姉さんの言葉を信じるなら、彼女は今日の夜に「さん」と入れ替わる。つまり元に戻るらしい。
十年前のさんとどう接したら良いのか、どんな風に一日を過ごすべきなのか、ぼくは割と真剣に悩んでいたのだけど、「ひょっとして場が持たないのではないか」という心配については杞憂に終わることになる。
さんはこの星屑の街を半日以上かけて具に観光した。「さん」が子供達と植えた花を見てまわり、先日外の魔物に破壊された柵の補修を手伝い、彼女が姉さんと二人で作った、大きな街にあるものに比べたらおもちゃのような図書館を見ては感嘆の声をあげた。子供達も最初は一回りは幼くなったさんの姿に驚いていたけれど、事情を説明すれば分かってくれる賢い子たちばかりだから、その点についても問題はなかった。子供達に「ああ、そういうことしそうだもんね」と頷かれる度、さんの方は複雑そうな顔をしていたけれど。
「未来の私ってそんなに……その、アレなんですか?」
不本意であるのかもしれないけれど、僕はそういう、行動力や柔軟性のあるあなたのことは、嫌いではないのだ。こういうことは一度や二度ではなかったし、周囲を巻き込みがちっていう点に関しては、もう少し考えて、反省してほしいとは思うけれど。
彼女が厳密にはいつ頃のさんなのかを細かく確認することはどうにも憚られたものの、何度かこの街に来たことがあるらしいこと、グランサイファーではコルワさんと同室であるということなどが判明すれば、大体の状況は把握できた。ぼくが贈ったあの指輪をしているなら、彼女はぼくが四天刃に取り込まれたことも知っているだろう。だったら、もしかしたらさんの置き手紙に記されていた「十年前の自分が未来を考えて不安がっていたこと」って言うのは、既に払拭されているんじゃないだろうか。だって、カヤノさんと出会って話を聞いたことで、もう自分が元の世界に戻ることが起こりえないだろうことは彼女自身も分かっているだろうから。
それでもさんは、それ以外に何か別の心配事を抱えていたというのだろうか。ぼくはそれを理解してやれていないということなのだろうか。過去も、今も。
一通り街を見て歩いた後、姉さんの家へと向かった。姉さんを前にして、飛び跳ねんばかりに喜んでいるさんのことを観察する。
「エッセルさん! お久しぶりです、わあ、お会い出来て、嬉しい!」
はにかむさんに両手を取られ、姉さんもくすぐったそうにその眦を細めた。こんなところに突然連れてこられて困惑が勝っているのではないか、姉さんもそんな風に危惧していた部分はあるのだろう。だけど当のさんはけろりとしたもので、たった一日の奇妙な体験を、好奇心の赴くまま、楽しもうとしているようなのだ。
漠然とした不安が彼女にある。そう聞かされているぼくは、どうにもその裏を探ろうとしてしまうけれど。
さんは姉さんの手を握ったままぼくに振り向いて、「こんな風に自分が暮らしているなんて、思ってもみませんでした」とその顔をくしゃくしゃにして笑った。
「きっと、私は幸せなんですね」
その言葉を引き出せたなら、「さん」の願いは叶えたと思って良いんじゃないか。そう思ってしまうのは、一種の思考放棄か。
その日の夕飯は、街の広場に集まって炊き出しをすることにした。
さんは配膳に関してはほとんどスペシャリストと言っても過言ではなく、てきぱきと子供達にスープをよそい、大盛りにしてほしいだの、肉を多めに入れてほしいだのといった要望に全て応えてくれた。容姿や声音が多少幼くなってはいても、そういうところはやはりさんだ。引っ込み思案な子供達も普段のさんに対するような気安さで接することができるのは、その根っこの部分が決して変わっていないからだろう。
子供達に囲まれたさんはいつものように大口を開けて笑っていた。スープの香りと、子供達の明るい笑い声が春の夕の街に滲むように広がっていく。西日が広場に差し込んで、彼女が「学校の花壇みたい」と表現した花々が飴色に変色する。さんもあの花壇を作るとき、同じことを言っていましたよ。学校みたいって。あのとき喉元まで出かかって飲み込んだ言葉が、今になって口をついて出そうになる。聞かせる相手はどこにもいないのに。
子供たちと並んで食事を摂る彼女と目が合ったとき、さんはちょっと間を置いてから、眉尻を下げて笑った。それはぼくの良く知る、さんの笑い方だった。十年前の彼女が今ここにこうして座っているだなんて、改めて、おかしな気分だった。
カトルくんやエッセルさん、街の子供達と過ごしている間にあっという間に陽が落ちてしまった。カトルくんは「騒がしくてすみません。疲れたのでは?」なんて気遣ってくれたけれど、とんでもない。今日という一日は目まぐるしかったけれど、それ以上に楽しくて、充実していた。
星屑の街の端から端までを改めて案内してもらえて、成長したテオくんやアメリアちゃんとも会えた。初めて会う幼い子供たちも、臆面なく私に話しかけてくれた。「お姉ちゃん」って。私はこの街で、上手くやれているみたいだ。それってすごく誇らしい。
街は変わっているところもあったし、そうでないところもあった。街の北東にできた図書館はこぢんまりしていて、だけど色んな本が並んでいた。絵本や図鑑、各地の伝承を纏めた本、そういうものを、グランくんやシェロちゃんが集めてくれたらしい。空き家を図書館風に改装するのには私が尽力した、って言うのは、カトルくんが教えてくれた。そうなんだ、って頷く私は、どうにも神妙な面持ちをしていただろう。未来の自分が褒められているって、なかなかない状況で、どう反応するのが正解なのか分からなかった。「良くここにいましたよ、あなたは」だけど、板張りの床が軋む音や、紙の匂いの充満する、所狭しと本棚が並んだ少し薄暗い空間は、郷愁めいた感覚を胸の内に呼び起こして、カトルくんの言葉は案外腑に落ちるのだった。
街の空気は相変わらずどこか乾いたように肌を撫でていたけれど、花や緑が増えた分、どこか、風の通りが良くなったような気がする。すれ違う子供達の表情はかつてより明るい気がした。それを素直に口にしたら、カトルくんは面食らったように目を見開いた後、面映ゆげに微笑んだ。それがあまりにもきれいで、見惚れてしまいそうになった。
こんな風に十年後のことを覗き見ることができたっていうのは、ちょっとズルをしているみたいだ。星晶獣の力を借りてそういう機会を作ってくれた未来の私には、感謝しなくちゃいけない。
広場の片付けをして、炊き出しに使った大鍋をエッセルさんと片付け終えた頃には、もう夜になっていた。エッセルさんは言葉少なだったけれど、エッセルさんのおうちをお暇するとき、扉のところで私を抱きしめてくれた。「またね、」って。それから、真剣な声で、真っ直ぐ私を見つめて続ける。私にしか聞こえないくらいの、微かな声音で。
「あとは、カトルと良く話をして」
これはが望んだことだから、って、耳元で囁かれたその言葉を、私は本当には理解できていなかったのかもしれない。離れていった体温の先で、エッセルさんは私のことをじっと見つめていた。家の灯りを背負ったエッセルさんの輪郭は淡く滲んで、今にも消えてしまいそうだった。
これから消えるのは私の方なのに。
「行きましょうか、さん」
エッセルさんの言葉は、やっぱりカトルくんには届いていなかったみたいだ。彼はもう私に手を差し伸べない。ただ、柔らかい、穏やかな声を向けてくれる。
星の良く見える、静かな夜だった。私はあと数刻で、元の世界に戻る。