「私が元に戻るのは、日付が変わる頃なんでしょうか」
「さあ、どうですかね。星晶獣とさんの契約によるとは思いますけど」
ぼくの言葉は思ったよりも素っ気なく響いたように思えて、言い終えてからちらりとさんを見たけれど、彼女は「そうですよね。正確に何時ってことは、わからなそうですよねえ」と、さして気にした素振りもなく口にするだけだった。
具体的なタイムリミットがあとどれくらいかは分からない。少なくとも、昨晩ぼくが帰ってきたときには二人は入れ替わっていた。丸一日というのが期限なのだとすれば、厳密にいつがそうなのかを特定することは難しいだろう。
さんは姉さんの家を出た後、「あの、少し歩きたいんですけど……だめですか?」と、窺うようにぼくを見上げた。薄闇の中でその表情は酷く弱々しいもののように見えて、頷く以外の動作を封じられてしまう。ぼくはさんがいくつであっても、どうにも彼女に弱いのだ。「構いません」と言ったぼくに、さんは屈託ない笑みを浮かべた。実際の年齢よりも幼く見えて、罪悪感のようなものまで芽生えた。十年前のぼくはこんな女の子を意のままにしていたのかと思うと、申し訳なくなってしまったのだった。
星屑の街の夜は、灯りが少なく、他の街に比べると余程薄暗い。十年前、こうして彼女と並んで歩いたことは記憶の底の方にきちんと片付けられていたし、勿論、ここに至るまでに何度だって彼女とこの道を歩いている。だけど、この人はぼくと共に生きてきたさんではないのだ。
「なんだか不思議な感じ」
さんはぽつりと漏らす。代弁されたように思えて、その顔を見つめる。家々から漏れる灯りや街灯の作る円を踏むその爪先は、酷く軽やかだった。
「十年後の私はこんな風に日々を過ごしているんですね。グランサイファーを降りて、カトルくんと、エッセルさんと、子供たちと一緒に」
それってすごく素敵ですね。
さんの声は、人気の無い街並みの中に溶けるように消えていく。
「…………この十年、何があったとかは、聞かないんですか?」
気がつけばそんなことを尋ねていた。意図的に避けていたことだ。
ぼくや姉さんが、敢えて口にはしなかったこと。例えば今のぼくたちの関係とか。マフィアのことも。さんが「どういう状況」であるとかも含めて。
さんは「んん」と首を傾げる。
「本当はもっと色々聞きたいこととか知りたいこととかあるんですけど、それ聞いちゃったら狡い気がして」
「狡い?」
「そう、狡い」
言いたいことは、分からないでもない。
彼女はこれから元の世界に戻って、そうして一つ一つ、あらゆる物事を経験していく。その先にどんな障害があろうと、ぼくや、グランさんたちと一緒に乗り越えていく。そのとき、今日の記憶はどうしたって障害になる。彼女にとってそれがどんなに「素敵な」ものであったとしても。
だけど、狡くはないんじゃないですか。
言いかけた台詞は飲み込んだ。彼女を惑わせることになると思ったのだ。
ぼくは全てが元に戻ったとき、今回のことにかかわる記憶はぼくたちの誰にも残らないんじゃないかと考えている。
ぼくらは誰一人として十年前のさんがやって来たことを知らず、さん自身も自分が彼女と入れ替わって過ごした一日を覚えていない。そうでなければ、どこかに確実に「歪み」が残るはずだから。歪な世界を維持するだけの力は、恐らく件の星晶獣にはない。
ぼくの隣を歩くさんは、きっとそういうことにまで考えが及んでいないはずだ。姉さんも、きっとそうだろう。ぼくは彼女のことを忘れるし、彼女もこの一日を失う。この街で見たもの、聞いたもの、温度も匂いも、何もかも。
だから本当は、この瞬間には何の意味もないのかもしれない。彼女が何を知ろうと、ぼくが何を話そうと。
先を歩くさんの背を見た。
