結婚とか家族になるとか、そういういつか直面するだろう大きな問題は一先ず無視して、さんに指輪を贈るというのは悪くない考えだ。
元々いつかはプレゼントしたいと思っていたのだ。以前ホワイトデーのお返しを探していたときの、コルワさんの言葉を思い出す。
「お付き合いしている男女間での指輪っていうのも私はアリだと思うのよ。なんていうかこう、約束っていうのかしら? いつかあなたを幸せにしますっていう意思表示のように思えるのよね」
あのときぼくは彼女の言葉を話半分に聞いていた。ぴんと来なかったのだ。女性であるコルワさんがそう言うんだからそうなんだろうな、と思ったくらいで。男のぼくからすると、男避けになるかもしれないとか、指輪への認識なんてその程度のものでしかなかったから。
だけど、今なら理解できる。指輪はある種の誓いなのだと。
さんの手にさりげなく視線を向ける。今、さんはぼくの部屋で本を読んでいた。団員の誰かに恋愛小説を借りたらしい。何もぼくと一緒のときにまで読まなくて良いだろうにと思うけれど、これだったらさんの指を観察してもバレることはないだろう。
本に添えられた彼女の指は、すらっとしていて、あまり関節が目立たない。丁寧に切りそろえられた爪は生来の桃色をしている。つるりとしたきれいな手だ。水仕事が多いためにハンドクリームを欠かさずに塗るから、傍にいるといつも花のような匂いがする。
見ただけで指輪のサイズが分かるか。
ぼくが吐き捨てるようにそう思ったのは、さんがあまりにも本に夢中になっていたせいもあるのだろう。
彼女は真剣な顔で活字を追っている。この世界に来たばかりの頃は、まず文字すらも読めなかったらしいと言うのに、随分成長したものだ。声をかけようか、どうしようかと思案しているうちに、「ねぇカトルくん」と名前を呼ばれた。ああ、やっと本を読むのをやめるのかと思ったぼくに、しかしさんは「これってなんて読むんです?」と文章の一部を指差すから、ため息の一つくらい吐いたって許されるだろう。
「…………逼迫」
「ひっぱく!」
話す言葉は同じなのに、文字は違うというのはなかなか混乱するものだろうな。だけどお礼を口にしてから、改めて本に視線を落とす彼女にぼくは苛立ちを募らせてしまう。
「……そんなに面白いんですか?」
「うん、今ね、恋人が実は生き別れの兄だったらしくて」
「へえ…………」
「恋愛小説って、どこの世界でも面白いですねえ……」
全く興味をそそられない内容に相槌だけを打ちながら、さんの腿に手を乗せる。
「ひっ?」
そのまま撫でれば、びくりと身体を震わせたさんは、困ったように眉根を寄せてぼくを見た。
面白くない。そういう意図を込めて、本の栞紐を摘まんでページの間に勝手に挟む。ぼくがしようとしていることを、さんも察したのだろう。
「あ、あ、待って、今すっごく良いところで、もうちょっとだけ……」
本を押さえようとする彼女の手をそっとなぞる。だけど「面白くないです」と素直に口にすれば、さんは目を瞬かせた後、きゅ、と唇を引き結んで、とうとう自らの手で本をソファの端に置いたのだった。
身体の横に置かれた手に指をそっと絡める。触れてみても、その指がぼくよりも細く華奢であるということしか分からないのだから、指輪のサイズなんか判断できるはずがない。
難しいな、と諦めた頃、さんはぼくのそれにぎゅうと指を絡めて、「もう、なんですか」と照れたように笑った。ぼくに甘えられて満更でもない、と言わんばかりの笑みに、ぼくはどんな顔をしたら良いのか分からなくなってしまう。
暢気な人だな、と思う。その暢気さが、ぼくは愛しくてたまらないのだけど。
ぼくが居なくても平気だろうなんて、一度でも思ったことが信じられない。例えさんが平気だったとしても、ぼくの方がそれを到底受け入れられやしないだろうと、今なら素直にそう思う。