私たちがあの木々で覆われた島を出た日を以てして世界中に異変が起き始めたことは、街ゆく人々の会話から理解していた。
浮遊する島々が、突如として空の底へと落下し始めたらしい。人が住んでいないような小さな島々ばかりだったけれど、それでも島の落下それ自体は数百年に一度あるかないかという頻度であると言う。今はまだ大惨事には至っていないけれど、それまで安穏とした生活を送っていた中、いつ足元が崩れて崩落するか分からないという状態は人々を恐怖に陥れるには充分だった。
行く先々の島で、噂は広がっていく。このままこの島も落下するのでは。あそこの島は避難準備を始めたらしい。だけど、安全な場所が空に存在するのか。人々の不安に煽られて、私はサンちゃんの服の裾を引いた。
「ねえ、島が落ちてるの? やばいんじゃないの?」
「そうらしいな。まあ、異世界人の君が心配するようなことではないさ」
そんなことはない。だって、帰る手段が見つかっていない以上私はこの世界の住人と言っていいはずだ。落ちるときは一緒に落ちる。サンちゃんの理論が受け入れられなくて、「異世界人だって落ちたら死ぬでしょ!」と彼の背中を叩く。サンちゃんは、低い声で小さく呻いた。この人の背中には、私が見た幻でなければ、今三枚の羽がある。普段の移動の際は、隠しているようだけれど。
だけど私はそれらを関連付けることができなかった。こればかりは私が馬鹿だからとか、そういう問題じゃないと思う。思いつくはずがないのだ。自分の隣にいる人が、まさかこの災厄を起こした張本人だということ。この背にある彼のものではない一枚の羽が、島の浮力を担う力を持っていたということ。そしてそれを、彼が奪ってきたということを。
私はサンちゃんが優しいことを知っている。一人ぼっちの私に手を差し伸べてくれた。馬鹿な私に呆れながらも根気強くいろんなことを教えてくれた。だから私は信じていたのだ。いや、そう言うと語弊があるか。私は何も疑ってなんていなかった。彼の個人的な復讐が、この世界の終末に繋がるものだったなんて、思いつきもしなかったのだ。
「……君は本当に加減を知らないな」
背中を叩かれて咽たサンちゃんが私を振り返る。その瞳が僅かに滲んでいることを私は認めておきながら、何も言えずに空気だけを呑み込む。
土の元素が消失したことの影響は少しずつ全空中へと広がり始めていた。
他の四大天司たちは、とうに異変に気が付いているだろう。あれだけ均衡を保っていた元素の配列は、呆気なく崩れ去った。島は崩落し、人々は慌てふためく。大半の人間たちは取るに足る存在ではないけれど、厄介なのが全空に膨大なネットワークを持っている商会の連中だ。情報を交換し合い、連携してこの災厄に立ち向かおうとする彼らは、各勢力へ協力を仰ぐだろう。その連絡系統は、俺の審判に影響を与えかねない。スピーディに、効率よく処理をしなければ。
「……」
ベッドに腰掛けながら、の間抜けな寝顔を見つめる。
栗色の、ゆるく癖のある長い髪の毛が半開きの口に入って、益々アホ面に見えた。彼女はむにゃむにゃと寝言を言いながら、寝返りを打つ。その旋毛の根元は、彼女の生来の色なのか、黒い地毛が見えた。彼女がこの世界にやってきて、俺の後について歩くようになってからの時間の流れを思わせるのに、それは充分すぎた。
は結局、元の世界には戻らないのだろうか。
そもそも異世界人がこちら側に呼ばれる原理というものを俺は知らない。何か手助けしてやれれば良かったが、俺に出来ることなど何もなかった。精々、一緒に居てその孤独を埋めてやることくらいしか。そう思いかけて、は、と嘲笑めいた笑いが漏れる。何が孤独だと、腹の底でくり抜かれた塊が膝を抱えて笑っている。
俺はこれから世界に審判を下す。
かつてザンクティンゼルで突如顕現した「大いなる存在」、その咆哮が世界を揺らし、檻の封印を解いた。その原因となったのは、赤き竜と蒼い髪の少女の邂逅だ。だから、彼らが災厄を起こした原因であると広めるのは、何も間違ってはいない。事実彼らのおかげで、俺はパンデモニウムから脱出できたのだから。
竜と少女と共にいる特異点は、進化を加速させる役割を果たしている。彼らはやがて俺に辿り着くはずだ。俺の狙いは、パンデモニウムを解き放つこと。再び大いなる咆哮が成り、大地が鳴動したとき、それは成就されるだろう。そして、世界は混沌を迎える。
俺の思惑を知っても、彼女は俺に着いていくと笑うのだろうか。
俺が多くの命を奪っても、それでも「一人は寂しいじゃん」と、彼女は言うのだろうか。
立ち上がり、彼女のベッドに膝をつく。
その頬に手を伸ばしかけて、躊躇って、けれど、最後には触れた。傷一つない、しっとりとした女の肌だった。
「もう少し、眠っていてくれ」
アウギュステの商工会議所で、多くのパイプを持った商人たちが集まって会議を開くという情報を掴んだ。特異点や蒼い髪をした少女たちが所属する騎空団と懇意にしているよろず屋もそこに来るとみて間違いない。あのよろず屋は世界の危機を彼らに知らせるだろう。やがて彼らは俺を止めにやってくる。そこで俺は、大地を揺らす。禁忌の箱を開けてみせる。
そうすればあなたは俺をもう一度見てくれますか。
そんなことを一瞬でも脳裏に過らせた自分に、思わず笑った。
これは刷り込みで、いっそ呪いに似ていた。
ならば彼女の俺への思いも、呪いと言って過言ではない。
「……行ってくる」
。その時初めて俺は、彼女の名前を口にした。例え呪いだったとしても、自分でも知らないうちに君に救われていて、執着していたのだと言ったら、君は笑うだろうか。