星の瞬く空の下、訪れた春はどこまでも生温かい。ぼくの厭う季節だった。頬を撫でるあのぬるさがぼくは嫌いだった。ぼくの良く知る彼女よりも、ずっと幼いさんが振り向く。長い髪が揺れる。
何と尋ねるべきなのか、すぐには言葉が出てこなかった。丸い瞳がぼくを不思議そうに見上げても尚、声にならない。だけど、さんが残した「不安がっていた」という置き手紙が、ぼくの皮膚を引っ張り続けるのだ。「きっと私は幸せなんですね」と、彼女が微笑んだとしても。
こういうとき、さんは、何かを汲み取ったように言葉を口にしてくれることがある。意図的なものではないらしい。ただ、その時思ったことをそのまま言っているだけなのだと、申し訳なさそうに笑う。だけど、ぼくはいつもそれに救われていたのだ。
今このときだって。
無意識に、ぼくたちは子供達の暮らす家々の明かりから遠ざかろうとしていた。虫の音や、木々の葉を風が揺らす音だけが耳に残る、静かな春の夜だった。
さんが左手に嵌った指輪をそっと撫でる。十年前のぼくが彼女にあげたもの。同じものが、ぼくたちの寝室にある。
「カトルくんも幸せそうでよかった」
それが少し不安だったんですと、彼女はそう笑った。
私じゃなければ嫌だと、この指輪を渡してくれるときにカトルくんは言った。
それを疑っていたわけでは決して無いけれど、私は、不安だったのだ。いや、それだと少し、語弊があるかもしれない。私はきっと、怖かった。カトルくんが、戦えもしない、何か特別なことができるわけでもない、価値観のまるで違う世界に生まれ育った私と一生を共にすること。私という存在を背負うこと。カトルくんの背に、それは重くはないだろうか。そういう不安が、自分の立つ影の中心に穴を穿つようにひっそりと息をしていた。
それがすぐではなくても、いつか少しでも私を重荷に感じたとき。或いは、例えば彼にとってもっと身近で、魅力的な、エルーンの女の子が現われたりしたら。そういう覚悟を、ふとした折に生まれる自分の溝に挟み込んでおかなければ、いざというとき動けなくなってしまう気がした。最悪の事態という言葉で括って良いのかは分からないけれど、そういう不幸や、思いも寄らぬ出来事っていうのは、時によって突然自分に降りかかるものだと知っていたからこそ。
だけどカトルくんは、私を星屑の街に連れてきて、本当の家族にしてくれた。
カヤノさんの言葉を借りるなら、私をこの地に根付かせてくれた。
途中で放り投げられたとしても、私は何の文句もなかったのに。
「………………そんなことを考えていたんですか」
緩くウェーブがかった指輪の嵌る手の甲に、影が落ちて、顔をあげた。そうしてカトルくんの表情が視界に入ったとき、息が止まる。何と形容したら良いのか、分からなかった。色んな感情がぐちゃぐちゃに交じり合った目だ。カトルくんの、赤みがかった、飴玉に似た眼球の輪郭が歪んでいる。そういう目を、彼はたまにする。
叱られるものと思って続きの言葉を待ったけれど、彼はもう何も言わなかった。ただ、細く長い息を吐くだけだった。
長い沈黙は、だけど、この身を刺すほどの鋭さを持ってはいない。
私は、この世界の私がどうして自分自身を入れ替えるような真似をしたのか、その理由を知らなかった。だけど、目の前のカトルくんは、今、何もかもが腑に落ちたかのようにその目を閉じている。そっと手を取られる。「間違えました」と、彼はもう言わない。その低い声が鼓膜を震わせる。十年分の月日を重ねた、だけど、柔らかい声が。
「今日見た全てを忘れたとしても、どうかこれだけは覚えていてください」
カトルくんが僅かに膝を曲げる。手の甲を緩く持ち上げられたと思ったそのとき、その乾いた唇が指輪のはまった薬指の根元あたりに押し当てられて、息が止まった。
