シエテさんが手配してくれたお部屋は、部屋の奥が一面の窓ガラスになっていて、陽の光に煌めくアウギュステの空と海が一望できた。扉を開けた瞬間に広がったその光景に、感激してしまう。
「わー、海だあ……! すっごい良いお部屋だねえ!」
タイルの床は綺麗に磨かれていて、清潔感がある。打ちっぱなしのコンクリートでできた壁はちょっと寒々しかったけれど、大きな窓から差し込む太陽の光がそれを和らげて、大人っぽい、モダンな雰囲気になっている。お部屋の大きさは、グランサイファーの船室三つ分、いや、もうちょっとあるかも。ベッドと、小さな丸テーブルと、一人がけのソファが二つ。左手側にある扉は洗面所とか、お風呂かな。カトルくんに持ってもらっていた荷物を交換し、自分のものをソファに下ろして洗練された室内を見回していると、ここに来るまでに消耗した体力がみるみる回復していく。子供みたいにワクワクしているのだ。家族旅行を思い出してしまって。勿論、こんなにオシャレなホテルとか、家族で泊まったことはなかったけど。
さすが若者たちに人気の施設、スパ・ザ・ブルー。部屋の中を一通り観察し終えた後、一枚窓に張り付いて海を眺めていると、背後でカトルくんが小さくため息を吐いた。
「本当に良い部屋ですよ、よっぽど高いはずだ。……見栄っ張りな人だな……」
独りごちるように続けたそれは、多分、シエテさんのことを言っているんだろう。実際、こんなに良いお部屋ならお土産くらいじゃ絶対に足りない。どんなお礼をしたらいいのか、後で二人で考えよう。シエテさんのことだから、「お兄さんは二人が楽しんでくれたならそれで充分」って笑ってくれるだろうけれど、それにしたってこちらの気も済まないから。
バルコニーに出られることに気がついて、荷物の整理もそこそこに扉を開けて外に出る。「わー!」髪を撫でる潮風が心地良い。手すりに身体を預けて、一面に広がる海に感嘆の息を吐いてしまう。泳げないし、しょっぱいし、痛いし、遊びに行くっていう観点で言えば海はそんなに好きじゃないけれど、眺めるのは好きだ。水面がキラキラ光って、その反射に目を細める。
生まれては消える白い漣をただただ目で追っていると、視界の端にカトルくんが見えた。ついてきてくれたみたいだ。カトルくんは私の隣に立って、言葉もなく海を眺めている。草原を撫でる風にも似た音の中で、私たちは互いに何も喋らずにいる。何故だか急にドキドキしてしまって、困った。二人きりなんだって、今更思い知ってしまったのだ。
「あ、あー、あの」
「なんです? 」
「ええと、夕陽とか、こっちに沈みますかね!?」
「夕陽? ………………ああ、まあ、目の前とはいかないでしょうけど。多分方角的にはこっち側じゃないですか」
その言葉に、つい喜びを表情に出してしまう。ぱっと目を見開いた私に、カトルくんはちょっと不思議そうな顔をしていた。夕陽如きで一体何を、って思ってるのかもしれないけれど、水平線に沈む太陽って、こっちの世界じゃ滅多に見られない。一緒に見られたら、嬉しいな。二泊もできるなら、今日か明日のどちらかは見られるかもしれない。
いつも依頼や会合に行くときに着ている十天衆を象徴するマントを脱いだカトルくんは、涼しげな目で私を見つめている。小綺麗なシャツにハーフパンツっていうラフな格好が珍しくて、良く似合っていて、どうしたら良いか分からなくなる。場所も、雰囲気も、何もかもがいつもと違うから、どうしたって緊張してしまう。
「……そんなに嬉しいんですか?」
「えっと、夕陽、見たい、うれしい」
息が苦しくなりそうだったから、紛らわすようにそう言った。片言になっちゃって、ちょっと恥ずかしかった。
瞬間、潮風に浚われた髪が私の視界を半分くらいを覆ってしまう。カトルくんの身体の奥にある隣のお部屋との間に、きちんと目隠しのための衝立があることにその時気がついたけれど、でも、カトルくんの指が私の頬を撫でる方が早かった。風が止んで、髪が重力に従って肩の上に落ちるときにはもう、目の前にカトルくんの顔がある。
「わ」
咄嗟に漏らした声は、そのままカトルくんの唇に封じられてしまった。ちょっと触れるだけのキスだった。ほんの少し私の唇を掠めた後、すぐにそのまま離れていく、離れていく、んだけど、良くないと思う。だって、心臓が止まるかと思った。緊張はしていたけれど、そういう意味では気を抜いていたのだ。だって、外なんだもん。
