「今晩大事な話があるんです。少し時間をもらえませんか?」



 そんな風にカトルくんに声をかけられたとき、血の気が引いた。お気楽そうな顔をしているせいか勘違いされることがあるけれど、私は基本的にはマイナス思考で、そんな風に改まって言われるとどうにも悪い考えばかりが頭を過ぎってしまうのだ。
 エプロンのポケットに引っかけた小さめのタオルで濡れた手を拭いながら「は、はい……」と答えた私の顔はよっぽど青ざめていただろうに、しかしカトルくんは小さく笑うだけでそれ以上何も口にせずに食堂を出て行ってしまった。
 大事な話って何だろう。私、知らないうちに何かやらかしちゃったかな。扉の奥に消えていくカトルくんの背中を見送ってから、濡れた食器を拭く。



「や、でも今のパティーンは悪い話じゃねえっしょ」

「それな。んな緊張する必要ねって」



 その様子を眺めていたのがローアインさんたちだった。部屋で雑務をしていたせいで食堂に来るのが遅れたグランくんも、食器を下げながら「そうだね。今のカトル、なんかうきうきしてたし」と口にするから、私は目を丸くしてしまう。



「うきうき?」

「え? 分かんない?」

「……分かんない」



 グランくんほど観察力があるわけではないから気付かなくても仕方ないとは思うけれど、それでもそれが対恋人だと思うとちょっと悔しい。どういうところに見分けるコツがあるんだろう。こんなに一緒に居ても、カトルくんの考えていることが分かるときと、分からないときがある。
 食器を拭いていると、つるりとした光沢のあるお皿に難しい顔をした自分の目が映っていることに気がついた。カトルくんもこんな風にすぐ表情に出てくれるんだったら分かりやすいのにな。だけど、それでもさっきよりは不安感は心の奥の方に潜っている。どきどきするけれど、グランくんたちがそう言うならあんまり悪い風には考えなくて良いのかなって。
 私たちはこれまで色んなことを、周りの人たちの力を借りて乗り越えてきたから、これから先どんなことが起きてもきっと大丈夫だって、そう思えるようにはなったから。
 どきどきする心臓を服の上からそっと押さえて、カトルくんの声を、脳内でずっと反芻させている。








 呼び出されたのは、夜の甲板だった。今日は夜の間、グランサイファーはとある街の港に停泊することになっていて、風の音しか聞こえない。街の灯りが、遠くできらきらと輝いていた。カトルくんはまだ来ていないのかな、と辺りを見回すけれど、気配はない。きっと、私が早く来すぎちゃったんだ。甲板の手すりに肘を置いて、身を乗り出すようにして夜景を眺める。光の粒が散らばって、そこに人の営みがあって、そんなことを考えていたらいつまで見ていても飽きなかった。



「懐かしいですね」



 だから、不意に背後から話しかけられて息が止まった。ひ、と喉の奥から悲鳴が漏れかけたけれど、隣に立った彼の気配にそれを飲み込む。代わりに「な、懐かしい?」と聞き返せば、カトルくんは私に向き直って薄く微笑んだ。



「ええ。覚えてないですか? だいぶ前ですけど」



 忍び込んだでしょう。そう続けた彼の言葉に、そうか、とぼんやり思った。私はずっと前、この騎空艇に乗り込んできた彼に、まさにこの場所で「殺す」と言われたんだっけ。何だかもうずっと昔の話みたい。あのときはショックで何も考えられなかったけれど。



「そうですね。私、すごくびっくりした。一応、鞄を取り返してもらったときもちょっとおかしいとは思ってたんだけど」

「ちょっと、ですか。本当に見る目ないんですね、あなた」

「ないかなあ?」



 自分のことをそんな風に言う彼が面白くて、つい笑ってしまう。
 私にとっては、でも、そっちよりもついこの前のことの方が記憶に新しいかもしれない。カトルくんが四天刃を持って出ていってしまう前の日に、二人でここで話をした。あのときは彼が抱えたものに私はきちんと気がついていなくて、それで全て自分の手から失って初めて、色んな物が見えたのだ。そう口にした私に、カトルくんは曖昧に頷いている。



