土の元素を司る天司であるウリエルは、他の四大天司と同じように島の浮力を維持するために二千年の間この世界を支え続けていた。
 ウリエルは大男で、その見た目からして分かる通りに他の天司と比べれば品性に欠ける部分がある。俺からしてみれば粗野なところがある男だが、しかし彼個人に恨みがあるわけではない。まあ、あの人ほどには、だが。役割を与えられた天司、という一点だけを突き詰めて考えれば、それは俺の憎悪を増幅させるには充分だった。
 復讐を、しにきたのだ。
 ルーマシー群島の奥地にある研究施設は、管理するものを失い、雨風にさらされ、長い年月を経て朽ち果てていた。白く、閉ざされていたはずの壁は崩れ落ち、瓦礫の上を覆うように草花が伸びている。期待を裏切ることなく、はそれに足をぶつけた。剥き出しの脛は擦りむいたらしく、痛みに敏感な異世界人は大袈裟に騒ぎ立てるから煩わしいことこの上ない。
 膝をついて、崩れた瓦礫の山に座った彼女の傷の具合を視認する。「血も出ていないのに騒ぐな鬱陶しい」そう吐き出しながら、簡単な再生魔法を施してやると、彼女は目を見開いて「わはっ」と笑った。魔法みたいだね、って、こんなのは星晶獣ならば誰でも扱える力だ。いちいち驚くことでもなんでもない。
 この付近にウリエルがいることは間違いないだろう。星晶獣の気配は勿論として、土の元素の濃度が異様に濃い。俺はこれから、彼の力を奪う。コアのある羽を奪えば、ウリエルは力を失うはずだ。ただし、不意打ちを狙うとは言え多少の戦闘は避けられないだろう。そのためには彼女をここから先に連れて行くわけにはいかなかった。



「おい」

「ん~?」

「少しの間、ここで待っていてもらえないか」

「ん、いいよ、どれくらい?」

「……一時間か、二時間か」

「オッケー、探検しててもいいかな?」

「ここで待っていろ、と言っただろう」

「マジ……ショック……じゃあお昼寝してる、眠くなってきちゃったし」



 欠伸を噛み殺しながら言う彼女に、俺は顔色を変えないようにと意識する。
 彼女の言葉で言うならば、「魔法」をかけたのだ。再生と同時に睡魔が訪れる、簡単な魔法を。異世界人にはそもそも抗体がないのだろう。彼女は俺が思った以上に分かりやすく術にかかっていた。



「君はこんなところでも眠れるのか……図太いな」

「へへっ」

「褒めてはいない」



 眠っていてくれればいい。俺の所業を知らないままでいてほしい。例え目の当たりにしたところで何一つ理解できなくとも、それでも、俺の復讐を、彼女には見せたくなかった。何を甘えたことを言っているのだろう。これから先、そんな自分の願いとは関係がなく、彼女を巻きこむことは自明の理であったのに。だからこれは、単なる延命措置だ。臆病な俺のための。
 照れたように笑った彼女を、わざと冷ややかに見つめてから、俺はフードを被った。彼女に背を向けて、ウリエルの気配が濃い研究施設の内部へと足を向ける。
 ウリエルの羽を奪い、彼が力を失えば、空の世界に均等に張り巡らされた元素の均衡は崩れることは想像に難くない。世界中に影響が出始めるまで、そう時間はかからないだろう。四つの元素のうちの一つが消えれば、島を支える浮力はバランスを崩す。元素の総数が少ない小さな島ほど影響は大きいはずだ。人も暮らせぬような未開の島から、順に空の底へと落ちていく。それが少しずつ広がっていけば、やがて世界は混乱する。きっと彼は、それを見るはずだ。世界を守り続けた彼なのだ、この終末の始まりに、動かないはずがない。
 そうしたら、俺は。
 


「サンちゃん」



 不意に、背後から声をかけられた。
 続けて「いってらっしゃい」と言われたとき、息が止まったのは何故だろう。俺は振り向けなかった。言葉を返すこともできなかった。彼女のように、手を振ることすらも。
 は、と短く息を吐く。の声が既に眠たげにまどろんでいたことにどこかで安堵した。
 俺は災厄を起こす。この世界を終わらせる。俺を認めてくれない世界など、滅茶苦茶になってしまえ。そして、どうか、どうか。



 後戻りなんて、二千年前からできなかったのだ。全てに絶望したあの日から。








 夢を見ていた。私は自分が何かに揺蕩っていたような感覚だけを持っていた。
 誰かと話をしていた気がする。サンちゃんではなく、行く街の先々で知り合うその場限りの誰かでもなく、私は誰かと話をしていた。男の人だったか、女の人だったかも定かではない。何を話したのかも覚えていない。だけど、不思議な充足感だけが確かにあった。



 サンちゃんに身体を揺さぶられたとき、私は血のにおいを感じていた。ちょっと前に見かけた、道路に転がっていた黒い物体を思い出した。猫かと思ったけれど、あれは鴉だった。鈍くさい鳥だな、と私の隣にいた人は笑った。私もつられて笑ったけれど、道路の真ん中で車の風に煽られて折れた翼を空に向けたまま動かない鴉を、お父さんだったらきっと埋めてあげたんだろう。
 だから、私がサンちゃんに向かって「お父さん?」と言ってしまったのは、寝ぼけていたせいだ。
 サンちゃんは私の顔を見て、僅かに目を見開いていた。馬鹿な私には読み取れない、複雑な表情をしていた。サンちゃんは怪我をしているわけではなかったのに、やっぱり血のにおいがした。服が少しだけ破れていた。髪が乱れていた。彼は「ふくしゅう」を果たしてきたのだろうか。それはもう終わったのだろうか。私は自分が彼を止められないことを知っていたから、どうか、もう彼が無茶をしなければいいと思う。



「……ふくしゅうは、終わった?」
 

 
 吐き出した声は、まだ柔らかく、不明瞭だ。
 サンちゃんは小さく首を振って、「いや、まだこれからだ」と、抑揚のない声で言った。彼の背中には、見たことのない色の羽が生えているように見えたけれど、それは瞬きをした瞬間、私の視界から静かに消えた。



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