「おはよう、カトル」
「……おはよう姉さん」
予想通りに寝付けないまま夜が明けた。彼女を起こす前にとぼくが向かったのは裏手の一軒家で(ぼくがかつて姉さんと暮らしていた家だ)、姉さんはお湯を沸かしてぼくの来訪を待っていたのだった。
元々朝に弱い人ではないけれど、ずっと変わらずにある一枚板のダイニングテーブルに既に二つのカップが準備されていたことを思えば、ぼくがこのタイミングでここに来ることを分かっていたとしか思えない。
カモミールとレモンが混じり合ったような、馴染みのない茶葉の香りが広がっていた。すん、と鼻を利かせれば、「この前と買った茶葉。試飲させてもらって、気に入ってたから」とまるでぼくの心を読み取るように姉さんは口にする。それが例の星晶獣とやらに会いに行った日のことなのか、また別の日のことなのかは定かではない。二人は良く一緒に出かけたりしているから。
ぼくは姉さんのこともさんのことも信頼しているから、二人が決めたことに今更不信を募らせているわけではなかった。ただ、一応確認だけはしておきたかったのだ。
「……本当に一日だけなんだよね」
カップに注がれるハーブティーを見つめながら、椅子も引かずにそう尋ねる。言葉足らずであったのは自覚しているけれど、故意だ。復讐と呼ぶには細やかな反抗心。
さんが残した、手紙と呼ぶには薄っぺらい書き置きを姉さんに示す。ちらりと一瞥だけしたように見えた姉さんは、彼女の書いたそれを、概要どころか仔細まで既に知っているかのように小さく頷いた。この様子だと、恐らく添削済みであるに違いない。
「……うん。今日の深夜には戻る。そういう契約だし、大丈夫」
「……勝手だな」
「怒ってるの?」
「別に怒ってはいないよ。先に言っておいてほしかったとは思うけどね。……やっぱり心配はするから」
「は案外世渡り上手だから、過去でも上手くやれる」
「そういう点に関してはぼくも大丈夫だと思ってるよ。……あっちにはグランさんもいるわけだし」
グランさんならば、例え十年分成長したさんが突如として騎空艇内に現われたところで、事情を話せばすぐに理解を示してくれるだろう。かつて記憶喪失だと嘯いた彼女を保護したときのように。コルワさんや、彼女が手伝っていた厨房の面々だってそうだ。皆人が好いから、さんの姿に驚いたとしてもすぐに慣れるに違いない。一方で、過去のぼくがどんな反応をしてみせるかはあまり想像がつかないけれど。
あの頃のぼくは、酷く子供だったと思うから。
姉さんに目線だけで座るように促され、迷ったけれど腰を下ろす。今日一日、ぼくはあの子とどう接したら良いのかを相談したいとは思っていた。夜の間一人で考えても答えを出すことはできなかったけれど、この件の協力者である姉さんは、ぼくの相談に乗るくらいのことはしてくれるはずだ。というか、そうじゃなきゃ困る。だってぼくはあの子を散歩に連れていく以外の案が浮かばないのだから。「安心させてあげてほしい」という旨が記された書き置きを見たときはそんなに難しいことでないように思えたけれど、ここに来てぼくは、迷っていた。
どうしたらいいかな、そう口にする前にカップに手を添えて、二人が買ってきたというお茶を飲む。香りが強かったけれど、案外飲みやすい。緊張して張り詰めていた神経がゆるゆると解けていくような感覚に小さく息を吐けば、姉さんに「精神を和らげる効果があるみたいだよ」と呟かれて、そっと笑った。昔の自分が見たら、随分と腑抜けになりましたね、なんて言うのだろうなと、頭の隅で思いながら。
窓から白んだ朝日が差し込んでいる。帰ったら、まずは二人分の朝食を作ろうと、ぼくは考えている。
カーテンから透ける、柔らかな日差しを瞼に感じて目を覚ました。
空気中の微細な塵をぼんやりと目で追って、それから馴染みのない模様の天井を眺め、乾いた空気を吸い、ちょっとだけ考える。夢みたいなことが夜中にあった気がするけれど、夢ではなかったみたいだ。飛行中の駆動音も、人の気配もほとんどないそこは、やっぱりグランサイファーではない。
夜中に起こされる場合と違って、充分な睡眠時間を取ったときの寝起きは良い方だった。上半身を起こして、部屋の中をぐるりと見回す。視界も、頭も、何もかもがクリアだ。夜中に起こされたときよりも冷静に、私は周囲を観察することができた。
私が今眠っていたのは、二人が眠れるくらいのサイズのベッドだ。マットのスプリングはしっかりしていて、多少動いたくらいでは軋まない。グランサイファーの個室よりも広い、白い壁の部屋、ベッドはその壁側の中央部分に置かれている。窓は起き上がって周囲を見回す私の頭の後ろ側に、二つ。引かれた生成りのカーテンは部屋を明るくさせるけれど、あんまり遮光には適していない。
テーブルや本棚、小さなチェスト。家具や小物が並んでいても、乱雑さは感じなかった。未来の私はお片付けが上手になったのだろうか。だったら良いんだけど。でも引き出しの中がめちゃくちゃになっていたらしいことを思えば、期待はできないか。
一緒に寝ないので、の言葉通り、カトルくんは部屋には居なかった。眠ればこの状況も変わるかも、という希望を打ち砕かれてしまった以上、これからのことを相談したいとは思うけれど、勝手に家の中を彷徨いても良いのかどうか判断に迷う。
頭の後ろ側にあったカーテンに目をやったのは、外で子供の笑い声がしたからだ。そういえば、一緒に暮らしているって言ったけれど、ここはどこなんだろう? 自分の中で何となく答えに近いものはあるように思えたけれど、やっぱり目で見てみないことには分からない。そっとカーテンを引く。自分の顔の分だけ。そんなところで慎重になってしまう自分がちょっと面白い。
そんな風にこの状況を俯瞰して楽しめるくらいには、私は余裕があったのだと思う。
他の家の屋根を僅かに見下ろす形で、この家は建っていた。緩やかな坂の上にあるせいだ。何となくけぶったように見える街並みは、私の知るそれとあまり変化はない。野菜の詰まれた荷台を押しながら歩く子供たちの姿を見る。
明るい笑い声と、補修の繰り返された形跡のある家々。乾燥した空気。ここは間違いなく、星屑の街なのだった。
「さん」
口を開けて窓の外の風景に見入っていたその時、扉の向こうから不意に声をかけられた。カトルくんだ。悪いことなんて何一つしていないのに、「はいっ」と上擦った声を出して、飛び跳ねてしまう。そうしながらも慌てて窓から顔を離して、カーテンを元通りに閉める。
扉を開けられると思ったのだ。私と彼の良く知る「」が元に戻っているかを確認するために。
「朝食、できているので。下りてきてください」
だけど、扉を開けられることもなくそう言葉にされてしまう。それに「わ、わかりました!」と返事をしながら、私は「あれ」と考える。カトルくんが階段を下りていく静かな足音が遠ざかっていく。なんで扉を開けないんだろう。まるでここにいるのが私であることが分かっているみたいに、カトルくんは姿を確認することなく行ってしまった。
扉の木目を見つめる。どんな顔をして部屋を出れば良いんだろうって、真剣に考えながら。