「そう考えたら甲板ってちょっと縁起が悪いのかも……。ここで何か話をすると、どっちかが直後に艇を降りる、みたいな感じじゃないですか?」



 はっとして口にした言葉に、カトルくんは笑う。「別に良いですよ、ぼくはそれでも」そんな風に彼が言うから、混乱した。良くないですよ。何言ってるんですか。そんな言葉が口の端からぽろぽろ漏れる。そうしていると、やっぱり私が最初に感じた嫌な予感の方が正しかったんじゃないかとか考えてしまって、泣きそうになる。なのに、カトルくんはやっぱり笑っているのだ。



「指」

「指?」



 出してください、と唐突に続けられて、私は彼の言葉を訝しみながら手の平を差し出す。その手はだけどカトルくんの手によってくるりとひっくり返された。手の甲を空に向けられて、わけが分からない。手遊びか何かだろうか。カトルくんは私の手を撫でる。



「別に、艇を降りるのは何も今すぐじゃなくても良いんです。ぼくにはまだ気概がないし、グランさんのような包容力もないので。ただ、いつか、とは考えています」



 温暖な気候の島だ。だから、あの日ほど寒くはない。ストールなんかいらない。私たちの唇は乾燥していないし、星だって地上が暗かったあの日の方がずっと美しい。



「ぼくはあなたに救われました。あなたはぼくに幸せを教えてくれた。おかしいですよね。あれだけあなたの言う『普通の幸せ』を嫌悪していたのに、ぼくは今、それがどれだけ尊いのかを知っている」



 カトルくんの瞳は私のことを真っ直ぐ映していた。痛いくらいだった。吐いた空気が、震えていた。



「ぼくがどうしようもなくだめになっても、あなたは待っていてくれた」



 一緒にだめになるような人じゃなくて良かった。掠れた声が重なっていく。「一度しか言いませんからね」と。指の先にこつりと何かが当たる。ひんやりとした、硬い感触の輪っか。目を見開いた私にカトルくんは笑った。年相応の、少年らしい笑顔だった。



さんと一緒にいると、何もかもが美しかった」



 きちんと息をしているはずなのに、目の前がちかちかして、苦しい。視界がぼやける。私の足の裏から熱が伝わって、身体中を巡って、細胞が活性したようで。身体中の毛が総毛立つ。左手の薬指の関節で一度引っかかったそれに、ぐ、と力が込められる。「こんな下らない夜景も、高いだけのお茶も、つまらない馬車の旅だって」私たちの前に落ちてくるありとあらゆるもの。いつだってきらきらしていた。私だってそうだった。「さんと一緒だから美しかった」だから。ぐ、と指の根にはめられたそれは、緩くもきつくもなかった。小さな宝石が一つだけついたそれが、ぼやける視界の中で淡く輝いている。発光している。



「だから、これからのあなたの人生も、ぼくにください」



 そっと手の平を離されて、私はまじまじとそれを見つめた。銀色の、緩くウェーブのかかった細い指輪。「ゆびわ」口にした言葉がそんなのだったから、カトルくんがその指の腹で私の指を撫でる。返事を促されているのは分かったけれど、何だかもう胸がいっぱいで言葉にならなかったのだ。だって、薄い紫色の石があったから。藤の花のような。私はそれだけで、もうあの日失った何もかもが手に入ったように思えた。殴られたようだった。
 あげるよ、カトルくんに、何でもあげる。そう思うのに、声にならない。



「……わ、私で、良いんですか」



 何とか吐き出した言葉に、カトルくんが笑う。



「あなたじゃなきゃ嫌ですよ」



 なんでそんな優しいことを言うんだろう。目の奥が痛いくらいに熱くなる。
 言葉の代わりにカトルくんの手を両手で包み込む。ぎゅうと握ったら、返事をするみたいにカトルくんは私の瞼に口づけを一つ落とした。その瞬間、私の中でいつも燻っていた不安の種が洗い流されたように思えた。抱え続けていた呪いが溶けていくような音がした。
 色んなものが脳裏を駆け巡っていく。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、叔母さん。グランくんやビィくん、ルリアちゃん、今まで私が出会った全ての人たち。
 カトルくんに抱きついた私は、とうとう本格的に泣いてしまう。回された腕が誰のものよりも温かいことを、私は知っている。一生をかけて傍にいたいと思う。
 私だってカトルくんじゃなきゃ嫌です、そう呟いたら、カトルくんはちょっとだけ掠れた声で、「知ってますよ」と呟いた。
 あなただけ、あなただけが、私の汚れも、弱さも、美しさも、何もかもを知っていた。だからあなたが好きだった。