美容と健やかな精神、肉体の維持、回復、増進を謳うスパ・ザ・ブルーは、各地にある他の似たような施設と比べればずっと客の年齢層が若いらしい。
さんがアンスリアさんに借りた雑誌を覗き込めばその理由は分からないでもなかった。華やかなのだ、要するに。温泉施設にプール、サウナもあれば、リラクゼーションのための設備も申し分ない。光と水が惜しみなく映し出されたそこは、アウギュステという地のブランド力と相乗効果を発揮し、若い男女を引きつける。贅沢だな、と思うけれど、口にはしない。頭目ではないけれど、ぼくだって働き者のさんに、普段の仕事を忘れて楽しんでもらいたいのだ。
最近のアウギュステは魔物騒ぎも多く斜陽がちと聞くが、港を見るにまだ賑わいは失われていないらしい。とは言え確かに人でごった返すほどの混雑というわけではなかった。観光シーズンの穴を縫うような形で休暇をもらったことも、大きな理由の一つだと思う。
潮の匂いと、木の葉が擦れるのに似た音がする。「海だぁ!」とはしゃぐさんに、口元が緩んでしまった。海は苦手だって言っていたのに、子供のように喜ぶ姿がどうにも面白くて。
髪を浚う風は塩分を含んでべたついていた。だけど、さほど煩わしくもないな。そう思うのは、隣にさんがいるからなのかもしれない。つばの大きな麦わら帽子を被って、膝丈のワンピースを着たさんは、踵の低いサンダルを履きながら、先ほどもらったアウギュステ全体マップを広げている。
「下を見ながら歩くと危ないですよ」
注意したぼくに、彼女はぱっと顔をあげた。麦わら帽子のつばで影になっていた瞳は、日光の下だと茶色がかって、ガラス細工のように見える。「ごめんなさい」地図を折りたたんで、首のあたりの汗を手首で拭うさんに、日傘でもあれば良かったなとぼんやり考えた。
「私、楽しみで、昨日は全然眠れなくて……。カトルくんは昨日は眠れた?」
「まあそれなりに」
「それなりにかあ」
大きめのボストンバッグを抱え、ぼくの言葉をオウム返しにするさんは、とっておきの内緒話をするような仕草で「でも私、昨日はローアインさんたちにも早くあがっていいって言われて、すっごく早くベッドに入ったんですよ」と口にする。こういう仕草、街に住む比較的年少の子供がよくしていたな。それこそ何か楽しいことがあったときに。そう思うと微笑ましさもあったが、睡眠不足の状態で体力の方は持つのだろうか。
グランさんたちとは、港で別れた。何人かの団員が休暇のためにぼくたちと騎空艇を降りたのを見送りながら、「僕達も昼過ぎには発つから、ゆっくり休暇を楽しんで」と手を振るグランさんに、さんが「うん! グランくんたちも気をつけて! 」と元気よく答えていたのは少し前のことで、今ぼくたちは二人で目的地へと向かっている。他の団員たちはこの休暇をビーチで過ごすらしく、手前の三叉路で別れたのだ。揺るやかな坂の先に、ぼくらの目指すスパ・ザ・ブルーは建っている。
一体何が入っているのかは知らないけれど、彼女の細い右肩にかかったボストンバッグはぼくの荷物と比べれば随分大きかった。勿論女の人は色んな準備も必要だろうから、それについてとやかく言うつもりはないが、それでも「やっぱりそれ、持ちましょうか」と声をかけてしまう。ついさっき尋ねたときも大丈夫だと断られたから、恐らく頷きはしないだろうとは思っていたけれど、寝不足でふらついた拍子に転ばれても困ると思ったのだ。
ぼくの心配を余所にさんは緩く首を振る。
「これね、見た目ほど重くはないんですよ。それに私、案外力持ちなんです」
普段から食堂の手伝いをしている彼女は荷物持ちに慣れていて、その細腕からは想像もできないほどの荷物を抱えて歩いているところも何度か見かけている。でも、これは仕事ではない。ため息を吐いて、「わかりました」と言った後、ぼくは自分の荷物を彼女に向かって差し出す。
「じゃあ、せめてこれと交換しましょう」
「え」
「ここで体力を使われても困るので」
大したものなんか入ってない。必要な分の着替えと、身だしなみを整えるための細々としたものが幾つか入れられただけの鞄は、さんの荷物と比べれば重量なんてあってないようなものだ。
麦わら帽子の下で、さんはその瞳を丸くしてぼくを見上げている。揺らいだように見えたのは、この焼け付くような暑さのせいだろうか。ノースリーブの袖から出た、筋肉のない生白い腕がそろりと自分のバッグの持ち手部分を撫でる。彼女の中にあった逡巡をねじ伏せるようにその瞳を見据えたら、さんはとうとう眉尻を下げて小さく微笑んだ。
「……うん、じゃあ、おねがいします。変えっこ」
バッグを差し出すさんの頭は今日はきれいに編み下ろされていて、受け取りながら、ぼくはそれについて、やはり何か言葉にすべきだろうかと思いを巡らせる。さんは兎に角不器用な人だから、自分の髪をここまできれいにまとめることはできない。普段は頭の後ろで一つに結ぶのが限度だし。今日のためにわざわざ凝った髪型にしたのだろうが、一体どこの誰に触らせたんだろうという苛立ち一歩手前の疑念の影は濃いまま、結局それについて何か口にすることはできなかった。
星屑の街とは違う、徹底的に整備された街並みを二人で歩くぼくの指先に、何かが触れる。ぼくの身体と反対側の肩にバッグを引っかけたさんが、ぼくの手に自分のそれを伸ばしたのだ。殺気の微塵も籠もらない温い手だったから、過剰な反応をせずに済んだ。そのまま躊躇いがちにぼくに手を重ねたさんは、目線をどこに置くべきか散々迷って、結局そろりとぼくを見上げた。微かに力の込められた指先に、ぐ、と来てしまう。
ぼくらはさほど背丈が違うわけではないけれど、それでも彼女の方が背が低いことに変わりはない。もともとヒールの類も苦手な人だから、ぼくより目線が高くなるときなんてせいぜい段差のある部分にさんが立つときくらいだ。必然と上目使いになった彼女に様々な感情が込み上げてくるけれど、それは、ここのところずっと身体の底に押し込め続けて見て見ぬふりをしていた高揚のせいでもあるのかもしれない。受け入れがたかったのだ。自分が柄にもなく、この日を楽しみにしていたことを。
太陽からの容赦ない光線に眩暈に似た感覚を覚えながら、さんの手を柔く握り返す。
「あっ! あれですよね!」
坂の上にある、遠目からでも見えていたはずの建物を、彼女はもしかしたら今やっと認識したのかもしれない。はしゃぐさんに「そうですね」と相槌を打つ。
骨とちょっとの肉と、白い皮でできた彼女の指はぬるくて、僅かな力でひしゃげてしまいそうなほどに、優しいつくりをしている。