「この夢のことを私は目が覚めると忘れちゃうみたいなんだけど」



 ふわふわと靄に浮かびながら、私は姿も見えぬ相手に問いかける。



「覚えておくことはできないのかな?」



 その人は、私の前に決して姿を現さなかった。ただ、海鳴りのような音を携えて、彼は私の脳に直接語りかける。「それはできない」私が馬鹿だから? と尋ねれば、その人は否定も肯定もしなかった。そんなの、頷いているようなもんだ。でも言いたいことは分からないでもない。きっと彼が危惧しているのは、私がここでの会話を覚えていることではなくて、サンちゃんに隠せないことだから。馬鹿な私は隠し事ができないのだ。
 私はこの世界にやってきてから、何度もこの人と話をしているのに、目を覚ますと忘れてしまう。どんなに覚えておこうと頑張っても無駄なのだ。これはきっと、ある種の魔法がかけられているに違いない。



「サンちゃんは、復讐するって言ってたよ」

「ああ、知っているよ」

「聞いてたの? あ、もしかしてサンちゃんが復讐したいのってあなた?」

「君は本当に勘が良い」

「わは、そうでしょ、直感で生きてるみたいなところがあるからね!」



 褒められて嬉しくて、私は無重力の靄の中で膝を抱えてくるくる回って見せる。乾いたような笑いが聞こえた気がした。
 こんなに優しそうな声の人に復讐したいだなんて、サンちゃんは何か思い違いをしているのかもしれない。だって、この人はサンちゃんが復讐しようとしていることを知っているのだ。それは、彼がサンちゃんを良く見ていなければわからないことだと思う。きっと、何かが少しずつずれちゃっただけなのだ。



「仲直りしてあげてよ。きっとサンちゃんもそれを望んでいるんじゃないかな?」

「……君には彼の考えていることがわかるのか?」

「いや、全然わかんないけど」

「そうか。私にも分からないんだ」

「そっか~。難しいよね。何かいっつも難しい顔してるしさ」



 眉間に皺を寄せて、唇を引き結んで、笑うときはいつもどこか侮蔑の色を込めている。あれじゃあきっと疲れちゃうよ。考えていることまでバレてしまうのか、口に出してはいないのに、彼は「そうだな」と同意した。低い声音だった。難しいのだ、だって、彼は自分の本音を皮肉で隠そうとするところがあるから。私の脳内をきれいに掬いあげながら、彼は引き受けるように続ける。



「だからこそ、理解するべきだった」



 それは私への言葉と言うよりは、まるで自戒のようだった。
 私はそれを、ぼんやりと聞いている。くるくると回りながら、機能しない三半規管は私の目を回さない。
 理解するべきだった。というと、少し大仰な気がする。だけど、口にはしなかった。この人は、きっと私よりもずっと長い間サンちゃんのそばにいて、ずっと長い間、サンちゃんのことで胸を痛めていたのだろうから。



「私にとって、彼の無垢な言葉が安寧であったように、彼にとっての君もまたそうであったのだと思う」



 むく、あんねい。
 聞き慣れない言葉に首を傾げるけれど、彼は相変わらず、私に言っているわけではないらしい。



「君は、彼の心を癒してくれた。残念ながら、彼を止めることはできなかったが」

「?」

「君の存在は、しかし、いつか彼にとって何か変化を持たらす可能性がある。だが、それは今ではない」



 首を傾げすぎてほとんど肩に耳が触れてしまった、そのとき、それまでの無重力が嘘のように私は地面に落下する。視界を覆っていた靄が徐々に晴れたとき、しかしその人はやっぱりどこにもいなかった。
 代わりに目の前に現れたのは。



「え、なにこれ」



 それは、鳥居だった。
 その先に目線をやれば、恐ろしいほどに美しい石畳でできた階段が続いている。ルーマシーにあった瓦礫とは明らかに違う、白い御影石だ。見覚えがある。私はこれを駆け上ってこの世界にやってきたのだから。
 私の問いかけに、彼は静かな声で答えた。



「協力してくれてありがとう。だが、もう充分だ。君は元の世界に帰りなさい」



 その口調はまるで、何もかもを超越したような色を含んでいた。私は彼がどこにいるのかも分からず、辺りを見回す。180度、ではなく、ぐるりと見回すときは、360度。これも、サンちゃんが私に教えてくれたことだ。だけどここに彼はいない。



「帰るってなに? この階段、下りていいの?」

「あの時は何も考えずに駆け上ってきたのに、下りるときは躊躇うのか?」

「え、いやだって、下りたら」

「大丈夫」



 言い聞かせるような言葉だったけれど、その声に、感情は伴っていなかった。彼は「サンダルフォンのことは、私に任せなさい」と、そのとき初めてサンちゃんの名前を口にした。私が覚えられなくって諦めた、長い彼の名前を、この人はきちんと呼べる。当然のように。
 そのとき、空中に美しい球体が浮かんだ。
 何の歪みもないそれは、まるで全てにおいて、大きさも、表面の質感も、何もかも、正しさを主張しているように思えた。球体は、シャボン玉のように私の頭上に広がっていく。その中に、私がこれから捨てていく、空の世界が映しだされる。
 悲鳴が飛び交っていた。良くわからない小さな何かに襲われる人々、意識を失っているらしい屈強な男性の背中には、何かをもぎ取られたような痕がある。その景色から、私はそこが、彼と行ったルーマシーという島であることを理解した。崩落する島々、逃げ惑う人、武器を持ち戦う人、フードを被ったサンちゃんが、羽の生え、頭に輪を乗せた、結晶体のようなものを引き連れて人々を襲わせている。その顔が、私にはどうしても、泣き出す寸前のそれのように見えてならないのに、私はもう彼の傍には戻れない。



