ルシフェル様が死んだその瞬間に、本当は、私の箱は弾けて消えていたのかもしれない。
鍵はなくなった。私を縛っていた枷は溶けて、輪郭は滲んでぐずぐずになったのに、すぐに気が付くことができなかったのは、サンダルフォンと再会したその後の出来事が、あまりにも目まぐるしかったからだ。低い咆哮に地面が割れる。グランは私を落とさないようにその腕に力を込めてくれたけれど、「特異点たち!」と言う聞き慣れぬ声と羽音が降ってきたちょうどその時、バランスを崩して倒れかけた。私を支えてくれたのは、金色の髪と褐色の肌をした、見慣れぬ天司だった。
「っと、大丈夫かい? 特異点……と……」
長い金の睫毛に縁取られた瞳で、まじまじと見つめられて、思わず目を逸らす。続いて現れた彼女と瓜二つの天司が、自分たちに捕まれと言うその言葉尻から、どうやら二人はここから脱出するつもりであるらしいことが分かった。彼女たちは、グランを救いに来たのだろう。ならば、私はどうすべきなのか。縋る人はもうどこにもいない。
じわじわと私の中を侵食していく泥水に、私はまだ気が付かなかった。地面が鳴動する。すぐ傍に、恐ろしいほどに強大な何かの存在を感じる。ルシファーの遺産だと、導かれるように思った。ルシフェル様が私に予め植えておいた知の一つだった。
サンダルフォンの六枚羽に、天司の二人が驚愕の声をあげた。そこから示される可能性を瞬時に弾きだした彼女たちは、明らかに動揺を隠せてはいない様子だったのに、それでもすぐに脱出を指示する。迷う暇もなく、私は金色の髪をした天司に抱きかかえられた。「君は末っ子ということになるのかな」そこに、自力で飛べることすらもできない天司を侮蔑する色が少しもないことを、私は知っていた。なのに、声が出ない。どうしたらいいのか分からない。私はサンダルフォンの方を見ることができないのだ。ただ、彼と、ルシフェル様とが混ざり合ったような不思議な気配は、神殿を出ても尚寄り添うように私の傍にいた。
グランサイファーというらしい、グランたちの騎空艇に下ろされたあと、私はすぐに騎空艇の中へと避難させられた。黒い化物と彼らが呼称した存在は、カナンの雲を裂いた。禍々しいほどの巨大さを以て、それは目に映るもの全てを破壊するのだった。何かを呪い、憎悪するように。
甲板の上、それを見上げるサンダルフォンの横顔を、私は最後に見た。そこには静かな怒りがあった。私は、私たちは、彼のそんな顔を今まで見たことがなかったのだ。決心したような、全てを受け入れたようなその瞳に、だけどもうかつての諦念はなかった。私の知る彼は死んだ。彼の背に生えた六枚羽は、ルシフェル様の死を意味していたのに、私はそれを、美しいものだと思ってしまう。
グランの仲間に、騎空艇の中にある医務室に押し込まれ、私は怪我人の呻く声を聴きながら、部屋の隅に腰を下ろした。顕現による倦怠感は大分落ち着いたのに、震えが止まらない。艇への衝撃はそのまま伝わり、その度に悲鳴が響いた。祈りの声が、神を呼ぶ。
見様見真似で、隣に座った女性のように、指を組んだ。を模した指は白く、細かった。傷も、ささくれの一つもないけれど、爪は少しだけ伸びていた。そうして私に関わりのあるものが周囲からいなくなってようやく、壁を失い、どろどろと流れ出していたその感触に、私は初めて気が付いたのだった。
私の中には得体の知れない箱があって、それはいくらこじ開けようとしても無駄だった。それが今、開いているらしいのだ。私は指を組んだまま、目を見開いた。ああ、どうして、と、私は願うように思う。
声が蘇る。これは私の記憶ではなく、彼女のものだ。
「サンダルフォンの罪は、私も共に引き受ける」
ルシフェル様の抑揚の薄い声が、私の耳の奥から侵食していくように再生される。
