おかげで俺の計画は頓挫した。特異点のために少女と竜が力を発動すれば、大地は鳴り、再び檻は開くと踏んでいたのに。パンデモニウムは彼のおかげで開くことはなかったのだ。さすが、完全無欠の天司長様だ。彼の考えは全て正しい。いつだって。俺の周到な計算や準備など、彼を前にすれば児戯と大差ない。そう思うと、笑えてくる。
 各地の元素の濃度を調べ、四大天司の居場所を正確に割出し、確実に羽を奪えるように計算してから仕掛けた。ウリエルの羽を奪ってしまえば後は玉を突く様に物事は呆気なく転がって行って、島の崩落により全空中が混乱するさなか、アウギュステの商工会議所に集まった商人の連中を叩き、顕現の隙を見計らってラファエルの羽を奪った。警戒をしていたミカエルはなかなか骨が折れたが、順調にいっていたのだ。そこまでは。予定は狂うものだと言うが、多少、焦っていたのかもしれない。ガブリエルの羽を奪うのに失敗した。今となっては、あの頃の自分が何を考えていたのかも曖昧だ。
 根幹にあるものを忘れるほど愚かではない。俺は彼を憎んでいて、一矢報いたかった。
 それはやっぱり叶うことがなかったけれど。



「私も同罪だ」



 空の世界に災厄を齎した俺を前にして、彼はそう言った。
 二千年の時を経て見えた彼は、泣きたくなるほどに神々しかった、その瞬間に本当は分かっていたのかもしれない。自分の呪いは何の意味も成さないのだと。だって、彼が俺を本当の意味で理解してくれることなんてない。必要とすることなどない。俺は結局彼の代替物で、そしてその代替物が彼のために働くことは恐らく今後一切ないのだから。



「あれは何の役にも立たん」



 ルシフェル様と同じ顔で、同じ声で、彼は言う。それに笑えるほどに傷ついたのだと言ったところで、理解してくれる人はいないだろう。
 ああ、だけど、と思う。
 彼女だったら分かってくれたのかもしれない。それは悲しいね、なんて眉を寄せながら、少しも深刻にはならない口調で言ってくれたかもしれない。俺は、彼女に俺の話をもっとすべきだったのだろうか。いや、ちがうか、すべきだった、とかそういうのではなく、俺は本当は彼女に話を聞いてほしかった。受け入れてほしかった。復讐をゆるしてほしかった。無知で無欲で、どんな時でも笑っていた彼女が傍にいる間だけ、俺は安寧を知ったのだ。
 いなくなってから気づいたって、遅いか。
 俺がアウギュステの商工会議所に集まっていた商人連中に審判を下した日、彼女は俺の前から姿を消した。
 彼女が眠っていたはずのベッドは、まるでつい先ほどまで誰かが眠っていたとでも言わんばかりにシーツがずれていたし、毛布は畳まれていなかった。彼女らしくなかった。あの子は、ああ見えて躾けられていたから、部屋を出るときはいつもシーツを整えていたのだ。攫われたか、何かあったか、様々な憶測が脳内を飛び交って、だけど陽が沈むころ、俺は察した。彼女は元の世界に帰ったのだ。
 もしも君が帰れる瞬間があれば、見逃さずに帰れと言ったのは俺だ。彼女はきっとそれに従ったに過ぎない。彼女の言う「階段」を、きっと見つけたのだろう。振り向かずに帰ったのだろう。料理が作れて、人を見た目で差別しないことを教えてくれて、彼女にと名付けた父親の元に。それの何が問題だと言うのだ。だって世界は終わるのだ、俺が終わらせるのだ。ならば、元より異世界人である彼女が帰ることに、何の間違いがある。
 が身体にかけていた毛布を引き寄せながら、俺は自分にかかっていた最後の枷が外れたことに気が付いた。もしも彼女に復讐を止められていたら、もしも彼女がずっとこの世界にいると、一人は寂しいでしょ、と、もう一度言ってくれていたら、もしかしたら、何かが違っていたのかもしれない。だけどそんなのもう、机上の空論だ。
 最後の枷がなくなった今、俺はもう、どうなったって構わないと、半ば投げ出すように思ったのだ。



 だから、俺の計画が失敗したとき、彼の手によって阻まれたとき、俺は許してもらわなくて良かった。
 同罪だなどと言ってもらわずとも、共に罰を受けるなどと言ってもらわなくても、良かったのだ。



 果たして俺は再び彼の、ルシフェルのコアで眠ることになる。
 視界は白んで、揺蕩うような感覚を残して、そうしてどれくらい眠っていたのだろう。一瞬だったような気もするし、何年、何十年も経っていたような気もする。
 目を開けたとき、俺はベッドの中にいた。ことことという聞き慣れない音が扉の向こうから聞こえて、身体を起こす。四肢は随分と重かった。思考は定まらなかった。自分が何をしでかして、どうしてここにいるのかも分からないほどに。
 ごと、ごと、がつ、という、凡そ生活音とはかけ離れた物音が隣の部屋から聴こえる以外は、実に平凡な家屋の中に俺はいた。棚に並べられた見覚えのない本、窓際に置かれた花瓶にささった花は、生けられて随分経つのか、花びらの端が茶色く変色して萎びている。窓の向こうには中途半端に植えられた野菜が見えた。どこかの田舎の村のようだと思う。こんな村を、いくつか見てきた。彼女と共に。
 我がコアに眠れと、彼は言った。そう思えば今俺がいるこの空間の正体は分かりそうなものだったが、俺は思考を放棄する。ここにいることが罰だと言うのならば、甘んじてそれを受け入れようと、ぼんやりと考える。だって、彼のすることはいつだって正しい。俺ごときには理解できない。結局、隣に立つことなどできないのだ。二千年を経ても尚。
 その時、隣の部屋から聴こえていた不規則な音が止んだ。
 ぱたぱたと軽快な足音を立てて、誰かがこちらに向かってくる気配を察する。一瞬だけ、身構えた。ノックもないまま、ドアノブが無遠慮に回される。開かれた扉の向こうに立っていた人物を見て、俺は息を呑む。



「……あれ?」



 長い、栗色の髪をしていた。
 大きな黒い瞳をぱっと見開いた少女は、家の中だと言うのにいつかのモスグリーンのコートを羽織ったまま、俺を見ていた。ぽかんと間抜けに口を開けて、それからどれくらいの時間が経ったか。



「……サンちゃんっ!」



 彼女は、驚き半分、喜び半分の表情をその顔に浮かべて、やがて俺に飛びついた。小柄な少女とは言え、弾丸のように身体に体当たりをされてはたまらない。壁に頭をぶつけながらも、それを受け止める。彼女は、俺に抱きつきながら「サンちゃんだ、やっと起きた、おはよう、おはよう!」と頭の悪そうな言葉を並べている。その旋毛を眺めながら、俺は、ああ、と思うのだ。
 ああ、なるほど。
 これが罰か。
 この時彼女が俺の腹に浮かんだその言葉に気が付いていたのかどうかを、俺は知らない。



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