馬鹿と言われることには慣れている。
 実際私は頭が悪い。勉強もできないし、地頭、とかいうヤツも悪い。こればかりは遺伝だから仕方ないなとお父さんは笑うけど、私はお父さんを馬鹿だとは一度も思ったことがないから、その遺伝とやらは当てにならないだろう。私のお父さんは、身体が大きくて、声も大きくて、力持ちで、とても優しい。二人で並んで食器を洗うのが好きだった。私の隣に立つそのおおきな存在感に、私はいつも満たされた気持ちになっていた。
 私たちは二人きりの家族で、支え合って生きてきた。せめて自分のお小遣いくらいは自分で稼ぐって言ったらお父さんはちょっとさびしそうにしていたけれど、でも、そういう気持ちは大事だなって、ささくれだらけの手で頭を撫でてくれた。認められたようで嬉しかった。
 元々家事はお母さんに似て苦手だったから、私は代わりにたくさんバイトをした。ラーメン屋さんの店員って、けっこう楽しい。まかないは美味しかったし、バイト仲間や常連さんとも仲良くなれた。本当にちょっとだけ、生活費をそこから出そうとしたら断られたから、半分は貯金して、もう半分は好きなことに使った。可愛いスカートを買ったり、手が届かなかった化粧品を背伸びして買ってみた。私は着実に自分の世界を広げていった。家と学校の二つだけだった世界は、17歳の私にとって少し狭かったのだ、きっと。
 お父さんに怒られたのは、だから、初めてだったかもしれない。
 びっくりしたのと、悲しかったのと、それから反発心ってやつがちょうど私の中で三等分されて、たった三つの感情で私は爆発してしまいそうになった。財布もスマホも持たずに家を飛び出した。秋の夜だった。お父さんが若い頃に着ていたというモスグリーンのコートは時代が変わった今一周回ってお洒落で、友達にも褒められたから、気に入ってはいたんだけど、何もこんなときに持ってこなくても良かったかもしれない。だって、どれだけ着倒しても樟脳のにおいがとれないのだ。私はこのにおいを嗅ぐと、どうしても自分の家を思い出してしまう。
 怒られてしまった。私はそれがとてもショックだった。
 スマホを置いてきてしまったから、誰にも連絡が取れない。時間を潰すための相手は何人も思いつくのに、私はみんなの番号すらソラで言えないのだ。スマホがなければ一瞬で繋がりが断絶してしまうような関係に、私は縋って生きている。
 私は馬鹿だから、褒められればうれしい。可愛いっていわれたらうれしい。好きっていわれたら、好きになる。
 でも、それの何がいけないって言うんだろう。私の周りは私みたいな女の子ばっかりだし、カレシもとっかえひっかえしてる。私はそれを何とも思わないし、そんなにたくさんの人に愛されるだけの価値がある女の子と友人であることを誇りにすら思う。だけど、うん、そうか、それを馬鹿だというひとも、きっと世の中にはいるんだろう。
 時間帯に縛られることなく普段から歩き慣れていたはずの道は、その日、何故かいつもと違って見えた。どこが、とは明確には言えない。それはもしかしたら私の感情がいつもと異なる様相を呈していたせいなのかもしれない。私は努めて冷静になろうと自身の行動や思考を振り返っていたけれど、やっぱり感情は上手く追いつかなかった。どうやって帰ればいいのかわからなかった。だって、家を飛び出した私を、お父さんは追いかけてきてくれなかったから。
 スマホで謝ることもできない。誰かと話して気を紛らわせることもできない。時間が薬になるとしても、もう夜だ。このままでは補導されてしまいかねない。
 やっぱり帰ろうか、謝った方がいいのかな。でも、私は何を謝ればいいのだろう。
 歩きながら考えよう。そう思って、歩いてきた道を振り返ろうとしたその瞬間だった。視界の端に石畳の階段が映った。まるで汚れのないその階段は、夜だと言うのにやけに白んで見えた。月明かりのせいだろうか。人が三人手を繋いで歩けるほどの幅の階段に、引き寄せられるようにつま先をかける。見上げたその先に鳥居が見えた。幼い頃に、お父さんと、お母さんと三人で行った、田舎の神社に似ていた。
 覚悟もせぬまま、ほぼ、無自覚と言ってよかった。私は階段を駆け上っていた。目に見えない力に引き寄せられるように。進むごとに、私は自分の背が縮んでいくような錯覚を覚える。セーラー服を着て、ランドセルを背負って、膝に怪我をして、紙で作った冠をかぶって、いつしかその手にお父さんとお母さんのぬくもりがあって。小さな私は二人に手を繋がれて、真っ赤な浴衣を着る。柔らかな、おもちゃのような帯を巻く。お母さんが結ってくれた二つまげ、ゴムの飾りはプラスチックのうさぎだった。私はあれが好きだった。
 私は愛されていた。
 鳥居をくぐったその瞬間、私の脚はもうこの世界から離れてしまっていたのだった。



 サンちゃんに会えたのは、だから、とても幸運だった。
 私はきっとサンちゃんに会えなかったら、あの山の中でどうにもならずに死んでしまっていただろう。だって、この世界は不思議だ。魔物もいるし、車や電車は走ってない。何故か知らないけれど島は空に浮いていて、肌の色の違いなんかがちっぽけに思えるくらいにいろんなひとたちが住んでいる。知らないにおいにわくわくはした。でも、こんなところで、私は一人ぼっちでなんて生きられなかった。
 サンちゃんは最初、私を置いていくつもりだったみたいだけれど、きっと根が優しいのだろう。夜になってすっかり人気のなくなった街の噴水広場のベンチに座る私の前に、一度はいなくなったはずの彼は戻ってきた。ほとんど怒ったような顔で私を見下ろしていた。
 戻ってくるかもしれないと思ったけど、来ないかもしれないとも思っていた。だから私は、半分くらいは驚いていたのだ。



「……俺はもう行く」



 確かめるように、彼は私と行動を共にする気はないと言った。ひこうりつてきなのだ、と。そもそも彼が何を目指しているのか私は知らないけれど、何事も一人でやるよりも二人でやったほうがいいんじゃないだろうか。例えばラーメンを作る人がいたら、お客さんに運ぶ人がいるように。
 だけどそういう発想は彼に言わせればナンセンス、らしい。変な人。思うだけで口にはしないけど。
 サンちゃんは、それでもやっぱり人が良い。彼は私が着いてくるのを、最終的には渋々だけど承諾してくれた。何が彼の気を変えたのか、私は今でも分からない。
 ただし、と彼は言った。一つだけ、条件を添えたのだ。



「もしも君が帰れる瞬間があれば、見逃さずに帰れ」



 そんなこと、言われなくたってそうする。
 サンちゃんは、私が大きく頷いたのを見届けて、それから何だか酷く痛そうな顔をして笑った。彼の背中の羽は、昔博物館で見た剥製の鳥を思わせた。



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