「あなたの不安は全て、現実のあなたの隣にいるぼくに話すこと」
「…………すべて?」
「そう。……あなたが抱えている何もかも察して全てを与えてやれるほど、ぼくはできた人間じゃないから」
唇は離されたけれど、その手はいつまでも私の指先に触れていた。頬に熱が籠もっていくのが分かる。握られた手に力が込められる。「……グランさんだったら、そうでもなかったのかもしれませんけどね」緩く後ろに結ばれた彼の髪が、微かに揺れる。伏せられた睫毛も、真っ直ぐな鼻梁も、下がった眉尻も、全てが愛おしく、美しかった。
「それでも、ぼくが一番さんのことを大切に思っているんですよ」
硬直したまま動けない私に首を傾げて微笑んだカトルくんは、どこか、泣き出しそうにも見えたのだ。
騎空艇の傾きがダイレクトに伝わって、びくりと身体が揺れてしまった。
ベッドの中で目を覚ます。寝返りを打ちながら、焦点の合わない瞳で天井を見上げる。馴染み深い木目模様に、無地のシーツ。なんだか妙に身体が重くて、放り投げた手が言う事をきかない。
今日は仕込みの当番だったか、それともお休みだったか。珍しく、頭に靄が掛かったような寝覚めの悪さを覚えている。それでもどうにか起き上がって、身支度を調えた。厨房を覗いて来ようと思ったのだ。当番でもそうじゃなくても、お手伝いをしようと思って。隣のベッドではコルワさんがすやすやと寝息を立てていたから、なるべく音をたてないように、こっそりと部屋を出る。
窓から差し込んだ朝陽が、廊下に丸い陽だまりをいくつも作っていた。その道しるべのような円を踏みながら、そういえば、ついさっきもこんな光の円を歩いたなって考える。でも、さっきってなんだろう。今までずっと寝てたのに。夢でも見たのかな。そういえば、何だか奇妙な夢を見ていたような気もする。物凄く長い夢を。
早朝、人気の無いグランサイファーは、駆動音だけを低く響かせていた。そう思っていたけれど、それに混じる人の足音がある。カトルくんのものであるように思えて、顔をあげる。曲がり角から、見覚えのある靴の爪先が見えた。カトルくん。呼んだ声は、どうしてか、上擦ってしまう。
「ああ、さん。おはようございます。今日は当番でしたっけ」
「おはようございます。……それが、どうだったかなあって。当番かそうじゃないのか、忘れちゃったんです」
「へえ、珍しいですね。ひょっとして寝ぼけてます?」
「いや、寝ぼけてはない、はず、だけど」
なんだか長い夢を見ていたみたいで、そのせいか、頭がふわふわするんです。厨房に向かう道すがら、隣を歩くカトルくんにそう口にする。「ああ、ぼくもです」ちらりと目線を向けた。なぜか、私はその視線を向ける高さを間違えてしまった。カトルくんの耳の付け根あたりに彼の目があるような気がしたのだ。カトルくんの言う通り、本当に寝ぼけているんだろうか。
どんな夢? と尋ねた私に、カトルくんは眉根をそっと寄せた。考え込むように口元に手を当てて、言うか言うまいか、迷ったように口を開きかけては閉じて。
「あまり細かいことまでは………………でも、さんがいましたよ」
「ええ~、そうなんだ。私、何してましたか?」
「………………」
カトルくんの涼しげな目線が、何か考え込む様に私の目から外される。「――またあなたが面倒なことをやらかして、ぼくもグランさんもそれに巻き込まれたような……」って、そんな風に言われたら、謝るべきなのか笑うべきなのか、分からなくなってしまった。でもカトルくんは続ける。
「――悪い夢ではなかったですけどね」
カトルくんが笑ってそう言ってくれたから、それだけでなんだか、救われたような気がしたのだ。
夜の間空を飛んでいた騎空艇が、旋回を始める。舷窓の奥に見える街は、今、春だ。