「サンダルフォンの罪は、私も共に引き受ける」



 彼の言葉を以てして、ぱちん、と音を立てて、世界を映していた球体が一斉に弾けて消えた。
 どこを見たらいいのか、分からなくなる。全てを奪われてしまったような気になる。私は鳥居の奥に続く階段を見下ろした。私の生まれた、私の世界。私はあの夜、こちら側に引きずり込まれた。だけど、もう用はないと彼は言う。それが酷く勝手なことであるように思えるのに、私の喉は張り付いて、まともに言うことを聞かない。
 お父さんの顔が、脳裏を過ぎるのだ。二人きりになって、それでも家事も仕事も一手に引き受けてくれた人。私はお父さんを怒らせてしまった。私は私の軽率さを謝らなくてはならなくて、そのためにはいつまでもここで立ち尽くしているわけにはいかなくて。その道を、この人は用意してくれている。着ていたコートは、いつの間にか樟脳のにおいが消えていた。
 


「彼に言伝があるのなら、一番いい形で伝えよう」



 協力してくれたことを、感謝する。
 彼は最後にそう言った。私は、その人になんと伝えたのだろう。
 覚えていないのだ。何も。何も、何も何も何も何一つだって、私は覚えていない。
 逆再生される。脳だけでなく私を形成した内臓が、皮膚が骨が血が、わたしの元素たちが、全て引きずられるように巻き戻っていく。固いベッドの感触、真っ赤な毒きのこ、一日にたった一つだけ質問を受け付けてくれた気難しい人、サンちゃん、剥製を思わせるあの茶色の美しい羽、初めて抱きかかえられて空を飛んだ時の、滲んだ夕陽、全てが、私の中から弾けて消えていく。「もしも君が帰れる瞬間があれば、見逃さずに帰れ」そういうんじゃないんだよ、ねえ、私は突き落とされる。鳥居から背を押される。階段の二段目で足がもつれて、五段目で耐えられずに転んだ、受け身を取ったのは八段目、十段目からは転げ落ちるだけだった。そうやって転がりながら、私はいろんなことを忘れていく。天司とはなにか。元素とは。空と星。はざまに産まれたひとのこと。すべて、すべてを。



 もうあの人の名前もおもいだせないのだ。
 私に手を差し伸べてくれた人の顔が、もう白んでどこにもない。
 
 






 目を開けると、空が朝焼けに染まっていた。
 スマホがないので時間が分からないけれど、空気が冷たい。どうやら朝になってしまっていたらしい。
 しかし私はこんな路地裏で一体何をしているんだろう。場所は分かる。小学校のときの通学路、昔はお酒屋さんだったおうちの裏だ。冷え切った身体にお父さんからもらったモスグリーンのコートを羽織って、私はお父さんと喧嘩をして飛び出してきてしまったことを思い出す。
 そうだ、あんな男とは別れろって言われたんだっけ。付き合って一カ月の、私に初めてできた、年上の彼氏だった。確かにあの人は年の割に子供っぽいし、怒ると口がものすごく荒くなる。でも欠点なんて誰にでもあるし、と思ってずるずる付き合ってたら、二人で歩いているところをお父さんにばったり出くわしたんだ。挨拶もまともにできない二十代なんて碌な男じゃないって、お前の価値を下げるなって。あのときは反感しか覚えなかった言葉が、ほんの少し時間を置いただけですとんと腑に落ちるような感じになるから不思議だ。
 家に向かって歩いている途中で、車道の隅で猫が死んでいるのを見つけた。この辺は狭いのにスピードを出す車が多いから、小動物が犠牲になりやすいのだ。少し前も、その彼氏と鴉が死んでいるのを見かけたことがある。
 私はその子の顔をじっと見る。まん丸い、黒い目は、まるで何かを後悔しているように見えなくもない。すぐ近くの歩道の脇に座り込んで、爪で土の部分を掘り起こす。小石と雑草とだんごむし。私の掘った穴はやがて丸く口を開けて白んだ空を見つめていた。ちょっと触るのに躊躇したけれど、あとで手を良く洗えばいいやと思って猫の死骸をそこに埋める。
 死後硬直の始まったかたい身体に土をかぶせてあげながら、私は胸の中に空洞があることを知る。その穴が、吐き気を催すほどに痛んでいることも。ねえ、そう声をかけた。掠れた声は、もう本当に届いてほしいひとにはきっと届かない。



「お前も後悔してる?」



 だけど私は一体何を悔やんでいるのだろう。
 猫の眼球は、土に埋もれた。



 - back -