俺は四方を真っ白な壁で囲まれただけの、小部屋にいる。小さなガラスが嵌められただけの小窓から見える空の色が、俺に時間を教えてくれた。ここにいるようにと言われたから、俺はただ彼を待つ。時折、気まぐれのように現れる俺の創造主、俺に生と名前を与えてくれた、その人を。
小窓からの光が高くなり、やがて色を変えて沈んでいく。耳を澄ませば俺とは違う、役割を与えられた天司たちの声がする。頻繁にではなかったが、彼ではない者に呼び出されることもあった。白衣を着た、星の民の研究者たちだ。彼らは俺に、思い出すのも馬鹿馬鹿しいほどの実験を繰り返した。聴力視力握力体力、そういったものの検査は特別苦にはならなかったけれど、再生速度の調査なんかは最悪だ。爪を剥され四肢を削られ毒を飲まされ独房のような部屋にぶちこまれる。俺は焼けつくような痛みを堪えながら、彼のことを思う。俺の神。例えここが地獄でも、あなたに望まれて生まれてきたことだけが俺の救いだったのだ。
例え星の民があなたを作ったとしても、俺を作ったのはあなただ。俺が忠誠を誓うのは、あなたに対してだけだ。あなたのために俺は産まれた。あなたのために、生きている。
だからどうか、俺の役目を教えてほしい。
あなたのためなら俺はこの身体を投げ打とう、どれだけ微細なコントロールを要求されようとも、俺はこれから先あなたの進化を支えるために元素の均衡を保つことも厭わない。敵性異分子の排除のために、例え命を落としても。
あなたは俺の神だから。
「おーいサンちゃん」
皮膚に触れる不愉快な感触に意識を引き戻され、珍しく自分が眠っていたことを知る。
俺の頬を叩いていたらしい彼女は俺と目が合うや否や「やっと起きた。チェックアウトの時間ですよ~」と急かすようにシーツを引っ張った。そう言えば、昨日は彼女の稼ぎから宿に泊まったのだった。小汚いツインルームではあったけれど、彼女は久しぶりのベッドに喜んであっという間に眠ってしまった。その不細工な寝顔を何の感慨もなく眺めていたはずだったのに、どうやら気が付かないうちに俺まで眠ってしまっていたらしい。
天司は生命の維持のための睡眠を必要とはしない。食事と同じで、体力回復を速める効果はあるが、寝なくとも死ぬわけではない。怠い身体を起こしながら、だから、俺は本当は驚愕していたのだ。
「でもサンちゃんが私より寝坊するなんて、珍しいねえ」
ありえないのだ。
俺はパンデモニウムから脱出して以来、睡眠を取ったことなどなかった。彼女に会うまではそれが非効率以外の何物でもないように思えていたし、彼女が俺にくっついて歩くようになってからもその時間は欠かさず周囲の調査に充てていた。一分一秒たりとも無駄にしたくはなかった。それ以上に、俺は恐ろしかったのだ。
眠ってしまえば彼を思い出してしまいそうで。
「めっちゃいい顔して寝てたからさあ、もっと寝てたいかなって思って、起こすの躊躇っちゃったよ」
支度を終えた彼女がそう言ったとき、俺はどう答えたらいいか分からずに唇を引き結んだ。
もっと眠っていたかった。それに同意できる俺はもう、二千年前に死んでいた。
彼に逆らったことそれ自体を、俺は後悔はしていない。
後に「原初獣の叛乱」と呼ばれるそれは、星の民に反旗を翻した星晶獣たちの敗北という形で幕を下ろした。そこに参加した天司たちは、ファータ・グランデ空域の東端に存在する巨大な浮島、通称パンデモニウムに封印されることになる。
そこに俺がいたことは、何ら不思議なことではないのだ。
俺は彼に裏切られた。尊敬し、信頼し敬愛し、己の全てを投げ打ってでもいいと思っていた彼に、だから、だからこの刃を向けたのだ。
檻に閉じ込められ続けた二千年間、俺はやっぱり、四方を壁で囲まれた部屋にいた。研究所と違ったことは、その壁が白くなかったこと、小窓がないせいで時間の感覚が分からなかったこと、他の天司の気配があまりにも色濃かったこと。
彼の手によって生まれ落ちた日、赤子同然であったこの脳が初めて他者を認め皺を刻んだ瞬間、ぼやけた視界の奥にいたあの人の表情を思い出すことができていたら、果たして何かは変わったのだろうか。感情の苦い部分だけを抽出した液体を眼前に並べることなくいられただろうか。なみなみと注がれたカップに入るそれは、酷く濁っていた。彼が俺に淹れてくれたあの液体を思い起こさせた。何もかもが疎ましかった。だって、俺は役割が欲しかったのだ。あなたを支えるために。いや。
あなたの瞳の真ん中にうつるために。
「今日はどこに行くの? また空を飛ぶ?」
抜けるような晴天の下で、彼女は俺に振り向いて微笑みかける。
異界の少女は、その気になれば俺から離れて、どこかの街で居を構えることもできただろう。馴染みの騎空団とやらに入れてもらって、落ちる心配のない空の旅だってできたはずだ。だけど彼女はそれをしない。。一度も呼んでやったことのないその名前を、心の中で呟く。
「それが今日の質問か?」
そう言ってやれば、彼女ははっと目を見開いて、慌てたように「ノーカン! ノーカンで!」と両手で大きなバツを作って見せた。俺はその姿を見て、笑ってしまいそうになっていることを自覚する。手の甲で口元を隠しながら、空を見上げる。もう全ての準備は整った。
「ルーマシーに行くぞ」
俺が産まれた場所へ。
彼女と出会ってから、実に三十日が経っていた。
はその大きな瞳を丸くして、首を傾げながら俺を見つめている。