私がこの世界にやって来て、随分経った。
島は空に浮いていて、船が空を飛んで、人間を襲う魔物がいて、獣の耳や角が頭に生えている人だったり身体が小さい人だったり、色んな種族の人々が存在する世界だ。争いがあって、様々な主義主張、価値観が飛び交って、どこかで傷つく人がいる。そういうところは元いた世界とあまり変わらないのかもしれない。
不思議で、きれいなだけの世界じゃない。目には見えない歪みはそこここに転がっていて、何か一つでも間違えればそこに足を取られてしまう。今私がこうして笑っていられるのは、だから、きっと奇跡みたいなものなのだ。
あの時グランくんに出会わなければ。シェロちゃんのお店に着いていって、迷子にならなければ。カトルくんに見つけてもらえなければ。好きになってもらえなければ。カトルくんが四天刃に飲み込まれて、戻って来てくれることがなければ。
そういういろんな「もしも」は、いつも私の周りでひっそりと目を閉じていた。結果として何事もなく歩いてこられたことは幸運でしかなくて、私はこれからもグランくんやカトルくんの後を追いながら、綱渡りみたいに生きていくのだろうと、漠然と思っている。何かに巻き込まれたり、自ら飛び込まざるを得なくなることはきっとこれから先にも絶対にあって、後で振り返ったとき私は恐らく渦中にいるときは気がつかなかった恐怖に苛まれるのかもしれないけれど、それでも、私はきっとなんとかなる、と思っている。これまでもなんとかなったんだから、って。
本当にあなたは楽観的ですね、って、カトルくんは呆れたみたいに言うかもしれないけれど。
でも、本当にそう思っているのだ、心から。カトルくんがいるなら何だってできるんじゃないかって。
だけど、こういう方向に不思議なことが起こるなんて、私は全く想像していなかった。
漣に浚われてしまうくらい微かな音だった。どこか遠くの方で、今はもう耳にしない、懐かしい呼び名で呼ばれた気がした。
「………………んぁ?」
頬を摘ままれる感触と一緒に、自分の寝ぼけたふにゃふにゃの声が耳に入る。
夢から覚醒するとき、私はいつも無意識に耳を澄ませている。耳に入るのはごうごうという騎空艇の駆動音だったり早朝に出かける団員さんの足音だったり、たまに、本当にたまに、カトルくんの寝息だったりする。それはコルワさんがお仕事で外に出ていて、かつカトルくんが長期の依頼で不在でなく、カトルくんのお部屋にお泊まりをすることが許されるっていう、そんなにはない日のことだから、物凄く稀なことなんだけど。
だけど、今日はそのどの音もしなかった。眠りが深かったせいかもしれない。頬を指先でつんつんされて、なんだかそれがすっごく、すっごく煩わしい。私は寝起きは悪くない方だけれど、それは自発的に目を覚ました場合に限るのだ。起きるべきではない時間に、誰かに起こされるのは好きじゃない。
「んん、まだ夜でしょお……?」
胸のあたりにかけてある毛布を引っ張って、頬を守るように被る。
ベッドの向きは舷窓からの日差しが顔の方に当たらないようになっているとは言え、私は体内時計には自信があるのだ。伊達にずっと厨房を手伝っているわけじゃない。まだ自分が起きる必要なんかない、絶対ない、だからもう一回眠らせて。今夢の中で、バケツプリンをひっくり返すところだったんです。
だけど、私の頬を突いていたその人はあろうことか「ダメです」と言った。毛布の向こうから聞こえたその声は明らかにカトルくんのものだったのに、何か、どこかが変だった。
「ダメです、寝かせません。起きて下さい。…………さん」
どこが変なのか、だけど、もう全然分からない。ふわふわしている。音が何にも聞こえない、静かな夜だ。すん、と鼻を啜ったのも、癖だ。匂いから状況を判断するっていう。だけど自分の予想に反してなんだか不思議な、知らない匂いがした。柔らかくて甘い、嗅いだことのない匂いが。
毛布の上から、緩い力で肩を掴まれた。焦りがあるようで、だけど私を気遣っているのが分かるその指先に、ようやく目を開けようと思うだけの理性が戻ってくる。もう、なんですか、やめて、って、文句の一つくらい言わなくちゃって頭の端で思いながら、唸る。
「んん~、何、ですか…………?」
眠気に抗いながら、どうにか薄らと目を開けたそのとき、まず思ったのは、これも夢なのかな、ってことだ。無理やり脳を起こすために、どうにか起き上がる。弾力のあるマットレスは、私が昔使っていたものに感触が良く似ている。
「……ん?」
声と息の中間くらいの音が、口から漏れる。
そこは知らない部屋だった。グランサイファーの一室とは思えない、白く塗られた壁。ベッドの幅は一人分というにはあまりにも広くて、ちょっと動いても軋んだような音は立たない。肌触りの良い毛布は見たことのない柄をしていた。空気の匂いが違うし、ちょっと乾いている。騎空艇内に良く見られる丸い窓はどこにもなくて、カーテンのきちんと閉じられた、普通の、一般的な家屋にある普通の四角いものがある。
薄闇だった。やっぱりまだ、朝って言うには早すぎる。でも、ここはどこだろう。私、寝ぼけて別のお部屋に来ちゃったのかな?
ごうんごうんと低く響く騎空艇の駆動音は、どれだけ耳を澄ませてもない。人の気配も。目の前にいるこの人のものしか。
違う、ここ、騎空艇じゃないんだ。気がつくかそうでないかの瞬間に、改めて名前を呼ばれた。
「………………さん……ですよね?」
耳の先が僅かにへたりと垂れているその人は、相変わらず背中の大きく開いていると思われる部屋着に身を包んでいた。目が慣れて、その髪が、一際目を引く藤色をしていることに気がつく。間違いなくカトルくんだ。
だけど、どうだろう。ベッドに座っている彼は、私の良く知る彼よりも、ちょっとだけ大きく見えるのだ。端正な目鼻立ちにも、その表情にも面影はあるけれど、だけど、明らかに私の知っているカトルくんよりも、彼はずっと大人びていたのだった。
それこそ十個は年を取ったくらいに。
「…………………………カトルくん?」
夜明け前の薄暗い部屋の中で、そう呼んだ私を前に、カトルくんは困惑したように目を細めていた。
私はこの世界にとうに順応したものとばかり思っていたけれど、案外そうでもなかったみたいだ。