「じゃあ、あなたではなくこっちのさんが何かしたんですね、きっと」



 さして心配している風でもなくそう呟くカトルくんに、突っ込んだことは聞けなかった。この場合の突っ込んだことっていうのは、それこそ、一緒に暮らしているってことは、結婚、など、しているのですか、私たちは、とか、そういう方面の話だ。
 こっちのさん、とどこか気安く口にするカトルくんはやっぱりずっと大人っぽかった。知ってる人、というか、カトルくんなのに、ちょっと手が届かないような雰囲気があるのだった。じっと見つめていると、思案するように目線を落としていたカトルくんと不意に目が合う。



「どのみちまだ真夜中ですし、朝まで寝ていたらどうですか?」

「えっ」

「何をするにしても、夜が明けるまでは動けませんし」

「よがあけるまで」

「ああ、心配しなくてもぼくは一緒に寝ないので。安心してください」



 そんなことは心配していなかったけれど、カトルくんは目と口を丸く開けている私に「目が覚めたら元に戻っている、なんて可能性も、ゼロではないですしね」と安心させるように口にする。その言葉尻が柔らかかったことに、安心した。
 そうか、どうしようかと思っていたけれど、眠っていてこうなったなら、もう一回寝たら元に戻るってことも考えられるんだ。カトルくんの言葉って、不思議と説得力がある。何だか素っ気なく扱われているような気がしないでもなかったけれど、彼はちゃんと、彼なりに優しいのだった。



「うん、じゃあ、頑張って寝てみます!」

「……そうしてください」



 こんなときなのにハキハキと返事をしてしまったせいか、カトルくんが小さく笑う。困ったみたいに眉尻を下げたその笑顔は、私の良く知る彼のそれだった。その瞬間、胸の内側の真ん中を、ぱあっと彩られたような気がした。
 灯りを消してもらって、おやすみなさいと挨拶をする。扉の奥にカトルくんの足音が消えていく。ベッドに腰掛けていた私は、小さなオレンジ色の灯りがぼんやりと室内に浮かんでいる中、急に力が抜けてしまう。
 ベッドに倒れるように横になると、何だか不思議な匂いに包まれた。柔らかい、花のような香りだ。知らない匂いだったけれど、嫌いじゃない。改めて考えて見ると、シーツの色も、ベッドの弾力も、枕の柔らかさも、毛布の柄も、全部全部私の好みなのだった。部屋の雰囲気も。本棚に並んだ本のタイトルまでも。
 そこには私という存在の、残滓と言うよりもっと色濃い何かが残っていた。星晶獣の力に巻き込まれた、それだけ飲み込もうとするならば、それは私の不安を酷く煽るもののように思えたけれど、この部屋と、カトルくんの存在が、そういう得体の知れなさを全て拭い去ってくれるようだった。
 天井を見上げる。ここの天井には、何の染みもない。それが少しだけ不思議だった。








 状況から言って、あれは十年前のさんで間違いない。彼女が元いた世界でコルワさんと同室であるという、その時期から考慮しても。
 寝室を出てすぐにある階段を降りると、そのまま居間になっている。「おうちは小さい方が良い」とのさんの希望通り、ぼくたちは二人で住むには少し手狭な家に住んでいた。それは彼女にそういう欲がないからと言うよりも、単純に、広すぎると彼女自身、片付けが上手くできない、と言う理由からだ。さんは整理整頓の類が苦手なのだった。だったらそういうのはぼくがやりますよ、とは言ったのだけれど、さんは頑なに首を振る。「おうちのことは私がやります」って、まるでそういう固定観念にでも縛り付けられているみたいに。そんなのなくしたって良いんじゃないかとは思うけれど。彼女を作り上げてきた何らかを、ぼくはそういうところからも知ることができる。一緒に暮らすって、そういうことだと思っている。
 居間の灯りをつけてすぐ、ダイニングテーブルの丁度中央に、メモ書きが置いてあることに気がついた。小さな用紙いっぱいに、見慣れた筆跡の文字が並んでいる。それを手に取って、いつも彼女が座っている方の椅子を引いて、頭から読んでいく。
 全て読み切るのに時間はかからなかったけれど、二度、三度と読み返した。そうしながら、馬鹿な人だな、と考える。馬鹿な人だ。相変わらず。お人好しで、案外好奇心旺盛なところがあって、そして何より、ぼくのことを信頼している。出会った頃からずっと、疑うことをしないのだ。ぼくに初めて声をかけられたときも。四天刃に飲み込まれたときだって。
 昔の若い私にびっくりしたでしょ、カトルくん。
 そんな言葉から始まる文章を、テーブルに肘をつきながら飽きることなく眺め続ける。さんの得意げな笑みを頭に浮かべて、どうしようもなく、笑いたくなる。若い、っていうよりも、幼い、に近いと思ったけれど。



「……びっくりしたに決まってるじゃないですか」



 呟いた言葉は、星屑の街の夜に溶けるように消えていく。
 ――エッセルさんに教えてもらって、一日だけ過去の自分と現在の自分を入れ替えてくれる力を持った星晶獣がいることを知りました。昔の私は未来のことばかり考えて、とっても不安な日を過ごしていたから、十年後も私がカトルくんと一緒にいるってことを教えてあげたいの。だから、その子の力を借りちゃった。どうか昔の私をよろしくね。
 姉さんぐるみで計画を立てられていたなら、成る程お手上げだ。ここ最近彼女の体調が思わしくなかったことだけが気にかかるけれど、一日きりであるならば、一人十年前と入れ替わったところでさほど負担にもならないだろう。向こうには、当時同室だったコルワさんや、グランさんだって居るわけだし。
 あの子が起きてきたら、どうしようか。ぼくはどうも目が冴えて寝付けそうにないけれど。さんの望み通り、彼女が抱えている漠然とした不安を拭い去るくらいならできるはずだ。
 朝になったら散歩にでも連れて行こうか。今は丁度春だ。星屑の街には、あなたが子供たちと植えた花が一斉に咲いている。