「か、とるくん」
唇を押さえて後ずさりしながら、「そ、外だよ」と口にする。ワンピースの裾が風で膨らんだ。カトルくんはさして表情も変えずに「誰も見ていなければ中も外もなくないですか? 」と言うから、ちょっと考えてしまった。それは一理ある、ような、ないような。
隣のお部屋のバルコニーと繋がっているとは言え、床にしっかりと固定された頑丈な衝立はある。人は絶対に行き来できないし、覗き見できるような隙間もない。眼前は海で、五階の客室をビーチから覗き見ることは到底不可能だ。そうなると、確かに人から見られるような心配はない気がする。
「…………そうかも…………?」
神妙な声音になったのを、カトルくんは小さく笑った。それが何だか、いつも難しい顔をしていることの多いカトルくんが普段あまり見せない、年相応の男の子のそれであるように思えて、胸が跳ねたような心地になった。
手首を掴まれて、引っぱられる。体幹なんか鍛えてないから、呆気なくバランスを失って、カトルくんの胸の中に収まってしまった。びっくりして息が止まる。エルーン族の薄い身体は体温が高くて、触れた部分から、カトルくんの存在をありありと感じてしまう。ばくばくと心臓が鳴っているのが、この皮膚を通じて伝わってしまっているんじゃないかと思うと気が気でなかった。
そろりと視線を上げると、だけどカトルくんは、何もかも見透かしているかのような目で私を見ている。赤みがかった瞳はそのまま私のことをまるごと飲み込もうとしているみたいに見える。こんなに綺麗な人が私のことを好きでいてくれているなんて、何かの間違いなんじゃないだろうか。事あるごとに、今でもそんなことを考えてしまう。
だけどカトルくんは、私の心の中を覗き込んで、その思いを否定するみたいに目を細めた。指先が私のおでこを撫でて、分けた前髪の間から覗く皮膚に乾いた唇を押し付けるから、びっくりして目をぎゅうと閉じてしまった。腰を撫でられて、ぞわりとする。声だけは漏らさないように、ぎゅうって唇を噛んだ。
塩分を含んだ風が頬を撫でていて、海の方では子供の笑い声も響いている。罪悪に似た背徳感が芽生える。カトルくん、ここ、さっきは言いくるめられそうになったけど、やっぱり外だよ。そして私たちは、遊びに来たんだよ。プールとか、サウナもあるんだよ。そりゃ、ちょっとはこうして、その、いちゃいちゃというか、二人でのんびり過ごしたいな、とも思っていたけど。せめて夜になってから、じゃ、だめ?
「顔、あげて」
耳元で囁かれて、「ひ」と声が漏れる。あげて、って言われたのに、その前に顎を掴まれて持ち上げられた。この空気で、私が流されないわけがない。
あ、また、キスしちゃうんだ、って覚悟を決めた、まさにその時だった。
「わ、外出られるじゃん!」
衝立の奥から隣室の宿泊客らしき女性の声が聞こえて、私はびくりと飛び跳ねる。不意を突かれた、っていうよりは、私が大仰に反応したことで気が削がれたのもあるんだろうけれど、カトルくんが私から手をぱっと放してくれたから、そのままカトルくんから距離を取って、身を守るみたいに胸の前で手を組んでしまった。
「やば、めちゃ絶景だ~!」
女性客の朗らかな声に、何も悪いことなんかしてないのに、どうしてか息を潜めて、そろそろと室内に続く扉を開けて、「に、にもつを、整理してきます」と小声で告げ、カトルくんを置いて部屋に戻った。そうしてみるとさっきは全く意識していなかったというか、気に留めてなかったというか、確かに視界に入っていたはずなのに何故か普通に受け入れていたキングサイズのベッドにびっくりしてしまった。ベッド、一個だ。今日はここで寝るんだ、二人で、って思ったら、妙に動揺してしまって、困った。
カトルくんが部屋に戻ってくるまでに、この顔の熱をどうにかしなくちゃいけないと思って、咄嗟に両手で頬を叩いたら、存外良い音がした。さっきまで抱いていた、三日間ずっと一緒にいられるんだっていう高揚感よりも、幻滅されないようにしなくっちゃっていう気負いのようなものの方が、今はよっぽど強い。