有無を言わせぬその声に、なんで、と、そのときの彼女は思っていた。もう用事はなくなったから、突然元の世界に帰れと言われたのだ。いくら楽観的な少女であっても、例え、結論が彼女の中では揺らぐことがないと分かっていても、躊躇うくらいの時間は与えてやるべきだった。サンちゃん。私だった少女は彼の名前を口にする。サンちゃん、サンちゃん。目の前に現れた石畳の階段。これを降りれば元の世界に戻れることを知っていたのに、脚が言うことをきかない。
「彼に言伝があるのなら、一番いい形で伝えよう」
そんなもん、いっぱいあるにきまってんじゃん。そのとき、少女はそう思ったのだ。強く、腹が抉れるほどに、強く。
だって、彼女は嬉しかった。たった一人で途方に暮れていた時に、彼と出会ったこと。抱きかかえられて空を飛んだこと。彼の腕の中で落っこちる恐怖を覚えながらも、頬で風を切ることの心地よさを知った。知らない世界で彼と生きた。たったの三十日。けれど永遠のような日々。どんな質問にも答えをくれた人。共に歩いて、寝て、食事を摂った。あれは美味しかったね。あのお肉、なんだったんだろ。見たことのない種族がいっぱいいて、だけどみんな優しかった。一番優しかったのは、だけど、サンちゃんだ。復讐するなんて言ってたけど、たぶんあの人はそんなことはできやしない。たすけてあげたかった。止められないだろうなんて思わないで、その服の裾を引っ張って、やめとこ、っていってたら、何か変わったかな、私はもしかしたら彼を引き止めることができたんじゃないかな、やる前から、諦めていただけで、ねえサンちゃん。
私の中で壊れた箱からとめどなく流れる彼女の言葉は、私を侵食する。
サンちゃん、サンちゃんサンちゃん。
楽しかったよ、一緒にもう一回、空を飛んでみたかった、あの畝雲を、もう一度二人で見たかった。
どうしてきみの傍は居心地が良かったのか。
私には、その「願い」の答えが分かっている。
かつ、かつ、と、聞き慣れたヒールの音がする。
一際大きな歓声が鳴り止まぬ中、医務室からは一人、また一人と人が出ていく。この騎空艇が、脅威を脱したことは理解できた。だけど私は、動けなかった。自分の膝に額を押しつけて、丸くなっていた。「大丈夫?」と声をかけられたけれど、聞こえないふりをした。眠っているのだと思ってほしかった。そうしていれば、私の周りから人は居なくなった、そうして、そんな風に私のことを放っておいてほしかった。見つけてくれなくてよかった。だって私はじゃない。
「ここに居たのか」
その人は、そう言った。彼にしては、酷く落ち着いた声音だった。だけど、彼にしてはって、一体いつの彼と比べているのだろう。私と共にいた彼は、いつもこんな風に、抑揚のない声で話をする人だった。彼が感情を露わにするのは、私の前ではない、間違っても。
「怪我はないか? 顕現でエネルギーを消耗しただろう。特異点が、俺達にも部屋を与えてくれるそうだ。休むならそこで」
その手が私の肩に触れた瞬間、弾かれたように身を竦めた。まるで拒絶するような仕草になってしまったことを後悔して、顔をあげる。そこに居たサンダルフォンは、僅かに目を見開いて私を見ていた。
私は、彼にどう接したらいいのか分からずにいた。彼だって、私がにはなれないことを分かっているだろう。代替物になれない私は、いっそ彼の前から姿を消すべきだったのかもしれない。ルシフェル様から賜ったこの役割を、捨て去って。だってもう彼はどこにもいない。
サンダルフォンが見せる双眸に、私は酷く打ちのめされていた。責めて欲しかった。使えない女だと、もう少し上手くやれと、そうすれば私は、もう少し上手く彼女を演じられたのかもしれない。だから、どうしたらいいのか分からなかった。彼は何も言わない、この部屋に落ちる沈黙は痛いほどで、私は、は、と、短い息を吐いた。だから、今、言うべきだったのだ。
