「そういえば、てんしって結局なんなの?」
質問は一日一つまで。そう約束したのは果たしていつのことだったか。
彼女は異世界からやってきた人間であるとは言え、疑問を抱けば熟慮もせぬまま口にするその悪癖は看過しがたいものがある。いちいちそれらの疑問に答えることが煩わしくて俺が決めたルールだったが、この日の終わりに彼女が口にした質問がそれだった。
どうして島が浮くのか。あの行列は何か。魔物が人間を襲う理由。王政とは。今日の夕飯は。空飛ぶ艇の動力源は。騎空団とはいったい何なのか。そして得られた知識を一つ一つ積んで重ねて行けば、「果たして天司とは何か」という疑問については、いつしか到達するであろう類のものだとは思っていた。が、それは予想以上に早かったと言ってもいい。星晶獣や、星の民についてといった段階を踏まえてから生じる疑問であるはずだと、俺自身が思い込んでいたからだ。だが、彼女に理屈は通じない。恐らくこの問いすらも単なる気まぐれだったのだろう。足元が濡れていないか、もしくは虫がいないかを確認してから、彼女は木の幹に慎重に腰を下ろした。あたかも己の抱いた疑問などもう脳の隅にでもないというような、間の抜けた面をして。
人気のない森の外れ。元々小さい頃からキャンプに行くことが多かったという彼女は野宿に慣れているらしく、軽い食事さえ摂れればほとんど文句を言うことはなかった。食は細いようだったが、神経の方は図太いのだろう。虫に刺されても笑い、雨に濡れても体調を崩すことはなかった。馬鹿は風邪をひかないというのは本当らしい。
騎空団向けの仕事から簡単なものを身繕って仕事をするようになった彼女は日銭を稼ぐのに苦労することがなくなった。馴染みの騎空団もできたらしく、仕事を回してもらう事も多いのだと言う。余裕ができた彼女は、今では必要もないのに二人分の食事を準備する。俺に今日の夕飯だと言って小さな包みを渡してきた彼女は、ぼやくように呟いた。
「おうちとかさ、拠点があれば便利なのにね。調理道具とかも使えるし」
街で買ってきたと言う骨付き肉はすっかり冷めてかたくなり、お世辞にも美味いとは言えたものではない。それでも彼女の善意を無駄にするのも気が引けて、齧りつきながら「君に料理ができるのか?」と口にした。そうすれば、彼女が、自分が直前に吐き出した疑問を忘れてくれるのではないかと言う一縷の望みがあったのだ。
「料理はお父さんが好きだったから、私は食べる係なの」
「はっ……目に浮かぶよ」
「サンちゃんだって料理できないじゃん、知らないけど」
「俺には必要がないからね。不要なことは最初からしない主義なんだ」
「ええ~? 何が必要で何が不要かなんて、やってみなきゃ分からないし、やってみても本当にいらないかどうかなんてすぐには分からないでしょ」
「それは君が愚かだからだ」
「そうかなあ」
馬鹿にされたところで、彼女は怒りも傷つきもしないらしい。がじがじと行儀悪く骨を齧りながら、胡坐をかいた。彼女が羽織っているコートは、もうとうに傷んでほとんど使い物にならないのに、今でもそれを肩にかけたり、腰に巻いたりしている。小柄な身体に凡そ相応しくないモスグリーンのコートは、彼女の指先まで食ってしまう。どう見たって男物だ。今さら気が付いたけれど。
栗色の長い髪は、薄い闇の中でも、月明かりに照らされて僅かに輝いて見えた。細い指先が毛先をくるくると弄び、それから彼女は思い出したようにはっと目を見開く。化粧をしなくなった彼女は、年相応の少女らしい面立ちをしていた。だが俺は彼女が一体いくつなのかを、正確には知らない。
「で、てんしってなに?」
じっと目を見て言われてしまえば、舌うちの一つもできやしない。俺は彼女の真っ直ぐな視線から逃げる様に目を逸らす。
天司。天司とは何か。説明することは簡単だ。星の民による占領時代、空の世界を完璧に管理するための自立型管理機構が作り上げた被造物。それが天司だ。そして、その中で最初に作られた完全無欠の存在、それが「彼」だった。
彼は自身が星の民による被造物でありながらも、星の民の研究者と共に、のちに天司と呼ばれる星晶獣を作り続けた。彼は完璧だった。どこにも綻びなどなかった。一つの間違いも犯さず、常に正しかった。
正しい彼が作り上げた正当な天司たちには、空の進化を支えるための役割があった。元素を司る四大天司などそのいい例だ。彼らは今なお大気に同化する形で存在していた。先に彼女に教えたように、大気中に当分に配列された四つの元素は互いに調和し、島を浮遊させるための力を持っている。今日において、この空の世界が発展しているのは四大天司のおかげであると言っていいだろう。
俺が閉じ込められ続けた二千年もの間、あの四人には役割があって、絶えずそれを果たし続けていた。そして彼を支えていた。そう思うと、じくりと腹の底が疼く。
天司とは何か。だから、その問いに答えること自体は簡単だ。
天司は、この空の世界を管理するために作られた、何らかの役割を持つ存在。だが、その説明には欠陥がある。そこにどうしたって当てはまることのない存在を、それは無視してしまっている。
彼女は俺のことを見つめていた。熾した火が揺らめいてその左頬だけを照らしていた。美しい栗色の髪は、根本だけが僅かに黒い。は、と吐き出した息が、微かに震えた。
天司って何。
「…………何なんだろうな」
俺にもわからないのだ。
彼女は何も言わずに、今なお俺のことを見つめ続けている。