今日は遅くなるから先に寝ていてくださいと言ったとき、彼女は「起きて待ってちゃ駄目?」と首を傾げてぼくを見上げた。
「……また我儘を言って」
「我儘じゃないもん。……だめ?」
出会ったときはそんなに変わらなかった目線はいつのまにか少しだけぼくの方が高くなっていて、ぼくと目を合わせようとすると彼女はどうしても、少しだけ上目使いになってしまう。彼女と出会ってから十年分の年齢を重ねても、相変わらずそういう仕草にぐっとくるのだから、ぼくも大概だとは思うけれど。丸め込まれてしまいそうになる前に目を細める。そうすると、彼女はいつも決まりの悪そうな顔をする。
なるべく早く帰って来るけれど、無理はしないようにと言い聞かせた。それでも「うん」と「ううん」の丁度間くらいの曖昧な返事をしただけの彼女に、不安は覚えていたのだ。
いっそこの家の裏手に住んでいる姉さんに、彼女のことを頼んでいくべきだろうか。だけど子供達の間で風邪も流行っている時期だ。心配だからと特に症状の重い幼い子の面倒を見ている姉さんに、彼女の世話まで頼めない。
それでもどうにか手早く「仕事」を片付けて星屑の街の中心にあるぼくたちの家に戻ったとき、寝室の灯りが消えていたから、ああ先に眠ってくれたんだなとほっとした。最近の彼女は、ちょっと体調を崩しやすかったから。
グランサイファーを降りて、二人で星屑の街に住み始めてから何年の月日が流れただろう。街に居を構えることを望んだのはぼくの方だったけれど、彼女は「一緒に暮らしませんか」と告げたぼくの言葉に、「嬉しい」とはにかんで言ってくれた。それは彼女が、それまで世話になったあの騎空艇の皆と別れることと同義だったのに。
ぼくはそうして彼女ひとりを浚うようにしてぼくのものにした。
彼女は屈託なく、曇りのない目でぼくを見ていた。その淀みのなさに息苦しくならなかったかなんて、そんなのは嘘だけど。
ぼくたちはそうして二人で騎空艇を降りたけれど、グランさんたちがこの家に顔を出すこともあったし、ぼくが彼女を連れてグランサイファーに行き、数か月の間グランさんの仕事を手伝うこともあったから、彼らとの縁がまるきり切れたわけではなかった。けれど星屑の街に根を下ろしたことで、ぼくたちは本当の家族になったように思う。いや、思う、じゃないか。なったのだ。だったらぼくが家族になってやると、いつかの思いを、ぼくはそうして果たしたのだった。
「……んん」
彼女の、角の取れた球のような寝言に意識を引き戻される。
薄暗い室内にはすぐ目が慣れた。すうすうという寝息に、頭のてっぺんの耳が無意識にぴくりと動く。外套を脱いでからなるべく音がしないように壁にかける間も、ぼくの背から彼女の気配は伝わっていた。じんわりと。仄かな熱のように。
シャワーを浴びる前だったけれど、どうしても顔が見たかった。今日は返り血を浴びるような仕事ではなかったし、と自身に言い訳をしながら、ぼくに背を向けるようにして眠っている彼女の傍へ歩み寄る。ベッドに片膝をつき、彼女の名前をそっと呼ぶ。眠っているから、いつもより丁寧に。いつもしているように、その唇にこっそり触れてやるつもりで。
毛布を丸めて抱き枕代わりにする彼女はいつもと変わらなかった。だけど、ぼくは眠る彼女の頬に手を添えて、そこでようやく異変に気がついたのだ。
「…………は?」
ぼくたちのベッドの中ですやすやと眠りこけている彼女の風貌が、ぼくたちが出会ったときのそれだったのだ。いや、髪の長さを見るに、もう少し後だろうか、グランサイファーを降りた彼女を迎えに行ったとき、違う、恋人になった頃、もっと後だ。四天刃にぼくが飲み込まれた、その後くらい。
匂いも、気配も変わらないのに、気の抜けた顔で、何か譫言のように呟くその声は、丸く柔い。
元々幼い顔立ちをした人だ。相応の年の取り方はしているけれど、それでもあどけなさの残る瞳をしている。角度やその日の状況によっては、子供のように見える瞬間もあるくらいで。
だけど、さすがにこれはそう言うレベルじゃないな。
一体何があったのかと思考をするけれど、こういうわけの分からないことが起きた場合、大体何らかの呪術が働いたか、星晶獣の類によるものだ。ぼくの不在中に、気付かないうちに何か余計なことでもしてしまったのだろうか。十年分の時間が巻き戻るような何かがこの家の中、或いは街の中にあるとも思えないけれど、でも、この人は時折とんでもなく突飛なことをしでかすことがあるから、分からない。
そういうところも、放っておけなくて、好きではあるんだけど。
ぐっすり眠る彼女を起こして良いものか少し悩んだものの、このまま放っておくわけにもいかず、「さん」とその名前を呼んだ。その唇から、少し鼻にかかったような寝ぼけた声が漏れるのを、ぼくはどうしたものかと考えながら聞いている。さんは、なかなか起きる様子がない。
雲一つ無い空で星が瞬く、酷く静かな夜だった。ぼくたちはこうして、たった一日だけの、不思議な日を過ごすことになる。