「言伝が」
ルシフェル様が、彼女があなたに残すことを許した言伝が、あるのだ。上手く説明できない私に、サンダルフォンが一度だけ瞬きをした。
だけど、声が出ない。彼女が残した彼へのメッセージが、あまりにもとりとめがなかったせいだ。私はそれを整理して、彼の前に一言一句違わず並べるべきだったのかもしれない。あれが楽しかった、嬉しかった、意味がわからなかった、こういうところが優しいと思った、あれは美味しかったけど正直あれはそうでもなかった。美しいと思ったものも、たくさんあったと。雑然とした思い出を、一つ一つまとめることは、私には難しかった。だって、私とルシフェル様があの壁の中で過ごした静かな三十日と、それは、あまりにもかけ離れていたから。
私はであることを求められたのに、どうしても、できなかった。欠陥品だった。だから、上手く言葉にならない。の思いを伝えられない。であるべきだったのに。吐き出したかった言葉のその代わりに、私の目から涙が落ちたとき、私は、なんて狡い女なんだと思った。サンちゃん、と、せめて、口にしてあげられたら、だけど、それすらもできない。
どうして君の傍は居心地が良かったのか。最後に残したの疑問の、願いの、その答えだけを、私は彼に差し出せる。
この言葉だけで、私の存在価値は、きっと終わりになるのだ。
「あなたは私の春だった」
どうか、一瞬でもいい。
私は彼女になりたいと、この時、初めて思った。
ぐ、と腕を引かれる。彼が見ている相手が誰なのかを私はだけど、知りたくないと思った。知らしめないでほしかった。どうか存在理由を与えてくれ、羽を与えられたばかりの天司長に、私は縋るように思う。何でもいいのだ。理解してほしい、言葉もないままでは、そんなの、狡いか。
私は彼に抱きしめられていた。
彼女を抱きしめながら、何て事をしているのだと思った。だけど、何もせずにはいられなかったのだ。腕の中でじっと息を潜めている彼女は、二千年前の俺と変わらなかった、同じだった。だって俺は、待っていたのだ、孤独を埋めてもらうのを。役割を与えてほしくて、俺を見てほしくて、そしてすれ違った。ならば、今の俺にできることはこれしかなかった。
彼女に名前を与えよう、俺は、そう思う、強く、強く。
新しい役割については、今すぐでなくていい、二人で考えていけばいいのだ、だって俺はそれを望んでいた、ねえ、ルシフェル様。
俺は彼女を救いたいんです。例えそれがエゴであろうと。
彼が、吐き出すように何かを囁いた。それが、彼が私に与えた名前であることを、私はじわじわと理解する。グランサイファーの医務室の天井は、血のような染みがあった。私はそれを視界の端におきながら、どくどくと鼓動をたてている自分の身体の音を聞く。頬に当たるその髪の感触がくすぐったくて、目を閉じた。一切馴染みのない、彼が吐き出したその名前を、私は口の中で一度だけ呟く。それから、ふふ、と笑ってしまった。とは似ても似つかない、小さな笑い声だった。だけど私は本当は、泣きたかった。
「へんな名前」
そう言ったら、私を抱きしめていたサンダルフォンは「なっ」と怒ったような声を出した。ルシフェル様とは似ても似つかない天司長だ。だけど、私は、彼を守りたいと思う。私を見てくれたこの人を、今度こそ。これは刷り込みではない。
私は今日、このモスグリーンのコートを脱ぐ。袖の短い、好きな服を着る。髪を切る。染めてもいいだろうか。本当は、もっと暗い色が好きなんだ。サンダルフォンは、好きにしろ、と私の頭蓋を子供にするように撫でる。その瞳の奥に、私ではない誰かはもういない。だけど、私たちはきっと彼女の影を抱えて、これから先も、永遠とも思える時を生きるのだ。
視界の端で解けていた靴紐に手を伸ばし、力任せに引き抜いた。